いつも帰っている道なのに
「いつも帰っている道なのに、俺はなんで迷ってるんだ?」
確かに俺は、毎日この道を通って、家に帰ってきたはずだ。
なのに。なのに、この風景を見たことがない。
「一体ここは、どこなんだ…」
***
昨晩のこと。
午後六時のチャイムが鳴った。
業務終了の合図。
そう。本来は、これで仕事は終わり。帰っても良い時間なのだ。
だが、誰も帰らない。帰る準備をしようとする者もいない。チャイムなんか鳴らなかったかのように、黙々と仕事を続けている。
この時間になると外からの電話が掛かって来なくなるから、社内に響くのはキーボードを叩く音だけになる。
先輩によると「余計な連絡がなくなるから、やっと自分の仕事ができる」ようになる時間だそうだ。
確かに、電話が掛かってくると急ぎの対応が必要になる事が多い。今までやっていた作業の手を止めて、資料を探したり、プログラムを一行一行読み込むことになる。
そんなふうに降ってくる仕事も大事だし、決して無駄ではないのだけれど、そんな対応していても自分のノルマは減らない。むしろ増えることさえある。
だから、終業後からは集中して「やっと自分の仕事ができる」時間なのだ。
かく言う俺も、この会社で三年仕事をしてきて、この状況には慣れてしまっていた。
定時退社?なにそれ美味しいの?ってなぐらいだ。
一番作業が進む時間。モニターとにらめっこしながら、キーボードを叩いていく。
二時間ほどして、午後八時。
「腹減ったな。」
「行くか。」
上司と先輩達が動き出す。
「どこにする?」
「コンパスはどうです? 近いし、唐揚げ美味しいッスよ。」
「揚げモノかぁ。最近胃がもたれるんだよな。」
「もう、おじさんですね。」
係長が課長をつかまえて笑う。係長は、こういった失礼なことを言っても怒られたりしない。いわゆる愛されキャラなのだ。
俺があんな事を言ったら、ぷち殺されてしまう。
「お前も四十過ぎたら、分かるようになるって。」
「で? コンパスでいいんですか?」
「良いよ。でも奢らないからな。」
「分かってますって。」
課長が、先輩達を連れて食事に向かう。これもいつもの事。
「新人も行くか?」
課長が俺を誘う。これは少し珍しい事だ。半年に一回あるかないか。
三年目とはいえ俺はこの会社で一番新入りで、一番若い。
俺の後に採用が無かったかだって?
毎年あったよ。
俺の次の年に入った中途採用は、二ヶ月で鬱を発症して病休、そして退職。
その次の年の新採は、採用三週間したら連絡もなしで会社に来なくなった。結局、自己都合退職になったそうだ。
そいつが会社に出てこなくなる前、俺に「よく毎日こんな生活できますね」と聞いてきた。
確かに、毎日終電で帰るのは当たり前。休日出勤もよくある。二十連勤、三十連勤となる月だってあった。
「ブラック企業ですね。」
「でも、きちんと残業代は出るし、有給休暇の買取だってしてくれる。かなり稼げるよ。」
「でも、そのお金を使う暇がないじゃないですか。」
「…まあ、そうだな。」
たまの休日も、家から一歩も外に出ない。ずっと寝ているだけだ。三年前にテレビも買ったが、ここ二年は電源すら入れていない。
俺にとって、家はただ寝るだけの場所になっていた。
そいつは、もう一回「よく毎日こんな生活できますね」と言った。
俺は「慣れだよ」と答えた。
「僕にはキツイですね…。」
そう言って、へへっと笑ったそいつは、翌日から会社に出てこなくなった。
課長が、俺たちみたいな若い人間を食事に誘わなくなったのは、こういう奴らが増えたからだそうだ。どこかで「若者にとって、飲みニケーションは無駄。迷惑。離職につながる」という情報を仕入れてきた課長は、ある程度の年齢以上の社員しか食事に誘わなくなったらしい。
気を使ってくれてはいるのだろうが、この会社の離職率の高さは、職場の宴会が原因ではない事に気付いてはいないのか。
いや、気付いているけど見て見ないフリをしているのかもしれない。
「ありがとうございます。でも、電話番をしないと駄目なので。」
俺がそう断ると、課長は「ああ、そうか。」と残念そうに呟く。係長が「電話頼むな」と言い部屋を出ていく。課長や先輩達もそれに続いて、ガヤガヤと食事に行ってしまった。
部屋に残ったのは俺を含めて二人だけ。もう一人はコミュ障の大ベテラン。陰で仙人と呼ばれているような人で、全く喋らない。
部屋の気温が一気に下がったように感じる。
電話番なんて嘘だ。
この時間に掛かってくる電話なんてほとんどない。しかも、この時間に掛ってくる電話なんてろくでもない内容に違いないから、誰も取ろうとしない。当然、掛かってきたとしても取るつもりはない。
俺は食事に行ってる時間があるなら、その分、仕事をこなしたい。そして早く帰って寝たい。
昼飯と一緒に買って残しておいたハムサンドを食べる。最近のコンビニのサンドイッチは具が減った気がするな。前はもう少し腹に溜まったと思ったが。
ハムサンドをエナジードリンクで腹に流し込む。食べ過ぎると眠くなるので、半分は残して鞄に突っ込む。これは、十二時過ぎた時の夜食になる予定だ。
よし、人心地ついた。
仕事を再開する。プログラムのコーディングの続きだ。
俺の前にある二つのモニタには、それぞれプログラム設計書のドキュメントとコードのエディタが表示されている。
まあ、そんなに難しい事をやっているわけじゃない。本当ならAIにだってできる仕事だ。ただし、それは設計書が正しい場合だ。
ロクなレビューもされていない穴だらけの設計書だから、そのまま信じて作ってしまうと、テストの時に手戻りが沢山発生することになって、後で困ることになる。
条件の検討が漏れていたり、不要な処理が挟まっていたり。
「ここでのチェック処理は、前の処理で例外なくしてるから要らんよな…。」
俺は独り言を呟きながら、この設計書を作った先輩への質問をコメントする。たまに、不要な処理だと思っても後で必要になることがあるから、それを含めてコーディングを進めなきゃいけない。
無駄な処理と思っていたのが、実は後でシステムを拡張する時に使うために置いていた処理だったり、バグが出た時に調査しやすい用に置いている処理もある。
他には、ステップ数を稼ぐためだけに無駄な処理を入れることがある。まあ、儲けるためだ。
後は、設計書を書いた先輩のミス。
で、これはどれだ?
「これは、ミスかな…いや、水増しっぽいか。」
無駄だなぁとは、思いつつも淡々と作業を続けていく。
一時間ほど過ぎて、外が騒がしくなった。上司と先輩が食事から帰ってきたのだ。
「ちょっと飲み過ぎじゃないのか?」
「大丈夫ッス。係長の方が一杯多かったでしょ。」
「俺はザルだからいいんだよ。」
どうやら先輩達は酒を飲んで来たようだ。それなのに、これから仕事をするという。こんなことが常態化しているというのがうちの会社の実態だ。
(酔っ払って仕事をするなよ。だから、こんな設計書が出来上がるんだ!!)
と、心の中で叫ぶ。
まあ、こんな事は絶対に口には出せない。無駄話を続ける先輩達を尻目に、俺は黙々と作業を続ける。
くだらない下ネタで大笑いして一区切り付いたのか、先輩達も静かに仕事を再開した。
すると、先輩達の作業が終わったプログラムやテーブルのファイルが、共有フォルダにどんどんと追加されていく。
直ぐに上司やベテランが、データをチェックして社内チャットで指摘を入れる。
さすがに俺と経験が違う。仕事が早い。俺も五年もすればあんな風になれるだろうか。
午後十一時を過ぎたが、まだ誰も帰らない。皆は後一時間ほどで終電だが、俺は少し乗り継ぎの悪い所に住んでいるから、他の人達よりも終電が早い。
だから、これで今日の仕事は切り上げる。
質問を書き込んだプログラム設計書を、社内チャットで先輩に送りつける。
よし、終了!
帰って寝る!
パソコンをシャットダウンする。
あれ?終了しない。
ああ、更新だ。面倒くさい。
もう良いや。そのままモニターの電源だけ落として片付ける。
「じゃあ、お先に失礼します。」
扉の横にあるカードリーダーに俺のIDをかざし、部屋を出る。
「ほーい。」
「お疲れ〜」
「っしゃしたー!」
「先輩より早く帰ってんじゃねえよ。」
最後のは、ただの挨拶だ。本気で言ってるわけじゃない。
でも、初めの頃はこれを言われるのが怖くて、先輩より先に帰る事ができなかった。それが適当な挨拶だと分かったのは一年経ってから。
その人は古参の大先輩に対しても「後輩より先に帰ってんじゃないよ。」と言っていた。つまり、誰にでもそう言ってしまう人なんだ。俺は気にしなくなった。
ビルのエレベーターを待つよりは、階段を駆け下りた方が早い。駅までダッシュ。なんとか終電一本前に間に合った。
この時間でも人は多い。電車の中では吊革につかまって、立ったまま目を閉じる。
目から入ってくる情報を遮断する。今日もかなり目が疲れた……。
…気付いたら乗換駅、あっという間の時間だった。立ったまま寝てしまったのだろうか。
乗り換えて二駅で到着。改札を通った人達は、それぞれ自分達の家に向かって急いで帰っていく。
俺のアパートまでは徒歩十分。
駅前の短い商店街を抜ける。商店街といってもアーケードがあるわけでもなく、何個かの店が並んでいるだけ。しかも、この時間はどの店舗もシャッターが降りていて、ただの薄暗い道だ。
会社に就職し、引っ越してきた当初は、休みの日に駅前商店街で買い物をしたこともあるが、最近はもっぱら駅舎の中にあるコンビニで買い物するくらいだ。後は、ネット注文。だから、ここに何の店が並んでいたのかなんて全然思い出せない。
商店街をすぎると真っ暗な帰り道。閑静な住宅街だ。
今日は同じ方向に帰る人は居ないようだ。一人でトボトボと歩く。
誰ともすれ違わない。そもそもこの時間から駅に向かっていくような人はまず居ない。
街灯が立ついつもの角を右に曲がって、自販機の灯りを過ぎたら、今度は左に曲がって少し細い道に入る。しばらく歩くと、古い蛍光灯にあかあかと照らされているアパート名のプレートが目に入る。
やっと自分のアパートに着いた。
部屋に入るとワイシャツを脱いで、靴下を放り投げる。早速、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを出して、鞄からサンドイッチの残りを引っ張り出す。
ぐびっ、ぐびっ、ぐびり。
ビールを飲んで、ふぅっとため息をつく。
いつからだろう、アルコールを入れた方がよく眠れるようになったのは。
一息ついて、ボーっとする。
テレビを見る気力もない。
時計を見ると、短針と長針が一番上で重なろうとしていた。
会社では、そろそろ業務終了だろう。ほとんどの人が家に帰る時間だ。ヤマ場を超えているから、今日は会社に残って泊まる人は少ないはず。
俺も仕事がどうしても終わらなくて、終電に間に合わない時は会社に泊まることもある。
しかし、毎日のように会社に泊まっている人もいる。ベテラン社員の仙人なんて、アパートを解約して、会社に住んでいるんじゃないかという噂だってある。
サンドイッチでお腹を満たし、ビールを飲み干す。昔より食欲が衰えたと思う。たったこれだけで腹一杯なのだ。
風呂場でシャワー浴び、明日出社する服を着る。ベッドに横になると、俺の一日が終わる。
いつの間にか寝ていた。
ピピピピピ
朝だ。
まだ眠い。
俺はスマホの目覚ましを止める。
社長がサマータイムなんてのを導入したお陰で、出勤時間が一時間早くなっているのだ。単に残業できる時間が増えただけ。
半分寝惚けたまま家を出る。
気が付くと駅のコンビニに着いているので、朝御飯用のおにぎりを買う。
(今日は、午前中に会議があって、それまでに資料を印刷して…)
電車の中で目が覚めていく。頭を仕事モードに切り替える。
出社すると先輩や上司が集まっていた。いつもはそれぞれの席に座っているのに、今日に限って全員が立って何かを見守っている。
「お、おはようございます。」
「ああ。おはよう。」
いつもと違う雰囲気。
遅刻してないよな。俺は時計を確認する。
「あー!ダメだ。動かない。」
先輩がサーバの入った棚で何かをやっていた。
「なんか、あったんですか?」
「この端末見てみろ。」
俺の質問に、係長はため息混じりに答える。
画面には真っ赤な文字で、『このパソコンがロックしました。ロックを解除には、期限内に支払いが必要です。』
「うわ、身代金要求型じゃないですか! しかも、典型的なやつ。」
「だろう。ここまでテンプレだと、もう笑えてくるよな。」
一瞬、昨日帰ろうとした時の事を思い出した。
システム更新でシャットダウンできなかったな。あれ…がきっかけに? もしかして…
「あの…」
「どうやら、昨日、社長がやらかしたらしい。」
係長が俺の不安を遮った。
「先日、社長が不審メールを不用意に開いたらしい。」
あんなに、セキュリティって叫んでいる社長が?
「しかも、その社長のメールから情報漏えいしたんだと。」
あれだけ、リスクリスクって言っておきながら?
「新聞社にメールの内容が公開されたらしくてな。…うちの会社、談合してたらしい。」
あそこまで、コンプライアンスの重要性を説いていた社長が?
「朝からニュースになってるよ。」
課長も長いため息を力無く吐いた。
俺はテレビなんて見ないから、ニュースなんて知らない。
先輩達はサーバにつないだ端末を叩きながら泣き言しか言わない。ほかの皆は何もできなくて居心地悪そうにうろうろとしている。
しばらくして電話が掛かってきた。課長が出る。
全員が、課長が電話を受ける様子を何となく眺めていた。
課長は受話器を置く。
「部長から…今日はもう、全部の仕事を止めろだってさ。」
「「え??」」
全員が驚いた。
「でも、システムが動かないんじゃ、何もできないよな。」
先輩が俯きながら呟く。
確かに、パソコンが使えなければ、プログラムも書けない。資料も確認できないし、メールも読めない。ウェブ会議だってできない。
「システム部は仕事にならないから、今日はもう帰って良いってよ。」
課長が皆に言う。
皆は、そろそろと帰り始めた。
あの仙人すら帰っていった。
課長は、上の階にある総務や営業の手伝いに行ってしまった。電話が鳴り止まなくて、火消しに大慌てらしい。全部のパソコンが使えないから、余計に対応が大変なことになっている。
俺も帰ることにした。
まだ朝の九時過ぎ。
電車に揺られながら窓の外を見る。車窓の風景なんて、久し振りだ。
そう言えば、こんなに明るい時間に家に帰ったことなんてないな。
駅に着いて驚いた。
日中にはこんなに人がいるのか。
商店街は全ての店が開いており、多くの人が行き来していた。
威勢のいい魚屋、甘い匂いのする青果店、声の通る乾物屋。通りの両側に色々な店が並んでいる。
シャッター街だと思っていたこの通りが、まさか、こんなに活気のある商店街だとは思っても見なかった。
人混みの間を歩いたのも久し振りだ。少ししか進んでいないのに、とても疲れてしまう。
「あれ?」
いつもの商店街よりも長く感じる。もっと短いはずなのに。商店街を抜けるのに、こんな時間がかかったことなんてない。
やっと商店街を抜けた。しかし、目印にしていた角が分からない。街灯がついていないから、どこで曲がって良いか分からない。
俺はこの道を夜しか知らない。
時間が違うだけで、ここまで光景が変わってしまうのか。俺は戦慄した。
「いつも帰っている道なのに、俺はなんで迷ってるんだ?」
確かに俺は、毎日この道を通って、家に帰ってきたはずだ。
なのに。なのに、この風景を見たことがない。
「一体ここは、どこなんだ…」
自分がどこの道を曲がって良たのか分からない。そして曲がったところで、目印にしていた自販機を見つけられない。
夢か?
夢であってくれ。
それとも俺はおかしくなったのか?
「…俺の知ってる道なのに、俺の知らない道じゃないか。」
どうして、こうなってしまったんだ。
三年もこの町に住んでいて、三年も通った道だぞ。
闇の中に光る目印が一つも見つからない。
どう歩いて帰ったら良いんだ。
ここは一体どこなんだ?