ハッカ味の――
夕闇はだんだんと夜の暗さへと変わっていった。アリススプリングスの荒涼とした町並みを抜けて、《彼方の石》の採掘現場を通り過ぎて、岩肌の目立つ坂道を、何も言えないまま駆ける。
人通りは皆無だった。時々通る車の音さえ遠く通り過ぎて、決して静けさを破らなかった。
間隔の大きく空いた外灯の大半が壊れていて、夜のしじまを照らすことさえない。
昼間の狂ったような晴天とは打って変わって、今は低く分厚い雲が頭上を覆っている。星のない重たげな空全体に凛とした静けさが広がっていた。
そのうち、外灯さえもなくなると夜の闇を照らすのは銀の炎だけになった。先は冥邈としていて、何も見えなくなってくる。
……坂道がおわると手すりが四方に伸びていて行き止まりだった。錆びついたベンチに灯りを失った外灯がぽつんと置かれているだけの場所だった。
小高い荒野を登りきって、町全体を見渡せる展望台にでも着いたのだろう。
「……ふッ、何も見えんな」
ゆっくりと息をついて、レーニャは達観したようにぼやいた。静かに手すりに寄りかかる。
完全に日は沈みきっていて、暗闇と灰色の鈍雲だけが視界にあった。夜風は凍え、肌を突き刺してくる。
ディストはゆっくりと息を吐きながらレーニャの隣で、じっと何も見えない闇の奥を見つめた。
……襲撃者に襲われたら逃げ場もなく、助けが来るのも遅れるだろう。こんな場所は危険だ。そう冷静に指摘することもできずに、冷え込んだ夜の空気を飲み込むのに精一杯だった。
どうやって会話をしていたかも思い出せなくなってきて、……吐く息が白く震える。
「…………レーニャってさ、こういう場所……好きなのか? ほら! ウルルクに居たときもさ、ランニングのゴール地点はいっつも高台だったり、見晴らしがいいとこだったから――」
そのせいで、さっき言おうとした言葉の続きもうまく言えなくて、当たり障りのない言葉を口にした。
「まぁ、……そうだな。見晴らせる場所は好きだ。……好きだな。だから、ここまで走った」
言葉に滲む少しの緊張。レーニャも気を紛らわすように闇を見渡した。――静寂。
……この世界にいるのは自分達だけだった。
「だって、……お前は場所選びのセンスがない。初めてのデートだというのにあんなボロくて味も悪い店を選ぶとは思わなかった」
「デーッ、んぐッ……! ……デート??」
本当にそんな単語をレーニャが口にしたとは思えなくて噎せかえる。
ジトリと向かう険しい視線。砂を噛んだような表情。レーニャは不満そうに、少し言葉を詰まらせた。
「……ワタシの勘違いだったのか? 考えてみればお前にそんなこと――」
「――か、勘違いじゃねえよ。ただ、……レーニャもそう思ってくれてるとは考えてなくて、驚いただけだ。……いや、そういうの無頓着なイメージがあったから」
デートだったなんて素直に認めるのは恥ずかしくて、ディストは咄嗟に視線を逸らした。真っ直ぐ向き合えなくなっていく。
そんな態度を見てレーニャは鼻で笑って、僅かな沈黙を誤魔化すように飴を飲み込み、すぐに噛み砕いた。バリ、ボリと。
静寂のなか彼女の音が響いていく。普段とは違い、味わう様子もなく飲み込んだ。
「…………無頓着なのはディストだろう? ……あんな店で、あんな大事な言葉を……言うものじゃない。他に、人だっていたのに」
「それは……まぁ、そうかもな」
「ふん、そうだとも。次はきちんとしてくれ」
レーニャは澄ました表情で小さく微笑んだ。目を逸らしていたはずなのに、不意に向かい合って、見つめ合ってしまって。どうしようもなく顔に血が上る。……情けない。
「けど……! あの場で続きを聞きたいとか、無茶なことを言ったのはレーニャだろ!?」
「……色々と考えることがあった。……あまり言葉を先送りにすると、聞きそびれることも多い。二度と聞き直せないこともある」
「俺は死なない。レーニャのことだって死なせない。約束は守る」
なんて臭い言葉だろう。なんて非現実的な言葉だろう。
レーニャはまた鼻で笑った。銀炎の照らす頬が僅かに朱に染まる。
ディストは言い切ってから、小っ恥ずかしくなって誤魔化すように笑いかけたが。小さく首を横に振って堪え、ただ真っ直ぐにレーニャを見つめた。
言葉が途絶えても息苦しさはなかった。熱を冷ますように吹き付ける夜風が心地よい。
少しの間をおいて、レーニャは小さく頷いた。深く軍帽を被って表情を隠した。
「……知っている。だから店を出てここまで走った。だから――ワタシは言葉を、もっと聞きたい。さきの続きを――」
――求めるように、言葉が途切れた。
ジトリと見つめる視線が不安に揺れていく。
ディストはもう、目を逸らそうとはしなかった。バクバクと静寂を打ち壊す心臓の拍動が、緊張し、硬直する身体を突き動かした。
「……好きだ。――リーダーに唆されたから言ってるわけじゃないぞ。理由は……まぁ、聞きたいなら沢山言える。…………レーニャは、どうなんだ」
不安になって問いかけた直後、グイと肩を引き寄せられた。
目と鼻の距離にまで近づく視線。頬をくすぐる銀の髪の毛先。
――そして唇が触れ合うだけのキスをした。
レーニャは薄く目を閉じて、ディストは目を見開いたまま石化するみたいに動けなくなった。
優しく、穏やかに、数秒。
レーニャはゆっくりと目を開けて、ディストの緋と銀の瞳を凝視した。視線が重なり合う。
「……確かに、言葉は恥ずかしい」
そっと耳元を撫でる囁き。首の後ろに回っていく華奢な腕。頬を撫でていく手は指先が冷たい。
「ッ――……」
ディストはもう一度唇を重ねに行った。今度は自然と舌を絡ませていた。レーニャの腰に手を回して、そのままきつく抱き締め合った。
……長い間、そうしていた。
もうすぐ一つの旅の目的地に着いてしまうから。先は暗闇ばかりで何も見えないから。銀に燃えるこの想いはこうする以外の方法を知らないから。
数秒、――舌が離れた。息を吸い込むと空気がいつもより冷たく感じた。
「…………がっつき過ぎじゃないか?」
レーニャは顔を真っ赤にして、小さな声でぼやいた。普段は絶対に見せないような上目遣い。
それでブツンと、外れきっていた理性がまた消え失せて、再び唇を重ねていく。拙く求め合う。
「…………それは、レーニャが悪い」
ディストは悪びれもない様子でそう断言した。
……舌に残る甘さとメントールの清涼感。こうなる前にレーニャが噛み砕いた飴の味だった。
……普段、ハッカ味の飴だけは押し付けてくるのに。
「……今はワタシが悪くてもいいから、エスコートしろ。……命令だ」
レーニャは軍帽のつばで表情を隠し俯いて、ぎゅっと指先だけが服の裾を引っ張った。




