その一片の、恋の行方は
降り始めた雪の最初の一片、地面に落ちる前に取れたら、恋が叶うんだって――。
寝転んで、煙草の煙を燻らせる。そして空を見上げれば、煙草の煙が、ゆったりと空に吸い込まれるように昇っていく。細く、白く、何も形を成さずに、消えてなくなるだけ。それでも立ち上ろうとする、煙。雲一つない空を背景として、くゆりくゆりと揺れる煙の、なんと寂しいことか、と、くわえていた煙草を口から離し、携帯灰皿に押し付け火を消した。そして寝転がったまま、携帯灰皿を自分の横に放り投げた。
「先生っ!」
と、俺の耳に響いた声は、懐かしむための幻聴か。幻聴ならば、少しぐらい感傷に浸ることも許されるかもしれないと思った俺は、目を閉じた。そして感じた春の匂いに、スンと一度、鼻を鳴らした。
「学校内、全面禁煙になったって、聞いたんですけど?」
と、今度は大きく、ハッキリと聞こえた声に、俺は目を開けた。
「お久しぶりです、先生。」
青い空のキャンバスに描かれていた煙草の煙と重なるように、俺を太陽から隠すようにして、覗き込んできたのは、一人の女性。
「……生徒にバレなきゃ屋上はセーフってことになってんの。暗黙の了解ってやつだ。」
言い訳がましいが本当だ。昼飯を食ったあとの休憩時間、授業終わりの放課後の、一本の煙草ぐらいは許して欲しいとの喫煙組の主張が通り、屋上には鍵がかけてある。
基本的には、屋上に生徒は立ち入り禁止。煙草を嫌う先生方も屋上には近づかない。それはもう、何年も前から変わらないこと。
「いつも……どうやって入ってくるんだ? 謎なんだが。」
俺がそう尋ねると、昔より色鮮やかになった彼女の唇が弧を描いた。
「内緒です。」
肩にかかるぐらいの栗色の髪の毛が、ふわりふわりと風に靡く。あの頃、まっすぐに整えられていた髪の毛先は今、いくつもの半円をゆるりと描き、悩まし気に揺れていた。
「先生って、いっつも空見てますね。」
そう言われた俺は、彼女から視線をずらして、空を見た。
◆
俺は、今日も煙草を吸えないでいる。なぜかというと、俺の憩いの時間を堂々と邪魔しに来る生徒が横にいるからだ。
「ちょっと先生。どうにかなんないの? そんなんじゃ誰もお嫁に来てくれないよ? せめてYシャツ、アイロンかければ?」
と言った生徒、伊香ソラは、寝転んでいる俺の隣に腰かけて、細い目を俺に寄越している。
二年生を受け持っている俺は、もちろんこの子の担任ではないし、授業も担当していない。名前だけの生物部顧問をやっているが、伊香は生物部でもなく、部活にすら入っていない。
「プライベートじゃモテるんでね、ご心配なく。」
「またまたぁ~、見栄はってもいいことないって、高梨のおばあちゃんが言ってたよ。」
「誰だ、それ。」
突如でてきた聞き覚えのない名前に、俺はすぐさま聞き返した。
「同じマンションに住んでるの。毎朝、近所の散歩しててね、すんごい元気。」
「あっそ。」
と、適当に返事をするのも、いつものこと。すると、さわさわとそよぐ風が数枚の桜の花弁を運んできた。
「ていうかここ、来ないでくんない? 俺の貴重な一服休み、邪魔しないでくれよ、頼むからさ。」
昨今、喫煙者は肩身が狭い。特に子ども、しかも生徒の前で煙草を吸ったなどと保護者に知られたら、苦情の一つや二つ入りかねないのだ。
「気にしないから吸えば? 一本頂戴なんて言わないし、興味ないからさ。」
伊香は、ここから去る気配が微塵もなかった。
「あのね、そういう問題じゃないの。最近煙草は嫌われ者なの。生徒の前で吸ったなんて知られたら、下手したらクビになりかねないの。だから、」
「大丈夫。私、口堅いし。」
そう言った伊香は、うーんと両腕を伸ばして、俺の隣にゴロンと寝転がった。
俺はその伊香を見ながら、しゅんと背中を丸めた。貴重な昼休み。だらしなく寝転がり、空を見上げながら一服をする。それが職場での唯一の楽しみだというのに、最近はいつもこうだ。なんでこんなに懐かれたのか、それが不思議でしょうがないと、横に寝転がった伊香をちらりと見る。
下にジャージを着ているとはいえ、スカートで、こんなに大股を開いて寝転がるというのは、あまり美しくはないよなぁと思いながら、俺はまた、空を仰いだ。するとそのとき、チャイムの音が鳴り響いた。
「あっ! も、こんな時間っ。先生、戻んなくていいの?」
それを聞いた伊香が、慌てたように起き上がる。チャイムにはブチッ、ブチッと、電気が切れるような音も紛れていて、俺にも焦りが伝染してきたようだったた。
「俺は空き。伊香は?」
「体育だよ。先生は空きあっていいね。生徒にも空きあればいいのに。」
だからスカートの下にジャージを履いていたのかと納得をし、屋上から体育館までの道のりを頭に思い浮かべる。
「間に合うか? 体育館まで遠いだろ。」
「今日は外。だから着替えてきてるの、って……屋上から飛べたら、すぐなのにね。」
屋上からはグラウンドがよく見える。たしかに飛び降りればすぐに着くだろうが、無事に辿り着けるわけがない。そう考えた俺の背中に、ゾクリと寒いものが走った。
「伊香……おまえ、なんか悩みでもあるのか?」
伊香は、よっと声を零し、立ち上がりながら、クスリと笑った。
「違うよ。子どもみたいだけど、ただ空飛べればいいなぁって思うだけ。せっかく同じ名前だし、それに――あ、うん、なんでもない。」
と、空を見上げたまま伊香が言葉を止めた。そのときの伊香の横顔が、その表情が、何かに耐えているようで、痛々しかった。
「じゃ、先生。あんまサボんないようにね。」
そう言った伊香の顔からは、さっきまでの痛そうな表情は、もう消えていた。
「サボったことなんてありません。」
「どうだか。」
ひらりひらりと手を揺らし、伊香が背を向けて走っていった。そして、伊香が屋上の戸の前に立ったとき、また、チャイムの音が大きく響いた。
「げっ!」
と、伊香が大きく叫ぶ。その可愛らしさの欠片もない伊香の声に、俺はついつい、口をおさえた。
◆
空気中に、熱湯が浮かんでいる。
そのぐらい暑い中、部活に精を出している若者たち。それを見下ろしながら、温くなった缶コーヒーを口に運んだ。屋上の手すりに寄りかかっていると、遠くに見えるのは、野球部が束となって走っている風景。それと、その向こうでは、サッカー部が二手に分かれて、試合の練習をしているらしい、ところだった。
「なんっで、あんなに夢中になれるもんかね。暑いってのに……。」
彼らは、ちゃんと水分補給をしているのだろうか。見たところ、誰も休憩をしようとしない。が、熱中症で倒れたりしたら、シャレにならないのではと心配になりながら、ダラダラと流れる米神の汗を手の甲で拭う。
煙草に火をつけてから二分も経っていないが、この茹だるような太陽光には、正直なところ音を上げそうだ。
「ダメだ。」
俺はひとり言をつぶやきながら、携帯灰皿に煙草を押し付け、火を消した。
「よく煙草なんて吸ってられるね。倒れるよ?」
その声に、またかと声に出さずに心で思う。もう当たり前となった屋上にいる伊香の姿。彼女は、とても鬱陶しそうな顔をして、そこに立っていた。
「なんで夏休みに……あぁ、補習か?」
「はっ? 私これでも、成績いいんだからね?」
ぷくっと頬を張った伊香が近づいてくる。伊香は、タンクトップにショートパンツと夏らしい格好をしていたが、その服装に不似合いの学校指定の上履きを、踵をつぶして履いていた。
「踵、つぶすと猿川先生がうるさいぞ。ちょっとでも折れ目入ってんの見りゃ、目くじら立てるから。」
学校といえば、よくわからない決まりがある場所の代表だ。
肩にかかる髪は結ぶ。髪を結うゴムは黒か茶色。化粧をしてはいけない。男子なら、髪の毛は耳が出るぐらいになど、他にもある、たくさんの決まり。
いつ役に立つのかもわからないその決まりだが、従っていた方が楽だ。
「ね、私ずっと思ってたんだけどさ。踵つぶして履くのって何がそんなにダメなの? 猿川先生の怒り方、異常っていうか、みんなひいてんだけど。」
生活指導の猿川先生は、とにかく細かく、ねちっこい。理不尽で怒られる生徒も多く、俺も苛立つときがある。さらに生徒だけじゃなく、その担任にまで怒りを向けてくるものだから、教師からしても、鬱陶しいことこの上ない先生だ。
「まぁ、物は大切に? ほら、なんかあったとき、全速力で走って逃げらんないとか、転ばないようにってことじゃね?」
とは言ったが、知らないけどな、本当のとこはと心の中で思った。
上履きに関しては、まだこういう理由がありそうだと想像がつく。けれど髪の毛だとか化粧に関しては、正直、それほどの意味があるとは思えない。
けれど、ずっと続いてきたことを変えるというのも大変な労力がいるのだ。そんな面倒なことを、誰もがやろうとしないだけなのだろうと、ぼんやり思う。
「なら、そう言えばいいのにね。やめろばっかで。何でダメなのか教えてくれたら、わかるのに。」
自分よりもはるかに年下の生徒に、そんな尤もらしいことを言われている猿川先生。可哀そうにと思いながらも、せいせいした気分に口角が緩む。それを知られないようにと、俺は右手で口元を隠した。
「まぁ、一応表面上は従っていた方がラクだぞ? 大人だってそうだ。変えなきゃ! なんて、立ち上がるのもしんどいだろ。そんなのは、いざってときだけで、」
「先生。」
言葉を遮られ、俺は伊香に、首を傾げて見せた。
「やっぱり、先生――、」
けれど伊香は、その続きを口にしてはくれなかった。
◆
秋の匂いなど感じたことがない。
けれど手の甲に感じる空気の堅さが、はっきりと変わった。ピアノの音色と、少し歪な歌声と。この音が毎日聞こえるようになってくると、秋が来たのだと実感するようになる。
そんな中、俺は煙草を吸い終わっても、屋上から出られないでいた。何かが名残惜しくて、あと五分だけと何度も思い、しばらく経つ。このところ、伊香が姿を見せなくなった。といっても学校にはちゃんと来ているし、廊下ですれ違うこともある。ただここに、屋上に来なくなったのだ。毎日毎日、それこそ夏休みにまで顔を出してきていたものだから、それがパッタリとなくなると、寂しいものだ。
きっと飽きたんだろうなぁと、頭の中ではわかっているが、それでも未練がましく屋上にいる時間を引き延ばしている、自分。あともう一本だけと取り出した煙草を指に挟み、煙草の先をじっと見る。煙草の本数が増えたこの数日間。煙草も値上がりして、安くないというのに、捨て去れない期待に、つい煙草の先に火をつけてしまう。
そして今もまた、三本目の煙草に火をつけようと、口にくわえた。
「どうしようもねぇなぁ、おい。」
カチカチとライターの音を鳴らしたが、風のせいかオイルがないのか、火がなかなか灯らなかった。オイルの残量を確認しようと、ライターを上に掲げ、片方の目を瞑る。
「あっ、いた!」
と、数日振りに聞く声が俺の耳に入ってきた。
俺は声がした方へ顔を向けた、ライターを掲げていた手は、そのままに。
「なんだ、伊香か。」
そう言った俺の声は弾んでいた。屋上に来た伊香に、まだ飽きられてなかったのだと、ほっと安堵の息を零した。
「なんだはない。なんだはないよ、先生……ちょっと人数合わせで合唱部に呼ばれてるんだけど練習厳しくて。ちょっとだけ逃げてきた。」
頬を綻ばせながら近づいてくる伊香に、俺の顔も自然と締まりを失くしていった。それを誤魔化すようにして、口にくわえていた煙草を取り、箱に戻した。
「吸えば?」
「だぁから、子どもの前で吸ったら先生が怒られるの、いろんな大人に。」
俺がそう言うと、伊香の大きくまん丸の目が、細く形を変えた。
「『子ども』ってのは嫌だな、まだ大人じゃないとはいえ、さ。」
あまりにも悲しそうに下げられた伊香の目尻。その伊香の目尻が、今にも涙を蓄えそうでいて、俺は思わずゴメンと謝った。その俺の謝罪を聞くと、奇麗に整えられた伊香の眉尻はますます下がった。
けれど伊香は、ニコリとした笑みは崩さなかったが――傷つきました――と、伊香の目にそう言われた気がした。すると、俺の心臓のあたりが、何かに刺されたかのように、ジクジクと痛みを持ち始めた。
「たしかに子どもは、そんな顔しないよな。ちょっと大人だ。」
「……ねぇ、先生。」
「ん?」
胸の痛みを癒そうと、俺は空に視線を逃した。けれど高い空の上では、いつもよりも雲が早く流れている。まるでそれが、俺の中の焦りを現しているようで、痛みは一層大きくなった。
「先生はやっぱり――大人が好き?」
その問いに、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。伊香の声が全く別人のもののようにも聞こえて、なんとなく伊香の顔を見ることができなかった。
「さぁな。」
空から目を離さずに、俺はそうとだけ返した。
それが精一杯だったからだ。
◆
「降り始めた雪の最初の一片、地面に落ちる前に取れたらね、恋が叶うんだってさ。先生やったら?」
よく耳にする、まじないごとの話。しかもそれは雪ではなく、桜の花びらではなかっただろうか。そんなことを思いながらも、伊香も年相応な女の子なのだと、しみじみ思う。
「あのな、伊香。空は広いんだぞ。どこに降ったのが最初の一片かなんて、わかんないだろ。」
「……大人って夢ないね。」
「なくて結構。それに、まじないで叶うもんでもないだろ。イケるときはイケるし、ダメなもんはダメ。それこそ縁の話だろうし、諦めない! って、何度も挑戦するってのも、相手からすりゃ恐怖でしかないだろが。」
伊香は、白い目を俺に向けた。と思ったら、すぐに空に目をやった。そして伊香が左手で髪の毛を耳にかけると、伊香の横顔が露になった。今年の春から始まったこの逢瀬。その頃を思い出すと、どことなく、伊香の顔つきが大人になったように見えた。しゅっと上がった顎の輪郭と、頬の丸みもいくらか減った。
それに、黒い髪の毛がかけられている耳の形。それが、なんかこう……と、ちょっと邪な思いを抱きながら観察していると、伊香がばっと、こちらに顔を向けてきた。
「そうだ! 先生って、クリスマスの予定は?」
「へっ?」
突然バチリと合った目に俺の心臓が飛び跳ねる。バックバックと胸のあたりが騒ぎ出し、次いで罪悪感にも似た思いが湧いてきた。
「し、ごとだよ、平日だし。」
「良かったね、予定ない言い訳になって。」
そんな憎まれ口をたたいてきた伊香の頬は、薄っすらと赤く染まっていた。よくよく見れば頬だけではなく、顎先も鼻の先も、眦も、前髪の隙間から見える額までもが、赤く色づいていた。
「戻るか。風邪ひいたら大変だからな、受験生さんは。」
師も走るとの言葉があるが、慌ただしいのは教師だけではない。冬の寒さも厳しくなってきて、もうあさってはクリスマスだ。万が一風邪などひかせてしまったら、受験勉強に差支えが出てしまうと思った俺は、伊香の肩を軽くたたいた。
「戻るぞ。」
と、声をかけたとき、伊香の黒目が大きく動いた。そして伊香は遠くを見つめ、自分の両腕を空へと伸ばした。それにつられて俺も伊香の目の先を見る。すると、澄んだ青い空の上から、真白い雪がひらりと一片、降ってきた。雪の花びらが、ふわりふわり、右に左にと踊りながら降りてくる。その雪に合わせるように、伊香の両手も一緒に揺れる。頭一つ分低いはずの伊香の背。それがわずかに高くなったのが、俺の横目に映り込んだ。
落ちてくる雪を目で追えば、その一片が伊香の手のひらの上へ舞い降りた。
「良かったな。叶うんだろ? 恋。」
雪は、伊香の手のひらの上で、すぐに溶けて水となった。それがあまりにも一瞬で、伊香の手の熱さを物語っているようだった。するとそれを隠すようにして、伊香の手がぐっと握られる。
その握られた伊香の拳の赤さ、小ささ。
なぜか、その手を見てはいけないと思った俺は、拳から目を逸らした。
「よし、戻ろうか、な? 」
「先生。」
俯くようにしている伊香。俺から見えるのは、鼻と口元、そして胸元にある小さな拳。その拳はふるりふるりと震えていた。
「好きです。」
俺のような、比較的若い独身の男性の教師は、生徒から告白されることが、たびたびある。それは俺も何度か経験していたことだった。一番多いのは春。バレンタインから卒業前や卒業式当日、それにクリスマスの前というのも、多かった。
「それは嬉しいよ。ありがとう。」
こういうとき、彼女らには、いつも同じことを言ってきた。
「でもなぁ、伊香。ハッキリ言って、もったいないぞ。大人になって社会に出れば、どっかの社長だとか、御曹司だとか……それこそ、すっごいイケメンに出会う可能性が広がってるんだ。広い世界に出れば、しがない一教師のことなんて――」
――忘れるんだから、やめとけよ、と。それが断るときの常套句だった。
けれど伊香には、それを言うことが躊躇われた。
「だから……そうだな。五年後、大人になっても、まだ俺がいいと思ってくれたら、会いにおいで。そのときは――」
と、俺は伊香に狡い言葉を返したのだ。
◆
「先生って、いっつも空見てますね。」
そう言われた俺は視線をずらして空を見て、天を見上げた。
未練がましく期待はしていた。けれど、諦めませんからと言って涙を堪え、決意を残していった生徒たちは皆、戻ってこなかった。数年経ってから俺に会いに来ることなど、一度だってなかったのだ。
たった三年間だけの、狭い箱庭の中。その間、珍しいものを見つけた彼女らは、恋に恋する年頃で、恋する自分に酔いしれる。それは何も悪いことじゃない。そのときの彼女らは彼女らなりに、本気で恋をしているのだろう。そのキラキラとした美しい想いは、俺にぶつけられるだけぶつけられ、のちのちは、彼女らの中で奇麗さっぱりと風化されていく。ただそれが、ほんの少しの寂しさを呼ぶというだけだ。
けれど、彼女は違った。
「いっつも空見てるから。もし私が飛べたら、私のこと見てくれるかなって、ずっと思ってたんだよ。」
彼女の、涙が溜まる目から、視線を横にずらす。彼女の耳には、栗色の髪の毛がかけられていた。そして、彼女の耳たぶには、あの頃はなかった桜色の小さな石のピアスが光っていた。そのピアスは彼女にとても似合っていて、本当に、彼女が大人になったのだと思い知らされた。
「私の下の名前、先生、漢字でどう書くか覚えてる? ていうか、知ってた?」
彼女の涙が、俺の頬に一粒落ちる。彼女がぽろりと涙を零したのを、俺は今、初めて見たのだ。
その涙を見た俺は、彼女の背に手をまわして引き寄せた。そして彼女の唇に、自分の唇を押し当てた。ちゅっと、音すら立たないほどの、静かな、ただ触れ合わせるだけの口づけを、俺は彼女に送ってやった。
「手、はや。」
俺の唇が離れた途端に、そう言った彼女の涙は、まだまだ止まりそうになかった。
「知ってたよ。伊香 天。『天女』の天だろ。」
すると、ぼわんと赤く染まっていたはずの彼女の頬が、青くなった。
「ちょっ、それっ、さむっ。鳥肌……っ。」
そう言われた俺は上体を起こした。そして泣きながらも、思い切り身を引いて逃げようとしている彼女を、逃さないように、力いっぱい抱きしめた。
「美人だって言われてるようなもんだ、喜んどけ。」
「……もう、やめて……。」
か細い声でそうは言っても、彼女は俺に身を預けた。
そして、ゆっくりと俺の背に腕を回したのだ。
「天に帰っても、知らないよ。」
「まぁ、そんときは……羽衣でもなんでも隠して、どうにか引き留めるさ。」
「寒すぎる。」
可愛くないことを言いながら、震えている彼女の背中は小さかった。俺の腕が簡単に回るほどの小ささに、昔の彼女の、後ろ姿を思い出す。あの頃は、もっともっと、小さかったのだろう、と。
「約束だもんな――彼氏にしてもらおうかな?」
あのときの約束を果たそうか。
そう思った俺は、彼女を抱きしめる手に、ぐっと力を込めた。
「どうか、彼氏にしてください。」
あらためて言うと、彼女はコクリと頷いた。けれど、顔を見せてはくれない彼女が可愛くて、俺は、頬が溶けそうなほどの嬉しさから、ククッと笑ってしまったのだ。
そして、彼女がどうやってここに来ていたのか、それは今でも、謎のまま。
どんなに聞いても、決して答えてはくれなかった。