どうなっていたか
プロローグ:よくあること
僅かな休憩の時間が終わる。穏やかな微睡みを搔き乱すのは機械油とヘドロの匂い。そして点滅する電光だった。
ディスト・クラークスは顔の火傷痕を掻いて体を起こした。
ガラクタだらけの工房を器用に歩き進んで、曇った鏡を見ながら灰髪を整える。
やがて頭部と胴体の一部を義体にした少女が、機械仕掛けのモノアイでジッと見上げ、手術台に座った。
「えー……それじゃあ先に入金……ああ、もうしたのか。ただ契約書にも書いた通り、麻酔がないんであなたの代わりに痛みを受ける使い捨ての人格を埋め込んで――――」
説明をしながら施術を済ませていく。元々つけられていたぼろっちい義手を外し、瞳事務所の中古品の義手につけかえる。
神経の接続。激しい火花が散った。麻酔はない。
代わりに投与した人格インクで患者が受けるはずの痛みを使い捨ての人格に耐えさせる。
暴れる身体を縛りつけ、接続の完了。あとは人格インクが切れるのを待てばいい。事前に採った血液の投与。
これがディストの日常だった。
誰かの血を浴びて、火花と機械油の臭いが手について離れない。誰かの肉体や遺伝子、機械をツギハギ。
そんなことを日に数回するうち夜が訪れる。支払い不足で止まる電気。洗濯機のなかに投じた衣服は生乾き。もはやため息も出ない。
帰り支度を整えて外に出た。Jn14区は都市の防波堤のような区画で、極寒灼熱の白い砂漠から砂塵が吹き荒んでくる。中央区画の摩天楼は遠くで煌々と煌めいていて、光が眩いほど影差す場所は暗闇ばかりだ。
「……はぁ」
未だ煌々と明るい工場、入り組んだアパルトメント群を通り過ぎていく。ガシャガシャと音を鳴らす金網の地面。足元で流れていく汚水。どれも気に障る。
寒々と白い砂塵が風に乗って吹き荒む。ひらけたストリートはゴミに溢れていて人通りは皆無に等しい。不気味なほどの静けさに包まれていた。
ディストはピタリと足を止めた。振り返ると同時、躊躇いなく拳銃を引き抜いた。
――銃声。夜闇を劈いて轟く。
「何か不備がおありでしたか? お客様。あーいや、もう営業時間は終わってるから違うんだ。……何の要件だ? 保証書でも欲しくなったのか? 悪いが、そういう書類は残さない主義なんだがな」
対峙した。
開き直るように姿を見せたのは朝方対応した頭部義体の少女だ。――面倒だなと。表情には決して出さないが、余裕なく睥睨した。
一歩、また一歩と距離を取って、なんとか逃げる算段を考えようと周囲に
瞳事務所の義体をつけた以上、彼女は記憶や技術を空っぽのデータとすり替える方法があって、それを補強しにきたということだ。
「ワタシはあなたをいい技術者だと思ってるんだ。だから手を頭の上においてよ。じゃないと、手を置く頭、飛ばしちゃうよ」
ノイズ掛かった機械音。互いに向け合う銃口。
「俺の金と記憶が目当てか? せこい副業だな。大したお金も貰えないんだし、命を張るべきじゃないぞ」
説得にもならない言葉だ。逃げ道に使えそうなものは近場の工場ぐらいか? 巻き込めば、両方成敗されるだろうか。
「ふん、あの世の渡し賃ぐらいにはなるんだよ」
少女はうねうねと無数のコードを尾のように揺らし、周囲に突き刺した。バチンと、迸る雷光。周囲の電灯が落ちて文字通り暗闇が広がった。
「ッ――!? ご近所迷惑だろ。クソッ」
冗談にもならないことを叫んだ。視界が途絶える。伸ばした腕の先さえも見えない。すぐに暗視に切り替えたが反応が遅れる。
追撃は一瞬だった。痺れるように広がる脚への違和感。……腿に青く蛍光する刃が突き刺さっていた。痛みはないが、少なくない出血。
データナイフだ。刀身を経由して痛覚が遮断されたらしい。
同時、逃げようとする行動自体が頭から抜き取られた。踵を返そうとすると視界が真っ白になって縛り付けられる。
「逃げる以外ならできるか――」
拳銃を握る手に力を籠め直すと脳の霧が晴れていく。
「撃つの? 弾代がもったないと思うけど」
「ああ撃つさ。お前にはもったいないから、空にでも」
銃声。銃声。銃声。立て続けに引き金を振り絞る。狙い澄ます必要はない。ただ夜空を劈く音だけを轟かせると、暗闇を切り裂いて光が見えた。
銀色の火を鳴らし唸るエンジン音。ヘッドライトが視界を突き刺し、無骨なバイクが驀進してくる。
加速は止むことはなく、唖然とする敵に肉薄し――ダン! と。鋭い衝突音。
残像を描いて敵は轢かれ吹き飛ぶとゴミ山のなかに半身を突っ込んだ。
そのまま脱力して伸びていく。遅れて、ばらばらと散っていく頭部義体の破片と部品。飛び散る複数種類の液体。
死んではいないかもしれないが――到底動ける状態ではないだろう。
ディストはじっとバイクを見据えた。安堵するように息を吐いていく。
「姉さん……迎えに来なくていいって言ったけど。……今回は助かった。ありがとう」
操縦者はフルフェイスのメットを外した。砂漠を撫でる乾いた風が工場地帯を吹き抜けて、金の髪が広がり靡いていく。
「姉さんじゃないって。何度も言ってるでしょ? アメリアって呼んでよ。それにこんな危ない場所、可能なら一人でいて欲しくないの。今だって、私がいなかったらどうなってたかわからないでしょ?」
ふんと、誇らしげに鼻を鳴らして、アメリアは風でずれた眼帯を付け直した。残っている無事な瞳が、赤い視線をディストへ向ける。
「とりあえず、来ちゃったから乗ってよ。怪我してるでしょ? 歩いてとか言ったら殴り倒すからね」
わざとらしく見せつける握り拳。ディストが笑みを向けたのを見て、穏やかに笑うとジャケットを投げ渡した。ばさりと。