広くなった部屋
――――夜になっても天気が変わることはなかった。
容赦なく突き刺す冷たい風。砂塵混じりで乾いているのに。灰に覆われた雲が薄汚れた雪まで振らせている。
今日はバイクで待ってはいなかった。
当然と言えば当然だろう。待っているならあんなメモを残す理由はない。
ディストは夜の帳を鼻で笑った。煌々と煌めく市街区で買った食品類。シチュー用の具材。そしてチョコレート。
『姉さん。何時ぐらいに帰ってくるかは分かる? そしたら合わせて準備したいんだけど。変に待つのも嫌だし、冷めてるのも嫌だろ?』
送信。……返事は帰ってこなかった。
遠くで響く銃声。立て続けに数発。
特段めずらしいことではなかった。ただその銃声はやけに聞き慣れたもので――。朝方、あの襲狼社の人に組み込んだ武装と同じ音だと気づいた。
『――――近々でかい仕事を用意できそうなんだよね』
『デカイ仕事が入るからな……』
アメリアと男の言葉が同時に脳裏を過る。不安になりすぎている? しかし嫌な可能性を考えた途端、身体は勝手に動き始めていた。
「…………ッ、考えすぎだ」
走り始める。
地面を蹴って加速していく。汚泥を踏み跳ねる。
自分に言い聞かせながらも荒くなっていく呼気。
走る脚をとめることはなかった。じんわりと汗が滲んでいく。
……銃声なんてよくあることだ。珍しいものじゃあない。
『あ、アア。カ……ギ、ギゅ、ミ』
思い出していく地下室の呻き。
父親と母親が怪物になることでさえ珍しいことじゃない。
いつ、自分の身に降りかかったっておかしくはなくて――。
「っ……!!」
息を呑んだ。心臓が強く締め付けられる。
姉さんは、アメリア・クラークスは力が抜けた人形のように壁に寄り掛かり、薄汚れた壁を、地面を血に濡らして倒れていた。
「姉さん…………! 姉さん!!」
引き攣った表情はどこまでも青褪めていく。いつもの寂れたアパルトメントを前に、ディストは歯を震わせた。買い物袋が地面に落ちる。どさりと。
そのまま駆け寄った。すぐに身体を起こして抱き上げる。
アメリアの赤い瞳がじんわりと涙を帯びて見上げた。
か細い手でディストの手を握り締めて、べったりと着く鮮血。あぁ、と。小さな呻きを零して。
隠すように手が離れようとする。
拒み、ディストはぎゅっと握り締めた。
「……ディスト。私、やったよ。……ブツ、回収。――した。これでお前を、企業の一員に…………。けど、少しだけしくじった。……今日、美味しいもの」
「待て、待て。……待てッ!! 喋るなよ……。頼むから。まだ助かるから…………」
吐く息が震えた。失血が多すぎる。治せるか――? 彼女を。
ダメだ。血が足りない。
ディストは際限なく顔を歪めた。
――――アメリアって呼んで欲しいなぁ。確かに家族みたいなものだけど、ほら、血の繋がりはないじゃん?
昨夜の言葉が蘇る。……吐息が引き攣りそうだった。
血が、繫がっていない。血液型が違う……。自分の血をわけられない。
正規の病院に頼るしかない。すぐに緊急コールを掛けた。乾いた電子音。機械音声が無機質に響いていく。
『――アメリア・クラークス様は救命保険に加入しておりません』
「待って! 今契約する……契約するから……! 今からすぐに――」
通話が切れた。
それでも僅かな可能性に賭けるように腹部の傷を確認して、――言葉が消える。
「ふーーッ、へへ。はずかしいから、……あんまり、みない、で……」
腹部にぽっかりと穴が空いていた。焼き切れた血肉。穴の向こう側。赤く削れた弾痕を見てディストは目を見開いていく。
「お……俺が、今日――――仕込んだ、武器の――……!! 俺の所為……ッ、そんな――……」
アメリアは震える手を引き寄せた。どこにそんな力が残っているのか、力強くディストを抱きしめる。伝う熱が衣服に染み渡っていく。
「……よく、あることだから。誰の、所為なんて――ないよ」
喘鳴からあふれる血。掠れた穏やかな声。ほんの数秒で華奢な腕に込められた力が抜けていく。指が背を撫でて下りていく。
「…………すこし、怖いんだ。……だ、から。アメリアって、よん、で」
「――アメリア。大丈夫……俺はずっといるから。ずっと…………」
離れていく力に反して、ディストは強く抱き締めた。
視界がぐしゃぐしゃに霞んでいく。指先が痺れてくる。どうしようもなく溢れ返る嗚咽。喉の奥がしぼむように痛む。
「…………」
「……アメリア」
もう事切れていた。
途絶えた言葉。過ぎる沈黙。雨しだる夜闇のなか、弱々しく泣きじゃくっていたが。凍える痛みに耐えきれなくて。
アメリアを抱えたまま、一人では広すぎる部屋に帰る。