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視えぬ炎。前を見るための灯火



「はぁ、……はぁ。はぁぁ…………!」




 静寂が満たして、果てた呼気だけが響いていた。


 全身で息をしていくが、焼けた肺に酸素は届かない。


 ディストはじっと煙の奥を見つめた。


 見つめることしかできなかった。


〚……っ、恐ろしい。一撃だったよ。ディスト・クラークス。あと一手、届けば、……私は、死んでいただろう…………〛


 歪な声が響いても、もはや体は動かない。


 煙を裂いて【銀炎】が幽鬼のごとく歩み寄っていく。踏み出すたびに熱の波が押し寄せ、星明かりが一歩ずつ後退する。


「……はは、何勝った気でいるんだよ。だからお前は何も見れちゃいないんだ」


 ディストはいっそ勝ち誇ったように笑ってみせた。


 煙が吐息に震えて渦を描いていく。


 【銀炎】が手を翳すと白銀の劫火が放たれ、視界を塗り潰して迫る。


「待て、待って……!! やめて……!!」


 縋るようなレーニャの声。


 時間の遡行も、停止も――残っていない。


 嗚呼、……泣かせてしまった。


 ――――俺は死なない。レーニャのことだって死なせない。約束は守る。


 そう誓ったのに。嘘をついてしまった。


 鋭く無慈悲な銀の輝きを前にして後悔が滲む。


(もしどうしようもないときは、お前が信じられる誰かを信じろ。信じるお前自身を信じろ)


 最中、リーダーの言葉が脳裏に過ぎった。


(誰かを信じて託せるとき、そいつを思い浮かべて、全て燃やせ。感情を意思を命を。……そうやって継ぐか、継がれるんだ)


 嗚呼……燃やさないと。まだ終わっていないから。


 言葉を交わす時間はなかった。ただ継いできたものを、与えられたものを、培ったものを、全て燃やす。



 そうやって………………炎を継いだ。




 ――――そして、銀の太陽に呑まれる。




「ディスト!! ディスト…………!!!」


 レーニャがどれだけ名前を叫んでも返事は戻ってこなかった。銀の炎は彼の亡骸さえも残してくれなかった。


 灰燼が散っていく。残火が夜を照らしていく。


「ッ…………!!」


 暖かな銀の灯火に抱擁されて、レーニャは歯を震わせて今一度立ち上がった。涙を燃やし拭っていく。


 微温。疼き。指の隙間から溢れた灯が胸の奥で小さく弾けた。


 第二の心臓ように律動し動けなくなった体に――立てと、終わっちゃいないと訴えてくる。


 熱は痛みではなかった。ただ、受け取ったとわかる。自分勝手に継いだのだ。文句を言ってやりたかったが、おかげで崩れかけた膝はもう沈まない。


 恐怖は煤けて、代わりに静かな烈が燃える。


 レーニャはじっと【銀炎】を見据えた。


 彼は攻撃の手をとめて、狂喜するように双眸を強く光輝させていた。


〚嗚呼……!! 嗚呼……!!!! これで私のもとに時計の針が二つ揃ったよ。時を揃えよう……! 私が望む時間へ――――〛


 遡行していく。


 全ての景色が、影が逆流する。


 今の時が音を立てて崩壊していく。


 砕け散った硝子砂はふわりと浮き、火花は軌跡を巻き取りながら刃先へ還る。

 

 灼いた風は吸い込まれ、焼けた匂いが薄れ、白い霧は萎んでいく。


 砂丘の崩落が巻き戻り、足跡が盛り上がって元の地表に吸い付く。


 時間の逆行が加速していく。


 空は夜へ昼へ、朝へ、夜へ。


 色彩を変え続け、周囲の全てがぼやけた色へと変わって過去へ伸びていく。


 時計の音が響く。


 視界はやがて白一色へと染まり――。


 …………光が消える。


 意識が過去に戻った時、レーニャは都市の路傍にいた。


 夜明け前の冷たさが肌を撫でる。濡れたアスファルトの匂い。


 遠くで響く車の唸り。看板の灯がまだ瞬きを覚えていない。


 街並みには見覚えはあった。銀雲急便の本部の近辺だ。


 けど……違う。過去だ。……何年巻き戻った?


「……嗚呼、私が存在する前にまで戻ったのか」


 霞掛かっていた記憶を思い出すようにぼやいた。


 継いだ炎は消えていない。


 灼けた気道もそのまま。


 私が存在しないがゆえにタイムリープはできなかったのだろう。


 心身そのものが過去に押し流された。


 ……今の私を知る者は、私しかもういないのだろう。


 【銀炎】は時を揃えた。


 …………本物の私が殺される前に遡ったらしい。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 懐かしい街並みだった。


 夜明け前の閑散とした大通りは多くがまだシャッターを下ろしたままだったが、それでも街は、世界は初めて色を取り戻していた。


 止まっていた時計はようやく動き出していた。


 濡れた舗装が鈍い白を返している。鼻につく溝の臭い。


 看板の管は冷たい息をため込み、まだ点らない。


 路地を彷徨う生ぬるい風に低く滑る紙屑。


 排気の匂いが混ざる黎明の湿り気。


 ――――私にとって愛する家族さえ一緒にいればどんなものさえも美しく見えていた。どんな些細な知覚さえも色彩を帯びていた。


〚嗚呼……!! 戻った。戻ったんだ……!!〛


 手を掲げると、掌の中で銀が脈を打つ。時の勾配が正されていく。


 針を揃え私は戻った。


 誤りを剥がし取り、奪われた瞬間へ歩み直すために。


 全てをやり直すためにここまで来た。


 時計の針は炎を継いだ【銀炎わたし】を、当時の私と同一人物だとはみなさなかったらしい。


 激情の炎に呑まれた肉体はもとに戻ることはなかったが。


 嗚呼……むしろこの炎がある限りどんな試練さえも燃やし尽くせるだろう。


〚すぐに、すぐに……行かないと…………!!〛


 【銀炎】は疾駆した。


 方角は迷わない。記憶の地図と時計の刻みが重なり、足裏へ道筋が焼き込まれる。地を焼き蹴って熱を全て加速へと変える。


 踏み出すと同時、周囲に蒸気が沸き立った。


 前へ。前へ。前へ。


 動き出した時の中を駆ける。二度と大切な家族の手がこぼれることがないように奔る。


 街灯の橙が線のように伸びて置き去りにされる。


 信号の赤が帯となって流れる。背後でショーウィンドウのガラスが震え、砕け散っていく。


 銀の残像の尾を曳いて、最期の場所へと駆ける。


 罪を洗い流すために。もう一度前を向くために。世界の色彩を見るために。マイナスから戻るために。


 加速する。残しておいた≪時針≫を行使して銀に燃えていく。


 胸を穿いた穴から生命が炎となって零れていこうが構わない。


 ――そうして、道がひらけた。


 街の外郭沿いの交差点。


 人通りも、街灯もなく薄明の朝焼けだけが照らす道の真ん中。


 ――そこに、いた。


 横断歩道の中央、薄い外套の裾を朝靄が濡らし、細い肩が風に小さく震えていた。風になびく銀の髪は母譲りのものだ。


 愛する娘の後ろ姿を目にして息がとまりそうになった。


 ……まだ生きている。まだ殺されていない…………!


〚レーニャ!! 伏せろ!!〛


 無我夢中で叫んだ。銀の炎で空気を裂いて大切な家族の、たった一人の娘の細い肩を両腕で抱き寄せる。


 同時、娘を殺すはずだった凶弾を白銀の光で撃ち抜いた。


 銀色の曇り空を切り裂く返し火。遠い屋上の奥で、狙撃手が炎に呑まれ消える。灰も悲鳴さえも残りはしなかった。


〚嗚呼……! よかった。レーニャ、間に合った……。もう大丈夫だ〛


 触れる鼓動。少し冷えた頬。ようやく家族を抱きしめることができた。炎の中で涙が滲む錯覚。


 助けることができた。


 果てしない時間を賭けてようやく愛する家族を守ることができた。


「…………【銀炎】。ようやくワタシを見てくれたな。ワタシは信じていた。貴様が助けることを」


 胸のうちで乾いた声が響いて、視線が落ちる。


 睫毛の影、虹彩の底で微かに走る紫の蛍光。――抑制の色。


 【銀炎】は初めてレーニャ・アルフィンテルンに眼を合わせた。


 自分が一度だって直視しなかった、作り物の目。


「知らないだろう……。ルサールカの炎は探知できない」


 レーニャは雷炎を決して離さず握り続けていた。


 全てを終わらせるために。


 ――――継いだ想いを燃やしていく。




 純銀の輝きが、玲瓏とした雷鳴を響かせる。


〚…………君達の勝ちだ〛


 自嘲する【銀炎】へ向けて、収斂した銀の激情を解放する。


「ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 レーニャは叫んだ。


 涙を燃やし、全てを燃やして叫び続けた。


 【銀炎】を穿ち弑する銀の轟雷が天をも貫き雲を消し飛ばす。


「――――――――――――――――――――――――ッ……!!」


 都市が揺れる。


 空に大穴を開けて朝焼けが差し込めていく。


 途方もない感情がもたらす破壊の衝撃に全てが明滅し、視界が震えた。


 心臓が激しく拍動していく。


 耳鳴りの持続音の奥で、何も燃えていない静けさに満たされていく。


 【銀炎】を包み込む炎が消えた。

 人の輪郭が戻って、その全身が灰となって散っていく。


〚…………私、むすめは〛


「保護してある」


 路上を照らす灯火が二つ。やがて一つ分だけが立ったまま残った。


 眩い銀炎が塵となって朝の色へ溶ける。


 もう動かすことのできない≪分針≫を刻まれた瞳が、淡い蛍光を灯して見届けていく。


 ――――炎が継がれた。


 時計の針は一周し、過去に殺されるレーニャ・アルフィンテルンのもとへ向かい消えた。




 ……全て終わったのか?


 嗚呼、そうだ。これでワタシの存在は消えなくて済んだ。


 けどワタシを知っている者はこの時間には存在しない。


「…………ッ」


 涙があふれてくる。ぼろぼろと。


 か弱い少女のように大声を出して泣き喚きたくなって、どうしようもなく喉が震える。嗚咽が込み上げる。


 だというのに、街は朝に向かって淡く色を取り戻していく。


 破れた雲間の光に煌めく路肩の水溜まりが美しい。


「…………ディスト、ルサールカ」


 名前を呼ぶ声は返らず、涙ばかりが熱を帯びて頬を焼く。


 誰も私を知らないこの時間が、ぽっかりと広く感じた。


 それでも…………立つ。


 帽子のつばを指で正し、震えた呼気を飲み込む。


 そして、灰を払う。


 継いだ炎がそうさせるんだ。背中を押すんだ。前を見ろと訴えるんだ。


 ……ひどい奴らだ。


「…………貴方は、誰なんですか?」


 背後から、本物のレーニャ・アルフィンテルンが姿を見せた。


 ワタシと同じ顔。同じ瞳の色。同じ髪の色をした者だった。


「……ワタシは」


 銀の焔と同化していた髪をばっさりと切り断った。


 髪型まで同じでは紛らわしいから。


 …………嗚呼、だが名前も同じでは困るのか。


 レーニャは数秒、思い悩むように空を振り仰いだ。


 銀雷が貫いて垣間見えた晴天も、だんだんと分厚い雲に覆われていく。


 だが、ワタシにはその雲も白銀色の空に見えた。


 後悔はない。


 やれることはやりきった。


 前に進めと炎に背を押されている。


「…………ワタシは銀雲急便一課の」


 ひどく悩んだ。


 こういうものを咄嗟に考える才能はなかったから。




「…………ソラ・クラークスだ」


 名前を仕方なく借りただけなのだが。


 なんだか後から恥ずかしく思えて、訝しむレーニャから顔を反らした。

次回でエピローグです。

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