陵王の登場
ついで不可思議な感覚が身に襲い来る。中空の、丑寅の方向に目が引き寄せられると思いきや、何と一座の公達らが皆その中空へと上って行き、そちらから自分においでおいでをしているように感じられた。地に墜ちたあまつおとめどころか、逆に十二単が羽衣のようになって我が身をも上へと昇らせて行く。下を見ればそこには得子ひとりだけが取り残されていた。その得子をさして一座とともにさんざんに嘲笑するのだが、はて、ここ十余年来の我恨み辛みを一気に晴らすようなこの椿事快事の出来を、空中浮遊ともども一向に不思議と思はぬ自分が璋子にはどこかで解せないでいた。自分であってないような、あたかも何者かに誘導され、このまま心身を乗っ取られるような気にさえもなる。一瞬危惧の念を覚えたときさらなる快事がこれを掻き消した。なんと夫、鳥羽が、上空から自分に手を差し伸べている。得子ではなく自分に、この璋子に!…満面に笑みを浮かべては檜扇を下に放り投げ、こちらも両手をさしのべつつ璋子が急ぎ夫のもとに寄って行く。天女の羽衣のように開いた檜扇がひらひらと舞って落ちて行くのを受け止めた者がいる。ひとしきり鳴った竜笛がこのとき止んだ。
「六道の蛇やある(六道の蛇はいるか)。六道の蛇やある」と大音声に連呼しつつ、恐ろしげな陵王の仮面をつけた男が舞台へと上がってきた。左手で受けた檜扇をゆっくりとふりながら、右手に抜き身の大剣をふりかざしつつ璋子のまわりを悠々と廻り始める。いつの間にか丑寅の中空から降りて舞台の上に立っている自分を璋子が確認する。公達らももとの席にもどっていた。いきなりの狼藉者の乱入に「こ、これは何者か」と悲鳴に近い声で璋子が糾弾したが誰ひとり取り押さえようとするものがいない。勇猛なる北面の武士たちでさえ恐ろしげに陵王を注視しているばかり、刀の柄に手をかける者もいなかった。陵王ひとりに皆がいすくめられているかのようだ。璋子の十二単が生きもののようにざわつき、その着付けがひとりでにゆるんだと見えたとき、掛け声もろとも陵王が璋子に切りつけた。