指入りカレーでさようなら
パソコンを立ち上げて、チャットアプリを開いた。
平日の昼間。操作しているのは、自宅のパソコン。
結婚三年目の、三十一歳の専業主婦。家事全般が得意。学生時代には美術部に所属していたから、工作物も得意。名前は、仁科柚希。
自分で言うのも馬鹿みたいだけど、顔立ちには恵まれていると思う。寿退社するまでは、仕事もしっかりこなしていた。
そんな私が、今は、プリンターに接続した自宅のパソコンを操作している。
画面に表示されたチャットアプリ。パソコン立ち上げと同時にログインする設定になっているから、すぐにトーク履歴が出てきた。
とはいえそれは、私のIDでログインしたものじゃない。
夫――仁科隼人のIDでログインしたチャットアプリ。
前回見たところまで、上にスクロールした。
『ネイル行ってきた!』
新しいトークは、刈谷綾乃さんのメッセージから始まっていた。
彼女は、隼人の不倫相手。
どんな女なのかも調べはついている。私より八つも若く、隼人より十三も若い。二十三歳。小綺麗で、身なりにうるさい。隼人の会社の部下。家事全般が苦手で、食事はいつも外食かコンビニ弁当。
『お疲れ! どうだった?』
『可愛くできた! 見て!』
ネイルの施術後の写真が送信されていた。写真でも分かるほど、綺麗な手だった。家事を一切しないうえに、毎日手入れしてるんだろうな。若さも手伝って、その手には潤いと滑らかさがあった。
『綾乃の手は相変わらず綺麗だな。ネイルも可愛い』
『ありがと。でも、可愛いのは手だけ?』
『まさか。顔も可愛い。まあ、体は色っぽいけど』
『隼人君、エローいwww おじさん丸出しだよ?』
『もうおじさんだよ。三十六だし』
『でも、アッチの方は元気じゃん。元気過ぎて、ちょっと不安になる』
『不安って、何が?』
『奥さんともシてるんじゃないか、って』
『まさか。もう嫁には魅力なんて感じないよ。二年もレスだし』
『本当?』
『本当だって。俺には綾乃だけだから』
これは嘘じゃない。隼人とは、もう長いことセックスレスになっている。付き合う前は、あんなに必死に口説いてきたのに。結婚してから一年くらいは、毎晩求めてきたのに。
隼人は女好きで、さらに見栄っ張りだ。だから、結婚後は私を専業主婦にした。
「俺が養ってやってる」
そんな顔をしたかったのだろう。
確かに、隼人の給料だけで生活できないことはない。ただ、なかなか苦しい。だから私は、できるだけ節約するように心掛けている。自炊は当たり前。隼人の好きなハンバーグやカレーを作るときも、できるだけ食材の費用を安く抑えている。
食器を洗うときだって、結婚してから一度もお湯を使っていない。お陰で、私の手は荒れ放題だ。
もっとも、そうやって節約してきたから、不倫の調査費用を捻出できたんだけど。
チャットアプリを下にスクロールして、さらに会話を見ていった。
『奥さんとはいつ離婚してくれるの?』
『もう少しだよ。なかなか大変なんだ。嫁の奴、優雅な専業主婦生活を手放したくないみたいでさ』
はい、嘘。離婚の話なんて、一度もされたことはありません。さらに言うなら、私は専業主婦になんてなりたくなかった。少しくらい大変でも、ちゃんと働いて、自立した自分でいたかった。
『うっわー。奥さんズルーい』
『だろ。俺も、もう愛想が尽きてるんだ』
そこは気が合うね。私も愛想が尽きてる。
『嫁の奴、結婚してから色々手抜きになってさ。歳のせいもあるんだろうけど、手なんか荒れ放題。もう女を感じないんだ』
『隼人君、可哀相』
綾乃が、泣き顔の絵文字を送信していた。
『じゃあ、週末は私がいっぱい慰めてあげるね』
『楽しみ』
『綺麗になった私の手とか、口でもシてあげる』
『やべ。興奮してきた』
『隼人君のえっちー』
恥ずかしい、の絵文字が送信されている。
『俺、綾乃の手、大好き』
『上手だから?』
『それもあるけど、綺麗だし可愛い。エロ抜きで好き』
『嬉しい』
喜びを表す絵文字。
浮かれてるなぁ、この人達。
私は溜め息をついて、パソコンの『印刷』をクリックした。今見たトークをプリントアウトする。カラープリント。綾乃の手の画像が、写真のように綺麗に印刷されていた。
そろそろいいかな。不倫の証拠は十分。弁護士を探して、準備しよう。離婚の準備。
今の私にとって、この結婚生活には何のメリットもない。メリットがなくても続けられるほどの情もない。
そう思った直後に、ふと思いついた。
ただ離婚するだけじゃ面白くない。少し楽しいことをしよう。
隼人も綾乃さんも楽しんだんだから、私だって楽しまないと不公平だ。
早速、明日にでも、綾乃さんにコンタクトを取ってみようか。彼女の連絡先も、もう調べはついている。
頭の中で計画を練りながら、私は、プリントアウトしたトークを見た。
綺麗に映った、綾乃さんの手。綺麗な指と爪。
『俺、綾乃の手、大好き』
彼女を褒め称える、隼人の言葉。
そんなに、綾乃さんの手が好きなんだね。
それなら――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――というわけで、全部分かってるから」
出されたお茶には口を付けずに、私はニッコリと微笑んだ。
隼人の不倫について弁護士に相談した後、私は、すぐに当事者に連絡した。彼の不倫相手の、綾乃さんに。
連絡した直後は、綾乃さんは強気だった。奥さんが悪いんでしょ、女を怠るから――と。
でも、電話口で彼女のメッセージを音読してあげると、途端に弱気になった。
ううん、弱気、とは少し違うかも知れない。感情を込めてメッセージを読んであげたら、彼女は恥ずかしそうに「ごめんなさい」と言っていた。
そりゃそうだろう。「隼人君すきー」だの「いっぱいシてあげるね」だの「大好きだよ」だのというセリフを、感情を込めて読んであげたのだ。ぶりっ子口調で。語尾にハートマークが付くようなイメージ。読んでいた私まで恥ずかしくなった。
綾乃さんの反応は面白かったんだけどね。
そんな経緯を経て、私はここにいる。綾乃さんが住んでいる、1DKのマンション。
綾乃さんは、テーブルを挟んで私の向かいに座っている。顔を伏せていた。座っているカーペットの感触が柔らかい。いいカーペットね。節約しているウチじゃ、とても買えない。
退職前の私だったら、余裕で買えていたけど。隼人よりも給料は高かったし。
「――というわけで、今度の日曜日にでも、弁護士さんを交えてお話するから。予定、空けておいてくださいね」
「……はい」
俯いたまま、綾乃さんは頷いた。拍子抜けするほど観念している。まあ、だからと言って、手を抜くつもりはないけど。
「それで、あなたには慰謝料を請求しようと思っています。あと、あなたのご実家にも、このことは報告いたします」
綾乃さんは、驚いたように顔を上げた。青ざめた顔。
「ちょっと待ってください! 実家にだけは!」
「どうして?」
「あの……私の両親、凄く厳しいんです。大学を卒業して、就職して、ようやく一人暮しして。やっと自由になったんです」
「自由になって、恋愛も必要以上に自由にしたわけですね」
私の皮肉に、綾乃さんはまた顔を伏せた。
なるほど。この子のアキレス腱は、実家の両親か。私としては、慰謝料だと思っていたんだけど。まあ、弱点があるなら何でもいい。
「じゃあ、二つ、頼みを聞いてくれますか? 聞いてくれるなら、ご両親にはこのことを言いませんし、なんなら、あなたには慰謝料を請求しません。夫には請求しますけど」
綾乃さんは顔を上げた。
「本当ですか!?」
「ええ、本当」
「私、何をすればいいんですか!?」
綾乃さんは必死だった。彼女の両親がどれだけ厳しいのかは分からない。ただ、親元で暮らしているときは、本当に大変だったんだろうな。
同情なんてしないけど。
「あのね――」
私は、ゆっくりと立ち上がった。座ったままの綾乃さんを見下す。口元に、薄い笑みを浮かべて見せた。弱者を嬲る、強者の笑み。
綾乃さんに、頼みたいことを伝えた。
ひとつは、現時点から話し合いの日まで、隼人との連絡を一切しないこと。もし彼が公衆電話等から連絡してきた場合でも、彼だと気付いたらすぐに切ること。
そして、もうひとつは――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
綾乃さんと、彼女の家でやり取りをした次の日。
私は夕食の用意をして、帰宅した隼人を出迎えた。
「おかえりなさい、隼人」
「ただいま、ユズ。今日はカレーなんだよな? 楽しみで、できるだけ早く帰ってきたんだ」
隼人は、カレーとハンバーグが大好きだ。二つとも彼の好みの味になるように、私は結婚前から頑張っていた。
結果として、彼の胃袋はガッチリと掴んでいるはずだった。
この事実から分かることはひとつ。たとえ胃袋を掴んでも、浮気する男は浮気する。
「喜んでくれて嬉しい。実は、カレーの中に、隼人の好きなものを入れてみたの。絶対に気に入ってくれると思う」
「え? 何?」
「食べてからのお楽しみ。じゃあ、早く着替えちゃって。すぐにできるから」
「ああ」
隼人は寝室に足を運んだ。スーツからスエットに着替えて戻ってきた。
私はカレー皿にご飯を乗せた。その上に、用意した物を添える。五本、全て。その上から、カレールーを盛る。
私の分のカレーもよそった。もちろん、隼人とは別のカレー皿。隼人のカレーに添えた物も、私のカレーには入れていない。アレは、隼人に全てあげる。私は食べたくない。
二人分のカレーを持って、私はリビングに足を運んだ。
食卓テーブルの椅子には、すでに隼人が座っていた。
彼は気付かない。食卓テーブルの椅子。私が座る席。そこに置いてある、A4サイズの封筒に。
「はい、どうぞ」
「おう。ありがと……う?」
カレーを見て、隼人は首を傾げた。彼の視線は、カレールーのかかった特別な物に注がれている。五本のそれ。
それぞれ、若干、太さと長さが違う。人の指ほどの長さと太さ。盛り付けも、人の指に見えるようにした。
親指、人差し指、中指、薬指、小指。
「なあ、ユズ。これ、何?」
五本のそれを指差し、隼人が聞いてきた。
食べたときの彼の反応が、楽しみ過ぎる。つい、私は満面の笑みを浮かべてしまった。
「秘密。でも、隼人の大好きな物だから。食べてみて」
「ん……ああ」
頷くと、隼人は、それを一本、スプーンですくった。カレールーがたっぷりと絡んでいる。口に入れて、噛んだ。
隼人が噛んだ途端に、ゴリッゴリッと音が鳴った。固い物を噛み砕く音。
隼人は首を傾げ、眉をしかめた。気に入らなかったんだろうか。気に入らなかったのだろう。あんな物を私は食べたことがないし、食べたいとも思わない。
「いや、本当に、何だこれ? なんか……少し生臭いような……」
「そうなの? 隼人が好きだって言うから入れてみたんだけど」
「そうなのか? 俺が好きな物? ハンバーグ、ではないよな。なんか、中身が固いし」
「まあ、そうだよね。固いよね」
「ん……うん? 本当に分からない。何なんだ? 俺の好きな物?」
「うん」
私は、少しだけ嘘をついた。でも、この程度の嘘は演出のうちだ。
「これを見て知ったの。隼人はこれが好きなんだ、って」
私は、自分の椅子に乗せていた封筒を手にした。その中身を取り出す。
隼人と綾乃の、チャットのやり取り。それをプリントアウトした物。テーブルの上に並べ、隼人にも見えるようにする。
途端に、隼人の顔が青ざめた。
「ユズ、これ……」
「あなたと綾乃さんのやり取り。ほら、ここ。ここで言ってるでしょ? これが好きだ、って」
私は、テーブルの上に並べたチャットのコピーを指差した。綾乃さんの、ネイルの施術後の写真。その後の、隼人のメッセージ。
『俺、綾乃の手、大好き』
「――!?」
「私ね、綾乃さんに会ってきたの。それで、あの子にお願いしたんだ。頼みを聞いて、って。今回のことをご両親には言わないであげるから、って」
隼人の目が見開かれた。カレー皿に残っている、四本のそれ。一本は隼人が食べてしまった。
残った四本を見ながら、隼人は震えていた。手で口元を押さえる。持っていたスプーンが、テーブルの上に落ちた。カチャン、と金属音が鳴った。
大きく開かれた目をゆっくりと移動し、隼人は私を凝視してきた。
「まさか、これ……」
声が震えている。額に汗が浮かんでいるのは、カレーのスパイスのせい――ではないだろう。
私は、できるだけ優しい笑みを隼人に向けてあげた。これが最後だから。彼のご飯を用意してあげるのも、こうやって夫婦として会話するのも。
「とりあえず、綾乃さんと約束したの。今週の日曜に、私が依頼した弁護士さんの事務所で話す、って。だから、隼人もそのつもりでいて」
隼人は何も返答しない。先ほどまでは声が震えていた。今は、全身が震えている。顔は、より一層真っ青になっていた。
今の隼人の心が、どのような感情で満たされているのか。私にはよく分かっていた。だって、そうなるように意図的にやったんだから。そんな意図を持って、このカレーを食べさせたんだから。
隼人の恐怖を煽るように、私は彼に笑顔を向けた。優しい笑み。震える彼に「可哀相にね」とでも言ってあげるような表情。
でも、そんなことは言ってあげない。
「ねえ、もう食べないの? あなたの好きな物なのに。私が作ってあげる最後の夕食だから、頑張ったんだよ?」
隼人は慌てて首を横に振った。顎まで垂れてきた汗が、テーブルの上に飛び散った。
「じゃあ、今すぐ出て行って。実家に帰るか、ホテルにでも泊まって」
「え? 今から?」
「そう。今から。なんなら、綾乃さんとホテルに行ってもいいんだよ?」
言いながら、私は、顔に浮かべる笑みの種類を変えた。薄く開いた口を、思い切り横に開いた笑顔。できるだけおぞましい笑顔をイメージした。
「まあ、綾乃さんには、ホテルに行く気力なんてないだろうけど」
隼人の口から、ひっ、という声が漏れた。
「じゃあ、出て行って」
無言のまま、隼人はコクコクと頷いた。慌てて必要最低限の物を用意し、家から出て行った。
隼人が残したカレーは、もったいないけど捨てた。
こんなものは、食べる気になれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
弁護士事務所で話し合う日になった。日曜日。
約束の時間は、午前十一時。
十分前に着くと、隼人と綾乃さんはすでに来ていた。
弁護士さんに用意された席に座りながら、隼人は、大量の汗を流していた。そんなに汗だくになるほど、暑いわけじゃないのに。
彼の見開かれた目。視線は、ただ一点に注がれている。
綾乃さんの左手。包帯がグルグル巻きにされた左手。その先端は、丸みを帯びている。まるで、指がないみたい。
弁護士さんに挨拶をすると、私も席に着いた。
話し合いは、すぐに終わった。綾乃さんには慰謝料なし。彼女は、隼人と不倫をしたという証言をしてもらうためだけに呼んだ。だから、彼女と交わす取り決めはない。作成する証書もない。
――表面上は、だけど。
対して、隼人には五百万の慰謝料を請求した。三年という長くない結婚期間と、子供がいないという事実。それらからすると、破格と言える慰謝料だった。
けれど隼人は、あっさりと承諾した。汗だくになりながら、あっさりと、示談書に署名押印した。もちろん、離婚届も書かせた。必要事項を埋める彼の手は、ずっと震えていた。目は、今にも泣き出しそうなくらいに潤んでいた。
こうして、私の短い結婚生活は終わりを告げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
綾乃さんに最初に会ったとき、私は二つのお願いをした。
ひとつは、弁護士事務所での話し合いの日まで、隼人と一切連絡しないこと。もし彼が公衆電話等から連絡してきた場合でも、彼だと気付いた途端に切ること。
もうひとつは、弁護士事務所に行く日に、手を包帯で固めること。包帯を巻く前に拳を握り、握ったまま固定して、と。もちろん、途中で解けたりしないように、しっかりと。
もし包帯について隼人や弁護士に何か聞かれても、何でもないと言い通して。そう付け加えて。
あ、これじゃあ、お願いは三つか。でも、まあいいや。綾乃さんは約束を守ってくれたし。
ちなみに、カレーに入っていた指っぽいアレは、私の工作物だ。
まずは、賞味期限ギリッギリのまぐろを用意。それを、丸い円柱状に成形する。
円柱状にしたマグロの中央部に穴を開ける。その穴に、固く棒状に焼いたクッキーを通す。
そのクッキーに砂糖は入れない。ただひたすら固く、味がないように作る。
次に、食パンを潰して薄く丈夫にする。その食パンを、クッキーを通したマグロに巻く。あとは形を整えて、指っぽくする。爪の形まで丁寧に作った力作だ。さすが元美術部と、ちょっと自画自賛。
カレールーが染み込んでふやけないように、表面を少し焼いた。
こうすることで、指っぽい食べ物ができあがる。まぐろは賞味期限ギリッギリだから、少し生臭いだろうけど。それは、より指っぽくするための演出だ。
カレールーをかけて誤魔化せば、人の指だと思わせることだってできる。
実際に隼人は、カレーに入っていたアレを綾乃さんの指だと思っていたみたいだし。
怯えて震え上がった挙げ句、五百万もの慰謝料の支払いに同意してくれた。あまりにもあっさりと。その姿を見たときは、つい笑いそうになってしまった。
弁護士さん、拍子抜けしてたなぁ。値切り交渉に対抗する弁論を考えていたんだろうなぁ。
とにもかくにも、これで私は自由になった。退屈な専業主婦生活ともお別れだ。
気分は晴れ晴れとしている。
でも、だからといって、隼人のことを愛していなかったわけじゃない。
愛していなければ、隼人の頼みを聞いて仕事を辞めたりしない。三年もの間、退屈な専業主婦を続けたりしない。
ただ、冷めちゃった。綾乃さんとのチャットを見たときに。あれを見た途端に、彼の欠点ばかりが目につくようになった。
正直なところ、今は、隼人と別れて清々している。
それでも、家庭を壊した綾乃さんに何もしない、なんてことはない。
私は、彼女に慰謝料を請求しなかった。何のペナルティも科さなかった。隼人との不倫を証言させただけだ。
綾乃さんに何も請求しないことに、弁護士さんも首を傾げていた。
慰謝料等の請求をして示談にするということは、私と綾乃さんの間に契約が発生するということ。ペナルティを与え、双方が合意することで、この件については終わるという契約。
慰謝料は隼人から取れる自信があった。だから、綾乃さんには、別のペナルティを与える。
私は綾乃さんと約束した。彼女の両親に今回のことは言わない、と。
もちろん言わない。約束は約束だから。
今は、平日の昼間。
私は、ある場所に向かっていた。不倫の証拠がたっぷりと入った封筒を持って。
興信所に調べてもらった、綾乃さんの実家。
割と立派な一戸建てだった。調べたところによると、彼女の父親は市議会議員。母親は中学校の教師らしい。なるほど、と思った。厳しく育てられたんだろうな、って。
一人暮らしを始めた途端に、タガが外れてしまうくらいに。
私は、綾乃さんの実家のポストに、持参した封筒を放り込んだ。彼女が、ラブホテルの前でキスをしている写真も入っている。ついでに、音声データ入りのUSBなんかも入っている。何の音声かと言えば、まあ、親には絶対に聞かれたくない類いのものだ。
約束は守るよ。私は、綾乃さんの両親に、不倫のことを言ったりしない。
この封筒は。
うーん。そうだな……。
善意の第三者が送りつけてきた物――ということで。
封筒をポストに入れると、私は、軽やかな足取りで綾乃さんの実家を後にした。