5
読みに来てくださってありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
行く場所のないクレアは、その晩を騎士団医務部の建物の陰で過ごした。上着さえ持ち出せなかったクレアは、凍えながら朝を待った。夜明けと共にクレアは守衛所に、医務部の鍵をもらいに行った。守衛は顔が腫れ上がり、血があちこちにこびりついた姿にぎょっとしたが、クレアだと分かると真っ青な顔をし、大丈夫かと聞いてくれた。その言葉にほっとしたクレアは、そのまま意識を失ってしまった。
目が覚めたのはもう昼近くだったようだ。目を開けた時、すぐ傍にジュリアがいた。
「クレア! 目が覚めたのね! 痛いところはない?」
ジュリアの目に涙が浮かんでいる。クレアはジュリアに詫びた。
「一体何があったの? 今朝ロジャーから、オスカーからあなたの妹と同じ名前の人と結婚すると報告があったって連絡があったのだけれども」
オスカーの名を聞いた瞬間、クレアの目から大粒の涙がいくつもいくつもこぼれ出た。
「クレア!?」
涙と一緒に、叫び声のような泣き声が、クレアの体からあふれ出た。冷静で、明るくて、可愛いクレア。ひどい怪我と号泣。ジュリアの中で不穏なものが渦巻いた。
「私が、馬鹿だったの……っ……騙された……ああ……人の心を狂わせて……生きる資格なんてないの!」
涙声で要領を得ない。泣き疲れてそのまままた眠ってしまったクレアの眦からは、涙が止めどなく流れている。
ロジャーの話では、朝出勤するとオスカーが婚約したと報告してきたと言う。
「とうとうクレアと一緒になれるな」
「クレア? 誰ですか?」
「お前、自分の婚約者の名前を忘れたのか?」
「いえ、私の婚約者は、スカーレットですが?」
「は? クレアはどうした?」
「ですから、クレアって誰ですか?」
ロジャーはオスカーが冗談を言っているのだと思ったが、オスカーの様子を見ておかしいと気がついた。慌ててジュリアを呼び、オスカーの様子を話していた所に、守衛所からクレアを引き取りに来てほしいという連絡があった。
「夜明けと同時にクレアさん、守衛所に来たんですが、鍵を受け取ったら倒れてしまって……顔は殴られてパンパンに腫れているし、血みどろだし、他にも怪我をしているかもしれません。動かさない方がいいと思って、守衛所で休ませているんですが……大分皆さん出勤したと思うので、移動をお願いしたいんです。それに、医務部で見てもらった方がいいでしょう? ひどい怪我です。」
男性スタッフ数人を連れて担架を持って守衛所に入ったジュリアが見たのは、一昨日見たクレアとは別人としか思えないほど顔を腫らしたクレアの姿だった。その場にいた医務部スタッフ全員が、あまりの姿に押し黙った。
「顔が見えないようにして、運びなさい」
ジュリアの低い声がするまで、誰も動けなかった。はっと我に返った同僚たちは、クレアを担架に乗せる前に骨折だけ確認する。
「骨折はありませんが、打撲痕は数えきれません」
ジュリアから唸るような声が聞こえる。同僚たちはクレアを担架に載せると、布をかぶせて顔を隠し、急いで医務部の治療室に運んだ。女性騎士の時に女性スタッフが対応するのと同様に、クレアの治療も女性スタッフが対応する。ジュリアはクレアと仲が良かった者から3人だけ選んで治療を開始した。顔の腫れは、おそらく平手打ち数十回によるもの。腕には掴まれて青あざになっている部分が複数、背中と肩には蹴ったような痕も複数。明らかに暴行された痕だ。ジュリアは最後に気がかりだったこと……クレアの純潔が奪われていないかどうかを調べた。その結果にほっとしたジュリアだったが、では誰がクレアを暴行したのかが問題となる。
オスカーはまるでクレアのことを知らないという言い方をしたというし……。
ジュリアは少しだけ目覚めたクレアの発言から、考える。ジュリアの頭の中でパズルのピースがはまり始めた。
オスカーはスカーレットと婚約した。クレアという人物の存在などまるで最初から無かったように。そして、スカーレットたちクレアの家族は、これまでもクレアを虐げてきた。スカーレットがオスカーに横恋慕していたという情報もある。クレアの、騙された、人の心を狂わせた、という言葉。
そうか、とジュリアはつぶやいた。クレアはスカーレットに騙され、惚れ薬を作った。それをオスカーが飲み、オスカーの心からクレアが消えてスカーレットを愛する心が幻覚として作用し、スカーレットと婚約した。オスカーは昨日、無断欠勤したクレアを心配して家に向かった所まで確認されている。クレアの家で全ては起きた。この怪我は全て……
「クレアの家族による暴行、ということ」
家族内の事件は、証明がしづらい。オスカーは記憶がいじられて欠損箇所と幻覚による誤った情報が混在している。クレアは聴取に応じられる状況にない。惚れ薬を作ったのがクレアなら、クレアも罪に問われる。クレアがそんなことをするはずないが、もし弱みを握られたとか脅されたとかすれば、流石のクレアでも作ってしまうかも知れない。とすれば、クレアも口を割らないかもしれない。八方塞がりだ。クレアの両親の悪賢さに背筋が凍った。こうなったら、どうやってクレアを守るかを考えた方が建設的だ。
だが、事態は思わぬ方向に動いた。オスカーがスカーレットと婚約したことが瞬く間に騎士団内に広まったのだ。クレアをよく思っていなかった女性陣が、今日の仕事の後で町中で言いふらすのは火を見るよりも明らかだ。とすれば、クレアは町中でも好奇の目にさらされるはず。ジュリアはクレアの入院中に、騎士団の女性寮に居を移す手続きを指示した。
2、3日もすると、クレアの意識がはっきりして、起きていられる時間も増えた。治療のおかげで顔の腫れは引き、打撲痕も少しずつ色が薄くなってきた。働かなくてはと思うのだが、まだ体が思うように動かない。ジュリアからゆっくり休めばいいと言われて、クレアはその言葉に甘えることにした。暇すぎて余計なことを考えそうだ。窓から覗く空は薄曇りで、木には紅葉も残す所1、2枚。寂寥感だけが募っていく。クレアはため息をついた。
タイミングが悪いもので、クレアのいる個室とは知らないスタッフが、大きな声で話しだしたのだ。
「ねえ、聞いた? オスカー様がクレアからスカーレットさんに乗り換えたって話!」
「聞いた聞いた。びっくりなんだけど、オスカー様、クレアのことなんて知らないって言っているらしいじゃない? オスカー様もひどいけど、クレア、一体何したのかしらね?」
「今度会ったら話をじっくり聞かせてもらわないとね?」
「クレアがオスカー様と結婚なんて、そもそも不釣り合いだったんだもの、良かったのよ」
「いい気味!」
「はは! ほんと!」
クレアは自分が惚れ薬を作ったせいだと知っている。だが、なぜここまで悪く言われなければならないのか。クレアは生きているのが嫌になった。外に出れば、もっとひどいことを言われるだろう。世間の笑いものになってしまったのだ。それ以上に、惚れ薬を作ったと分かれば、取り調べを受けるだろう。情状酌量されても、周りの目が冷たくなるのは避けられない。何よりも、オスカーに対する罪悪感で、オスカーの顔を見ることが怖かった。クレアを見つめていた優しいまなざしで、スカーレットを見つめているのを見るのも、辛かった。
クレアはこの世に存在しない解毒薬を作るために、森の魔女のところに身を寄せようと決めた。そしてサイドテーブルにあった紙に、ジュリア宛に辞職願を書いた。起き上がると、そっと戸を開けた。誰もいない。人の気配を探りながら、なんとか医務部を出た。騎士団内にはいろんな人がいる。配達に来ていた馬車の荷台に隠れて騎士団の敷地を何とか出ると、馬車が止まったところでそっと荷台から下りた。どうやら町中の商店街に来たようだ。クレアの足はまだ痛む。引きずるように歩いて、中心を流れる川までやって来た。橋桁が低いので、川の様子がよく見える。昨日大雨が降ったせいだろうか、川は増水して濁流となっていた。この時期にこんなに流れが激しいのは珍しい。クレアはいつもと違う川の様子が気になって、川を覗き込んだ。
その時だった。
「あら、クレア?」
声のした方を見れば、そこにはスカーレットとスカーレットを抱くように立っているオスカーの姿があった。殴られた時のことがフラッシュバックする。逃げなければと思って上半身の向きを変えたが、足がまだ思うように動かない。バランスを崩した体は、低い橋桁の外に傾いた。クレアがあっと思う間もなく、クレアの体は橋から投げ出された。周りから見れば身投げに見えただろう。驚いた様子のオスカーの横で、満足そうににやりと笑うスカーレットの顔。バシャン、とクレアの体が川に吸い込まれた。
「おい、誰か川に落ちたぞ!」
「騎士団に通報しろ!」
だが、濁流に呑み込まれたクレアには何一つ聞こえない。クレアは、オスカーの心をねじ曲げた自分に与えられた罰がこの死なのだと思いながら、意識を失った。
読んでくださってありがとうございました。
いいね・評価・ブックマークしていただけるとうれしいです!