ありがとう症候群
目の前を走っていた前田君が転んだ。
「いて……」
膝から血を流していた。傷口には細かい砂利がついている。痛そうだと思った。
「……大丈夫?」
声を掛けてみたが、前田君は痛がることに集中していて相手にしてくれなかった。
「ねえ、前田くん、大丈夫?」
少し大きな声で、もう一度言ってみた。すると、彼は痛がりながらも頷いてくれた。
僕は安心してその場を去ることにした。
帰りの会の途中、お菓子が配られた。
クラスメイトの佐々木さんが家族で旅行に行ってきたそうで、そのお土産をクラス全員に買ってきてくれたのだという。
僕にも、前の席から手渡しでお菓子が回ってくる。一つ取って、後ろの席に回した。
周りを見渡すと、もう袋を破って口の中をもぐもぐと動かしている人がいる。先生は呆れたようにその様子を見ながら「ちゃんと佐々木さんにお礼を言うのよ」と一言いった。
「はーい」クラスメイト達が一斉に返事をする。そしてみんな口々に「佐々木さん、ありがとう」と言い出した。
佐々木さんは四方からかけられる感謝の声に困惑していた。「ありがとう!」「ありがとう!」重なるみんなの声のどれに反応すればいいのか分からない様子だった。そんな佐々木さんの様子を見かねた先生が「はい、じゃあ後は帰りの会が終わってからお願いね」と遮るように言う。
僕は、しまった、と思った。「ありがとう」を言い損ねてしまったことで、すっかり焦り始めていた。
帰りの会が終わると、みんな一斉に帰り始めた。佐々木さんは仲の良い女の子たちと並んで教室を出ようとしている。このままじゃいけない! と僕は急いでその後ろ姿を追った。
「佐々木さあん」
声を掛けるが、放課後の廊下の喧騒のなかではかき消されてしまう。あまり大きな声を出す自信がない僕は、近づいて話しかけるしか方法がないと思い、早足で佐々木さんたちの後を追う。
昇降口のところで、楽し気に話しながら上履きを履き替えている佐々木さんのそばまでいくと、僕はやっとのことで「佐々木さあん」と声を掛ける。すると、今度は振り返ってくれた。
きょとんとした顔でこちらを見ている佐々木さんに、恥ずかしくなりながらも「あの、お菓子ありがとう」と言った。
「……え、あ、うん」
佐々木さんはやはりきょとんとした顔のまま、そう答えた。
恥ずかしかったけれど、お礼を言うことができて良かったと思った。どこか胸の中がすっとした感じだった。
帰ろうと思い、自分の下駄箱で靴を履き替えていると、なにか背中に視線を感じて振り返る。後ろの方ではまだ佐々木さんたちが不思議そうに僕のことを見ていた。




