僕は君のもの、と言われても
わたしは綺麗でありたい。かわいくありたい。素敵な自分でありたい。
誰に好かれたいとか、周りからどう見られたいとか、そんなのは二の次。
わたしはわたしのために、綺麗でかわいくあるだけ。素敵なわたしでいることが、自分のパワーになる。
〝今日のわたしは最高にかわいい〟って鏡の前で言うだけで、その日一日は何でもできる気がするの。
だからわたしは努力する。
昨日よりもっとかわいく、一昨日よりもっと綺麗に、そう思って自分を磨く。それは幼い頃からずっと変わらない。
物心ついた頃のわたしは、はっきり言って全くかわいくなかった。
顔のつくり自体はよかったわ。両親は美男美女で、わたしはしっかりその血を受け継いでいたから。
ただ……太っていたの。手足はパンパンで、お腹はまんまる、笑うと目が潰れるくらい肉だらけで、子どもらしい丸みなんてレベルを超えた――ただの子豚。
わたしは産まれてからずっと、両親や幼なじみ、使用人などの周囲に大切にされて、かわいがられていた。わたしの周りには大好きな、綺麗でかわいくて素敵なものが溢れていたの。
でも……それを持っているわたしは一番かわいくない、みにくいもの。
幼稚舎に入り外の世界に触れたことで、わたしははじめてそれに気づいたわ。
とても、恥ずかしかった。
わたしのことを〝かわいい〟と〝綺麗だ〟と言ってくれていたひと達を否定して反抗することも、真実を知って泣きわめくこともしなかった。
ただただ恥ずかしくて、親の欲目やおべっかを信じ切って自分のことを世界で一番かわいいと思い込んでいたわたしを、消し去ってやりたいとまで思ったくらい。
これ以上ないくらい落ち込んだけど……わたしはそこから奮起した。子豚から可憐な花になろうと努力を重ねたの。
今の自分が持つにはふさわしくない〝綺麗でかわいくて素敵なもの〟を全部手放した。
無理のない範囲で運動をして、おやつを際限なく摂るのをやめて、食事も普通の幼児と同じレベルにした。メイクはまだまだ早かっから、ひたすらスキンケアと健康にだけ気をつけた。
今思えばだいぶおませで変わった子だったかもしれないけれど、両親はそれを受け入れてくれた。
わたしの家は一般的に見てかなり裕福だから、許された面もある気がするわ。
そしてわたしは〝かわいい〟を真実にした。綺麗でかわいく素敵な――綾織かれんになった。
さらさらでつるつるの黒髪ロング。奥二重だけど大きくてバランスのいい目。ぽってりとしたコーラルピンクの唇。肌荒れも日焼けも許さない鉄壁の白い肌。脂肪だけにならないよう日々気を遣っている身体。
もちろん、気を遣うのは外見だけじゃない。だって外見だけ綺麗で中身が不細工だと全く素敵に思えないでしょ? だから中身を磨くことも常に忘れない。たくさん勉強をして、家柄に恥じない礼儀作法を身につけて、素敵な女の子を目指したの。
全ては、わたしが納得するわたしでいるため。わたしが好きなわたしでいたいため。
朝起きて、綺麗にメイクをして、制服を着る。
黒のセーラーワンピースと、白いリボン。古くさいなんて言うひともいるけど、清楚でかわいいとわたしは思う。
鏡の中のわたしににっこりと微笑み、無敵のパワーをもらう儀式をする。
「おはよう、わたし。今日も最高にかわいいわ」
× × ×
わたしは幼稚舎から高等部までが一貫となった学園に、中等部から通っている。
いわゆる上流階級の子息子女が集まる、全寮制の学園。初等部までは同系列の女子校に通っていたけど、両親に勧められてこっちに切り替えたの。
この箱庭にあっても飽きることなく自分磨きをするわたしは、わりと浮いていた。浮いていたというか、もっと悪意のある方向で弾かれているというか。
それは高校にあがって数ヶ月経った今でも変わらない。ううん、もっと悪化しているかもしれない。
たとえば〝男に媚びようとしている〟とか。
たとえば〝自分をかわいいと思い込んでいてイタイ〟とか。
たとえば〝他の女子を見下している性悪〟とか。
そういう噂をする方こそ、わたしを見下していると思うの。
だって、わたしに関わることもなく内面をひとつも知らないまま、そういう評価をするなんておかしいでしょ?
男好き。自意識過剰。ナルシスト。高慢女。そんな風に好き勝手噂して、仲間内で楽しんでいる。そしてわたしにも聞かせるようにして、あえてわたしの近くで噂話をする。
わたしが自分磨きをしている努力なんてどうでもよくて、ただ綺麗でかわいいわたしが男子に好意を向けられているという結果だけから色んな推測をして攻撃してくるの。
これってすごく馬鹿にしている。わたしの全てを、否定しているとしか思えない。
ナルシストと言われるのはわかる。だけど後の噂は全部嘘なのに……
どれだけ外見を、中身を磨こうとも、わたしのことを好きになれないひとがいることは知っている。自分のことをかわいいって口に出す女が嫌いなひとは、結構多いみたいだから。
わたしがかわいいことに嘘はつきたくないから〝かわいいね〟って言われたら肯定していた。普通だったら謙遜しておくべきだと、知っていてもしたくないの。わたしの努力が実っている証拠なのに、それを否定なんてしたくない。
わたしは容姿で他のひとをけなしたことなんてないのに、どうしてか見下されてると感じるらしい。だから高慢女なんだって。人と比べて自分の方がかわいいって思い込んでる自意識過剰なんだって。誰に迷惑をかけてなくても、嫌われるものは嫌われるんだって。
だからいくら中身を磨いても、多数のひとはわたしのことを性格が悪いと言う。そんなわたしは中等部から入学したのも相まって、友達が少ない。
友達はみんな、ちゃんとわたしがどういう人間で、どんな努力をしているのかわかってくれている子ばかり。
彼女達がわたしを理解してくれるから、色んな噂は嫌だけど、泣く程つらいものでもない。
ない、んだけど……
「あいつ、今度はリリカの彼氏盗ったんだって。ありえなくない?」
「うっそ……だからリリカ休んでるの? 最低ー。ちょっと顔がよくても、性格ブス過ぎ」
「うちらの友達の彼に手ぇ出すとか、頭空っぽなの~?」
「どうせまた上目遣いで媚びたんでしょう。ここに男あさりに来てるのかって感じ。元の学校に戻ればいいのに」
放課後になってすぐの教室に、いやに陰湿な会話が広がる。
このクラスには、わたしの友達はひとりもいない。知り合い程度の付き合いしかないクラスメイトの誰もが、その会話を聞かなかったふりをする。参加しないし、同意もしないけど、反論したりもしない。みんな巻き込まれたくないから。
名指しをせず、ただひたすらこっちをじろじろ見ながら愚痴を言い合う四人組の女子達は、このクラスでも目立つグループ。スクールカーストというもので表現すれば上位だと思う。
彼女達は週に数度、悪ければ毎日、こうやってわたしのことを攻撃してくる。たまに授業で使うプリントが回ってこなかったり、移動教室の連絡が止められていて授業に遅れてしまったりするけど、ほとんどはこうした口での攻撃ばかり。
あんまりにもねじ曲がって悪意しか残ってない噂話を、これみよがしにされるのはさすがに気分が悪いわ。
どうしてここまで、よく知らない相手に対して悪意を持つことができるのかしら。
わたしが何をしたの? 〝リリカの彼氏〟って誰? ……きっとまともな返事は返ってくるはずもないけれど、言われるとそう聞き返したくなる。
そもそも、わたしは自分磨きが大好きで、彼氏なんてどうでもいいの。
言い寄られることは多いわ。でもわたしが心を奪われるようなひとなんていないから、みんなお断りしている。その中に〝リリカの彼氏〟も多分いるんだろうけど、興味がないから知らないし、第一お断りした相手に媚びるなんておかしな話でしょ?
しかも何だかわたしが尻軽みたいな言い方。よく知りもしない相手に、わたしが身体を触らせるわけがない。
いつか最高にかわいい自分を最高に愛してくれる素敵なひとと出会って、そのまま結婚する予定。だから、当然わたしは身も心もまっさらで綺麗なまま。
でも……そんなことを主張してもどうせ信じないだろうし、そもそも悪意に立ち向かっていくのも馬鹿らしいわ。
無駄な時間を過ごして疲れるだけ。ストレスは美容に悪いから、できるだけ受け流すのが正しい。
今までたっぷりそれを学んできたわたしは、舌打ちと口汚い罵倒を飛ばしてくる女子達を無視して教室を出る。罵倒の声が大きくなったけど、いつものこと。
「――やっぱ綾織、かわいいよなぁ」
「えー? オレああいうプライド高そうな女無理だわ」
「性格悪そうだけど、一回くらいヤれればって思うとどうよ?」
「……めっちゃアリ」
廊下の向かい側からくる男子の集団が、舐めるような目でわたしを見る。
これもまた気分が悪いけど、反応しない。
わたしのかわいさはわたしのためにあるものだから、勝手に評価しないでほしいとは思うけど。
「はぁ……」
毎日毎日、同じことばかり言われて、じろじろ見られて。
息が、つまる。
ストレスなんて溜めたくないから、寮とは反対の道を進む。
こんな日は、決まって行く場所があるの。真っ直ぐ帰ってエクササイズやランニングをするより気分が晴れる場所で……たまに、あるひとが訪れる場所。
思い浮かべると足が軽くなる。今日は会えるかしら?
わたしが唯一、〝綺麗でかわいくて素敵なもの〟だと思えたひと――天使ちゃんに。
× × ×
自分が子豚だと気づく前、わたしはたくさんのものに囲まれていた。
自分より大きなミルクティー色のテディベア。ふわふわで柔らかいクッション。こびととお姫さまが歌い出すからくり時計。ちょっと背伸びをしたきらきらのジュエリーボックス。クリスタルガラスに入った色とりどりのキャンディ。
大好きなもので溢れたその空間に、一番のお気に入りを座らせて、そこで過ごすのが好きだったの。
わたしの天使ちゃん。
名前が天使っぽいからそう呼んでいたのは、わたしが大好きなもの達を手放すまで。
今は心の中でも呼ばない。もうわたしの天使ちゃんではないから。
今思い出しても、とても綺麗な子だったわ。
ほんのりピンクがかった白い肌も、銀色と灰色の間みたいな色の髪も、澄んだ空色の瞳も……わたしがよく読む絵本に出てくる天使さまと、色違いの双子なんじゃないかと思うくらい、何もかもが綺麗だった。
わたしの幼なじみだった天使ちゃんは、とても物静な子。親同士の繋がりでわたしと遊ぶことになった時も、あまり何かを主張してくることがなかった。
だからわたしはいつも、その子の手を引いて自分の部屋に連れて行ったの。お姫さまみたいなレースとフリルで溢れたその空間にある、ピンクのベルベットが張られた椅子に座らせて、自分の目で楽しんだ。ものを押しつけるような下手くそなお世話をして、ありがとうと微笑むその顔を見るのがしあわせだった。
かわいいぬいぐるみをあげて戸惑う天使ちゃんも、綺麗なお菓子を一緒に食べる天使ちゃんも、素敵なオルゴールの音を聞きながら隣で寝転んでいた天使ちゃんも、全部覚えている。
たくさんの花で冠を作って、それをお互いに贈り合った。わたしの記憶にある一番綺麗な瞬間は、花冠を被って微笑む天使ちゃん。
あの頃、天使ちゃんはわたしのものだった。わたしの思う最高の〝綺麗でかわいくて素敵なもの〟だったの。
そして今は――
「……かれん」
学園の敷地の端、小講堂の更に奥にある、裏庭とも呼べないさびれた庭。
石畳にベンチが置かれただけのそこにいる先客は、わたしが声をかける前に顔をあげた。
すっかりかわいくなくなってしまったけど、綺麗で素敵なひと。
ひとつ年上の彼、水星院 晏珠はわたしが出会った中で一番綺麗な生き物。
日本人のお父さまとスウェーデン人のお母さまの間に産まれた彼が持つ色は、この学園でも目立つ。ほんのり赤みのある肌はほとんど真っ白と言ってもいいくらい白く、成長するごとに色濃く青みを帯びてきた髪は冬の曇り空に似ている。逆に目はだんだんと薄い色になって、今では空より氷の方がイメージとして近いと思う。
どちらかというと背が低めのわたしは、すらっとした長身の彼の肩口にも届かない。読んでいた本を閉じるその手すら、絵画を切り取ったように綺麗だ。黒のブレザーとグレーのシャツ、黒のスラックスというシンプルな制服が、まるでオーダーメイドの礼装に見えるくらい決まっている。
〝天使ちゃん〟より〝天使さま〟って感じの雰囲気になってしまったけど、昔からのうつくしさは変わらない。
この学園内で強い権力を持つ生徒会の書記である彼はとても人気があって、いつもだったら色んなひとに囲まれている。相変わらず物静かだから、本当にただ囲まれているだけみたいだけど……
そんな彼はどうしてか、こうして放課後を過ごすことがある。
はじまりは、わたしがここに入学してすぐ。この庭を見つけてひとりでいたら、なぜか彼がやって来たの。
中等部ではすれ違うだけで話すこともなかった。すっかり遠い存在だと思っていた彼と何て会話をしていいかわからないわたしとは反対で、彼は何事もなかったかのように、わたしに声をかけた。まるでそれが日常みたいに、普通に。
それからわたしがここに来ると、三回に一回の確率で彼はベンチに座っている。
どうして今更、とは思う。だけど理由は聞いたことがない。他愛ない話しかしないその空間を、変に壊すのが怖かったから。
「またいる……暇なの?」
「うん。座って」
「いいわ。あなたが先にいたんだし」
「ここ、三人掛け」
外見からしたら、きっと透明感のある澄んだ声を想像するかもしれないけど、彼の声は意外と低い。バリトンボイスとまで言わないけど、ハイバリトンくらい……とにかく声量がなくても聞き取りやすくて綺麗な声なの。
天使ちゃんだった頃はもちろんもっと高い声だったけど、声の印象は変わらない。彼の声は頭にすうっと入ってくるから、たまに何かを主張してくると、わたしは必ずそれを叶えてあげていたわ。
思い出して微笑みそうになるのを抑えて、彼から人ひとり分空けてベンチに座る。座る前にさらりとハンカチを敷かれたけど、避けるのも逆に失礼だからそのままにしておいた……いつものことだもの。
「……ハンカチ、今度こそ洗って返すから」
「気にしなくていい」
芸術品みたいに綺麗な彼が、目元を和らげる。
噂では滅多に表情を変えないと聞くけど、彼はわたしの前で無表情なことの方が珍しい。
昔から、そうだった。物静か過ぎるくらいおとなしい子だったけど、話しかければきちんと返ってきた。困った時は眉を下げて目を泳がせたし、嬉しい時は控えめに微笑んだ。
――今は、どうしてわたしにそうやって笑いかけてくれるのかわからないけど。
わたしは幼い頃に、彼を手放した。
持ち物でもペットでもないのにそう表現するのはおかしいかもしれない。でも間違ってはいない。
彼が両親と一緒に遊びに来ても、わたしは部屋から出ることもなく、誰も通すなとかたくなに彼を拒否した。みにくいわたしに〝綺麗でかわいくて素敵なもの〟を触れさせたくなかったの。
同じ学園に入学しても学年が違うから、中等部の頃は遠目から見るくらいで彼と直接接触する機会はなかった。けれど今は、こんなにも近くに彼がいる。
……どう接していいか、未だにわからないの。
今更甘ったるく〝わたしの天使ちゃん〟なんて呼べないし、かと言って何の落ち度もない彼につらく当たることもできない。
結果的に、わたしは素っ気ない物言いしかできない。それでも彼は昔のように、小さな声でわたしを呼んでくれる。ううん、昔よりもわたしに話しかけてくれる気すらするわ。
「かれん、今日は体育があった?」
「……そうだけど」
「髪、結わいた跡がある」
「えっ! 癖ついてるの?」
きちんと直したはずなのに、恥ずかしい。
髪の毛全体を撫でつけるように何度も両手で梳くけど、どのあたりに癖が残っているのかわからない。いっそのこと下ろすのをやめてアップにした方がいいかも。
そう思いながら制服のポケットを探り、ヘアゴムを取り出すと……
「貸して」
「え、どうして」
「鏡がないとやりにくいから、僕がやる」
さっと立ち上がった彼が、わたしの手から奪ったヘアゴムを指に引っかけて、ベンチに座るわたしの後ろへ回る。
そのまま髪を持ち上げられ思わず固まるわたしにお構いなしで、彼はどこからか取り出した櫛で髪を梳き始めた。
入学して、半年以上。
彼がこうやってわたしに触れることは、何度かあったわ。
髪に花びらがついていると取ってくれたり、制服のリボンが少し曲がっていると直してくれたり、プリントで切ってしまった指に絆創膏を巻いてくれたり。
触れなくても、まるでお世話をしてくれるようなことは、それより多くあった。
わたしの好きな銘柄の紅茶を持参したり、かわいいボトルに入ったキャラメルをくれたり、今みたいにベンチにハンカチを敷いてくれたり。
どうしてこんなことをするのか、それすら聞いたことがない。
最高にかわいいわたしをお世話したいっていうなら頷けるけど、彼はみにくいわたしを知っている。だからおかしいの。
でも、それを言うとこの関係が崩れてしまいそうで、怖い。
「痛くない?」
「……大丈夫」
だからわたしは何も指摘しない。
このふわふわとした、よくわからない関係をはっきりとさせないの。
わたしが思い浮かべる、最高に素敵なひとが……まるでわたしを愛してくれているような、夢を見たいから。
× × ×
幼いわたしは、彼に恋なんてしていなかった。
でも、彼はわたしのものだった。恋なんて感情をまだ知らないわたしが、一番大切にしているものだったの。
その感情だけは今でもはっきりと思い出すことができるわ。
みにくかったわたしのことを、わたしはきちんと受け入れている。恥ずかしい過去だけど消せるものじゃないし、そこからこんなにかわいくなった自分がすごいと思うから。
だけど彼にとっては、しあわせでも綺麗な過去でもないはず。ぶりぶりのドレスを着た子豚に、女の子の趣味に溢れた部屋に押し込められていたなんて、到底いい思い出にならないでしょ?
再会した彼はわたしのものじゃない。ひとりの人間。とても素敵な、男のひと。
そんなひとに、まるでお姫さまのようにお世話されて、大切にされたら……嫌でも意識してしまう。
どうしてあなたを手放したわたしに、近づくの。
あなたを自分のもの扱いしていたわたしのこと、どう思っているの。
聞く勇気もないのに、いつもいつも考えてしまう。
彼と過ごすと、ストレスなんてあっという間に消えていく。
でも反対に、もやもやとした気持ちが増えるばかり。
しかもストレスみたいに解消できなくて、ずっと積もっていく。こうして数日空けても、その気持ちはなくならない。
「かれん、おはよ!」
「おはよう。今日、美術だったわね」
「うん、だからお昼はいつも通り一緒で!」
寮から校舎へ向かう途中、友達が声をかけてきた。
少し離れたクラスの彼女は選択授業の美術が一緒で、週に一度はお昼を一緒に過ごす。
彼女はわたしと違って友達の多い子。もう少し話をしようとしたら、別の友達に呼ばれてしまったみたい。前の方に、振り返ってその子の名前を呼ぶ三人の女子がいる。
少し申し訳なさそうな顔をした彼女に首を振って、わたしはひとりでも平気だから早く行ってあげてと促す。
「ごめん、じゃあ後で!」
「うん」
わたしに背を向ける彼女を待つ女子達は、わたしのことを苦手に思っているらしいの。
悪意ある噂話はしないけど、それを聞いて「もしかして……」と信じかけているのかもしれない。
友達でもないひとに好かれなくてもいい。嫌っても、別にいい。ただ、放っておいてほしいとは思う。その子達から彼女を奪ったりなんてしないのに。
「綾織、ぼっちじゃん」
「笑える。自分かわいい~ってやってるから当然じゃない?」
「ていうか髪型気合い入り過ぎー。また男ひっかけんの丸出しで見ててイタい」
わたしと友達のやりとりをちょうどクラスの女子達が見ていたようで、通りすがりに大きな声を投げつけられた。
最近、前にも増して攻撃が多い。
口での罵倒に加えて、体操服を隠されたり、教科書をどこかに捨てられたりなんてことも出てきた。きっと誰かの彼氏を盗ったとかいう噂の子が、自分達の友達だからだと思う。クラスメイトじゃないらしいから、わたしはその子のことを知らない。
この間彼がやってくれた髪型がかわいかったから、同じようにしただけなのに、どうしておかしな推測ばっかりするのかしら。
編み込みをいくつか作ってからサイドアップにした髪は、とても上手にできた。鏡の中のわたしは満足げで、かわいいと思った。ただそれだけで、攻撃されるような迷惑なんてかけてない。何が悪いと言うの?
……ううん、このひと達はわたしが悪くても悪くなくても関係ない。わたしが気に入らないから攻撃して、わたしを見下すことで楽しんでいるだけ。
一度目を閉じて、悪い気分を鎮める。
せっかくストレス解消したのに、朝から台無しにされたくない。
――わたしは最高にかわいい。素敵でいるための努力をしている。だからわたしは無敵。うん、頑張れるわ。
ゆっくり自分に言い聞かせて、わたしは目を開いた。そうしたら、わたしを追い抜いていったはずの女子達が立ち止まっているのに気づく。
また何か言われるのが面倒で同じく立ち止まると、少し先に人だかりができていた。
「……ああ」
観察して、納得する。
人だかりの中心にいたのは、この学園の生徒会長と、書記だったから。
上流階級でも最高位に近いクラスの家柄である生徒会長は、これぞ日本男子と言わんばかりの凜々しい男前。面倒見がよく誰からも好かれるタイプで、まさにみんなの中心となるひとだ。
書記はもちろん、彼のこと。芸術品みたいなうつくしさを持つ彼は、家柄も容姿も会長に劣らない。
そんなふたりで並んで登校していたら、こうなってしまうのも頷ける。生徒会役員達は、この学園で憧れの存在だもの。
学園の寮は男女別で三棟ずつあって、女子寮と男子寮はだいぶ離れている。正門前の道でようやく合流できるくらいに。
今まで朝に彼を見かけたことはなかったけど……今日は髪型を整えるのに時間がかかったから、たまたま登校時間が被ったのかしら。
わたしのことを嫌う女子達も近くにいたひと達も、誰もが彼らに気を取られている。
今のうちに教室へ行こう。そう思って道の端を歩いていると、ふと視線を感じた。
足を止めないままちらりと振り返る。そこには淡い水色の瞳があった。
彼は、無表情だと本当に人形みたいな顔をしている。綺麗過ぎて、冷たく見えるのかもしれない。
その顔がゆっくりと、氷が溶けるようにほころんでいく。わたしが知っている、微笑みの形に。
「おはよう」
一瞬の後、ざわめきと息を呑むような音がいくつもした。
彼が誰にも笑顔を見せないのも、必要なこと以外めったに喋らないのも、有名な話。
あまりに珍しい彼からの挨拶に、わたしと彼の間にいるひとの誰もが自分に声をかけられたんじゃないかと思って、弾んだ声で挨拶をする。
――違う。今のはわたしへの挨拶。わたしに声をかけたの。
わたしがもらうはずだった言葉を自分のものにしないで。彼の言葉は、声は、笑顔はわたしのものなの。
おかしな感情が溢れそうになって、唇を噛む。
わたしこそ、何の権利があってこんなことを思ってしまうのかしら。もう手放したものに対して、何を考えているの。
目を逸らして、歩みを速める。
ただこの場からいなくなりたかった。だから振り返ることはしなかった。
必死に校舎へ急ぐわたしは気づかなかった――わたしを見ていた視線が、彼以外にもあったことに。
× × ×
最近、あの庭に行っていない。
未だにストレスが溜まる噂は増えていくし、好き勝手言われるがままの日々。
だけどこれ以上、彼に会ったらいけない気がした。気、じゃない。会ったら駄目。
すでに意識してしまっているのに……これ以上大切にされたら、好きになってしまう。
幼いわたしに振り回された彼は、今も昔もとても優しくて律儀。
きっとわたしがやってきた下手くそなお世話を覚えていて、それを返してくれようとしているだけ。
いくら最高にかわいいわたしでも、あの時のみにくいわたしを一番近くで見ていて一番迷惑をかけたひとと、恋なんてできない。
……頭の中を空っぽにしようとせっかくロードワークに出たのに、雑念ばかりで台無しだわ。
やけに広大な敷地で、夜にランニングをしているひとは少ないから、それだけは助かるけど。
汗だくの顔を首にかけていたタオルで拭い、寮へ向かう。
まだ門限前だし玄関は開いているけど、わたしはそこから逸れて横手の暗がりに入った。
緑の多い学園内には小さな森もいくつかあって、この寮は森のすぐ隣に建っている。誰もいないのはわかっているけどもう一度周囲を確認してから、わたしは角部屋の窓に手をかけた。
一階の角、元々の作りからいってふたり部屋。中等部からわたしを知っているらしい寮長が、この部屋をひとりで使うようにと言ってきたの。一日通して日が入らないけど、ひとりの方が広く使えるし気が楽だから、むしろ嬉しかったのは秘密ね。
少しコツを掴めば、鍵をかけていても開く窓。いくら学園の敷地を囲むセキュリティがしっかりとしているとはいえ、ちょっとずさんだと思う。でも、このおかげで汗だくで寮内を歩かなくて済むんだからよかったわ。
開いた窓枠に手をかけて、身体を持ち上げる。ランニングシューズを片手で脱ぎながらリビングにあたる部屋に入って……そこで違和感に気づいた。
「……何か、変」
ざっと見渡してみても、大きく変わったところはないと思う。
ひとまず玄関にシューズを置きに行くと、違和感は気のせいじゃなくなった。
寮内は部屋以外土足だから、そこには学園で使う靴も、私服に合わせる靴も置いてある。
揃えて脱いだはずのローファーが斜めになっている。シューズボックスの上にあったインテリアがズレていた。
ルームシューズを履くことすら忘れ、わたしは部屋をひとつずつ見て回る。ミニキッチンは特に変化がない。バスルームも大丈夫、トイレも平気。リビングもダイニングも、少し物の位置は変わっているかもしれないけど、問題はなかった。
どきどきし始めた心臓を落ち着けるように、数度深呼吸をして、閉まっているドアに耳をつける。物音がしないのを確認して、一気にドアを開けると。
「――え」
ベッドと、デスクと、チェスト。備え付けの家具はそれだけで、ドレッサーや柔らかいラグはわたしが持ち込んだもの。
インテリアや小物は、幼い頃手放した〝綺麗でかわいくて素敵なもの〟とは少し違うけど、今のわたしが素敵だと思うものを厳選して持ってきた。ささやかだけどわたしの大好きなものだけを集めた空間。
アンティークの白いドレッサーは、高等部に上がった時にお母さまがプレゼントしてくれた。チェスト付きで、コスメやケアアイテムをたくさん入れていた。毎日使って、終わったらチェストを閉じていたはずなのに、どうして開いているのかしら。
嫌な予感が止まらなくて、それでも身体は冷静に少し開いた引き出しを引く。
中身が、ない。
普段使いのコスメ一式が全て消えている。
すぐ下の引き出しを開ける。ここも空。その下の大きめに取られた引き出しも、何もない。
外泊する時に身につけていたアクセサリーなどが入っている、鍵付きの引き出し以外……ほとんどが消えていた。
ドレッサーの上に出ていた、有名な調香師に作ってもらったパルファンすらなくなっていた。
「なに、これ……」
呆然と、ドレッサーの椅子に腰掛ける。そのまましばらく、動くこともできなかった。
鏡に映るわたしの顔は、びっくりするくらい白い。
「寮長に、言わなくちゃ……」
呟いて、違うと首を横に振る。のろのろとクローゼットを開けて中を確認すれば、それは確信に変わった。
現金もカードも、なくなっていない。ドレッサーの中身だけ消えるなんておかしい。
――これは嫌がらせだわ。
こんなにピンポイントで物がなくなるなんて、それ以外考えられない。
わたしがかわいいと自分で言うから、かわいくなくなってしまえと奪われた。最近物を隠されたり捨てられたりしていたんだから、これは被害妄想なんかじゃないわ。
第一、普通の窃盗ならもっと価値ある物を盗むでしょ? それにもっと騒ぎになっているはず。わたしが大切にしているものを盗っていくなら、わたしのことが気に入らないひとに決まっている。
寮長は寮内全てのマスターキーを持っているから、きっとそれを使ったんだろう。クラスメイトは全員この寮で暮らしているし、わたしのことを特に嫌うあの女子達は幼稚舎からの仲で、確か寮長も同じく幼稚舎からの内部進級組だもの。
「…………」
再びドレッサーの前に座る。
息を吸って、吐き出す。
何度かそれを繰り返して、わたしはゆっくりと顔をあげた。
知ってるのかしら、あのひと達は。
長年努力できるってことは、それだけの根性があるってことなのよ?
わたしが泣き寝入りすると思ったら、大間違い。
かわいいわたしが、更にかわいくなる術を奪うなんて、わたしの努力を盗んでいくなんて、絶対に許せない。
それに、ね。
「わたしの〝かわいい〟は、奪わせない」
にっこりと微笑めば、そこにはいつもより優しい目元を和らげたわたしがいた。
× × ×
さらさらでつるつるの黒髪ロングは真っ直ぐおろしたまま。奥二重の目はマスカラもなくくるんとした睫毛に覆われている。ぽってりとした唇は色のつかないリップだけで充分。鉄壁の白い肌はにきびも毛穴もテカリもなし。綺麗に整えてある眉毛と、元から薄く赤みがある頬。
鞄にもメイク直し程度のコスメはあったけど、あえて素顔のまま。
メイクはわたしが更にかわいくなるため。もっと言えば、少し気弱そうに見える顔立ちを引き締めるため。決して容姿がイマイチなのをごまかしていたわけじゃないの。
「あら……? 綾織、さん?」
正門近くで、後ろからかけられた声。
どうしてかとても不思議そうな声だったから振り返ると、そこにはクラスメイトがいた。
後ろの席に座っている彼女は、プリントを回したりすることもあって顔も名前も覚えている。控えめで主張が弱く、でもすっきりとした顔立ちでかわいらしい声をしているひと。
首を傾げたわたしをじっと見て、彼女は弾かれたように首を横に振った。
「ご、ごめんなさい、不躾に見てしまって……お化粧してなかったから一瞬別の人かと思ったんですけど、髪が綾織さんだったので」
「別にいいけど……髪?」
「あの、私、家がサロン経営をしていて、兄も姉もヘアスタイリストで、その……綾織さんの髪はすごく綺麗で目を惹くんです」
わたしが眉根を寄せたせいか、焦りながら彼女が弁解してくる。
あまり気にしていなかったけど、確かに目の前の彼女はとても綺麗な髪をしている。わたしと違ってふわふわな栗色の髪は、かわいくアレンジされていた。
「褒めてくれて、ありがとう。髪にも気を遣ってるから、嬉しいわ」
髪を耳にかけながら微笑むと、彼女は少しだけ目を見張った。
その顔にしている控えめなメイクを見て、化粧映えしそうな顔立ちだとぼんやり考えているわたしに、彼女はおそるおそる口を開く。
「あの、ごめんなさい……綾織さん、えっと、いつもとても綺麗だから……教室で声をかけてプリントを回してくれても、私なんかが話しかけていいのかわからなくて、その、何も言えなくなってしまって」
「なぁに、それ。気にしなくていいのに」
「お、おかしいですよね、でも……き、今日はなんていうか……いつもよりかわいい寄りというか、だから、びっくりして、つい声をかけてしまって……その、ごめんなさい」
彼女がどうして謝るのかわからない。
わたしは普通に話しかけてくれたらそれでいいし、昨日あんなことがあったから悪意のない言葉をもらえるのが嬉しいのに。
「謝らないで。これからも、できれば普通に話してほしいから」
こんな縋るようなこと、普段は言わない。
わたしのことを好きになるも嫌いになるも、勝手にすればいいというスタンスだった。
でも……正直、ずっとそうしているのはしんどい。だから彼女の言葉は、本当にありがたいの。
控えめな彼女に何をしてもらおうなんて思っていない。ただ、わたしを否定せず綺麗だと言ってくれた、それだけで充分。
「綾織さんさえよければ、えっと……話しかけても、いいですか?」
「ありがとう。でも、あんまり無理しなくていいわ。わたしと話すと、他の友達も困るだろうし」
「そういう子とは付き合ってないから、大丈夫です」
今までしどろもどろだったのに、はっきりとそう言ってくれる彼女は、わたしの友達になってくれるかもしれない。
それは今日という日が終わったら、聞いてみたいわ。
何せ――これからわたしは喧嘩を売りに行くんだから。
髪の話をしながら正門をくぐり、そのまま教室に向かう。
ほとんどひとりでいることばかりのわたしと、隣にいる彼女へ視線が向く。さすがに居心地が悪そうな彼女に一言断って、先に行ってもらう。
ゆっくり教室まで行くと、始業時間まで開け放たれているはずのドアが閉まっているのに気づいた。
息を吸って、吐いて。ドアを開ける。
「あっ、デブスが来たぁ!」
「で、化粧でどんだけ作ってんの?」
「さすがにかわいそうじゃない? 豚なんて言ったら。あははっ……」
わたしの姿を認めた途端、賑やかな声がわたしを傷つけようとする。
笑い声をあげようとした女子のひとりが、わたしの顔を見て目を見開いた。
「……ああ、そういうこと」
教壇の後ろにあるホワイトボードに貼られた、ポスターくらいの大きさに引き伸ばされたいくつかの写真。
そこには元いた幼稚舎の制服を着た、子豚のわたしがいた。
これで私を貶めようと、そういうわけでしょ?
男に媚びて、男あさりをして、自分がかわいいと思っているイタイ女がどれだけの豚だったのか、みんなに知らしめようと。
……馬鹿馬鹿しい。
この恥ずかしい過去はすでに色んなひとの目に触れた。両親がわたしに別の学園への入学を勧めたのは、子豚だったわたしをいつまでも誹謗中傷するグループがいたからなの。
もうそんな写真くらいで泣き出す時期は過ぎている。むしろそこまで調べてわたしを貶めようとしているその執念の方がみにくいと、思わないのかしら。
「別にいいわよ。わたしは身体にメスを入れずにここまでかわいくなった。その努力が晒されても、大して痛くないから」
「は、はぁ? 何言ってんのあんた」
「こんだけ太ってて恥ずかしくないの!?」
「恥ずかしいけど、事実だから構わないの。今は太っていないし」
思う通りの反応が得られなくて、大声で威嚇してくる女子達。
逆に他の生徒は黙ったまま。さっきまで私と登校していた彼女なんて、顔を歪ませて涙を浮かべている。
精一杯不快感を示している彼女がわたしの心を慮ってくれているのがわかって、少し嬉しくなった。
無言で歩き、ホワイトボードに貼られた写真を一枚手に取る。
これは入園式の集合写真。隣にあるのは遠足の時。あっちはお遊戯会だったかしら。
幼稚舎を卒業する頃には少しふくよかめな子どもと呼べるまでにはなっていたから、最初の一年間の写真ばかり。
「こんなのはどうでもいいけど、わたしの部屋で盗んだ物は返して」
「ッ、盗んだとか意味わかんないんですけどー」
「……あんたの部屋とか入るはずないし」
「私らのこと窃盗犯扱いとか、失礼じゃない?」
当たり前のように白を切る彼女達は、わたしの私物をきちんと見なかったのかもしれない。もしくは、見ても気づかなかったとか。
あれはただのコスメじゃないの。下手をしたら、親同士の話し合いで済むものでもないのに……
手にした写真を両手で握りつぶして、ゴミ箱に捨てる。
あえてにっこり微笑んで彼女達の座る席へ向かうと、わずかに怯んだひともいたけど、ほとんどが小馬鹿にしたような笑みを浮かべたままだった。
そのうちのひとりに、ぐっと顔を近づけ覗き込む。
「返さないなら警察を呼ぶしかないわ。窃盗に加えて企業スパイなんて絶対に許せないし」
「何言って……」
「あなた、家は美容系企業だったでしょ? コスメブランドも立ち上げている」
「だから、それが何!?」
「わたしのブランドの試作品を盗んだなんて、警察を呼んだらすぐわかるから」
ひゅ、と喉の奥で音が鳴った。
それは当然、わたしじゃなく目の前の女子のもので。
「知らなくても、あなたの立場だとそれで済まないわ。わたしのドレッサーには『フロゥス』の試作品がたくさんあるの」
『フロゥス』はわたしが中等部の頃に立ち上げたコスメブランド。正確にはわたし自身の力だけじゃないけど、それを細かく言うつもりはない。
わたしの家のグループ内にも長く続いている美容系企業があって、幼い頃から美容を大切にしていたわたしはそこの開発部や広報部とも親しくしていた。
子どもの気まぐれなわがままなんかじゃなく真剣に綺麗でかわいくなることを目指していたわたしに、新ブランドの立ち上げに関わっていいと許可を出したのはお父さまと、開発部のトップ。社長はお父さまに従いながらも難色を示していたけど、わたしと開発チームがいくつかのヒットを出すと態度は目に見えて軟化した。
〝乙女を、花に〟というシンプルなキャッチコピーを掲げて、色んな花の香りでラインを揃えた若い女性向けのブランド。今では老舗コスメメーカーの一ブランドとして世間に認識されているわ。
「わたしはきちんと部屋に鍵をかけて保管していたから、不法侵入にもなるのかしら」
「う、そ……」
「嘘じゃないわ。実際に私の部屋から物がなくなったんだから。あなた達がやっていないって言うなら、きちんと調査するわ。それで学園から親に連絡が行くのと、企業として抗議文書出すのと、どっちがいいの? 警察を呼んだら学園からの連絡じゃなくなるけれど」
淡々とそう言うわたしを見て、他の女子達も事態の深刻さに気づいたらしい。
どんどん顔を青ざめさせる彼女達に同情はしない。この学園で物を盗んで、ただの嫌がらせで済むと思わない方がいいわ。
わたし以外にも家の仕事を手伝っている生徒はいるかもしれないし、そうでなくても私物ひとつが数十万、下手したら数百万するものを持ち込んでいるひともいる。
このクラスにも明らかにハイブランドの時計をしているひとがいるんだから、もしそれが盗まれたりしたら立派な事件なの。
そもそもわたしがブランドの試作品を持っていなくても窃盗は窃盗なのに、焦るのが遅いんじゃないかしら?
コスメと一緒になくなっていたパルファンはミニボトルに分けていたものだけど、あれだって三年以上予約が埋まっている調香師の手のものだから、なくなった分だけでも数十万はする。自分で稼いだお金とお小遣いを貯めて買った、素敵なご褒美。だから大切に使っていたのに。
どこかに捨てられていたら、きっと割れているはず。そう思いながら、言葉もなく視線で罪のなすりつけ合いをしている女子達を冷めた目で見ていると……
ふわっと、香りがした。
ホワイトガーデニア、ピオニー、マグノリア、フリージア、オスマンサス……たくさんの花が降り注ぐベッドの上に、身を横たえたような香りにしてほしいと、そうオーダーしたのはわたし。あんなに香り高い花ばかりを詰め込んで、それを調和させるなんてすごいと、はじめてつけた時は感動した。
いつもはほんの少し香るだけだったそれが、こんなにも強く感じられたのははじめて。
「かれん」
ハイバリトンの、耳に馴染む綺麗な声がわたしを呼ぶ。
瞬間、教室にした全てのひとがその声の主に視線を向けた。
わたしと女子達の諍いも、気まずく緊迫した空気も、何もかもを奪った彼はもう一度わたしの名前を呼んだ。
わたしが開け放したままだったドア顔を覗かせて、彼が首をわずかに傾げる。ブルーグレーの長めの髪が頬にかかって、それすらとても綺麗な光景だった。
「これ、部屋に置いておく?」
この空間を支配しているのは彼。なのに全く気にすることなく、彼は大きめな紙袋を掲げ、わたしに話しかけてくる。
あまりに普通の、まるであの庭にいる時と同じようなその態度に、わたしはすっかり毒気を抜かれてしまった。
元々脅すだけのつもりだったの。物を返してもらえれば、たとえそれが壊れていても、警察沙汰にしないで済ませようと思っていた。
派手な舞台を作ったのは彼女達だから、多少肩身が狭くなるのは当然の報い。ただ、それで更に追い込んでやろうとか、そういうことは考えてなかった。
もう二度とわたしに絡まないでほしい。それだけは言いたかったんだけど……いきなり彼が出てきたから、そんな話をするどころじゃなくなってしまった。
ため息をついて、彼のもとへ行く。
場の空気的にすごく話しかけにくいけど、わたしが動かないとどうにもならなそうだもの。
「なぁに、それ。お土産?」
「違う。かれんのもの」
紙袋からひとまわり小さな袋を出し、その口を開けて中身を見せてくる。
一目見て、わたしは目を瞬かせてしまった。
ベースラインのボトル。ファンデーションコンパクト。リップパレット。アイメイクパレット……それはわたしがいつも使っていたもの。
クリスマスコフレとして先月発表したマルチパレットなんて、まだ箱に入った状態。クリスマス目前に発売予定の限定色リップも、フレグランスも、引き出しにしまってあったままで。
「朝一で持ってこさせて全部新しくしたから、後で確認して」
「……うん?」
「持ち出されていたものはまとめて袋に入っていたけど、屋外の地面に置かれていたからもう使わせられない。『フロゥス』の試作品も含めて、全部僕が回収したからそこは安心してほしい」
珍しくたくさん話している彼が、一体何を言っているのかわからない。
「ただ……乱暴に扱われたから香水のボトルが駄目になってた。オーダーメイドだから手配できなくて……あれはかれんが頑張って作ってもらったものなのに、きちんと管理できなくてごめん」
「……かんり?」
「うん。まさか窃盗をする人間がいるなんて思っていなかった僕の落ち度だ。駄目になったのは全部じゃないにしろ、同じ香水はもう二度と手に入らないのに……かれんの実家から新しいボトルを届けてもらうまで、別の調香師の作品でよければ使ってほしい。僕が前に十四歳のかれんをイメージして作らせたものだから、少し甘さが強いかもしれないけど」
ちょ、ちょっと待って。
彼は一体、何を言っているの? その前に何をやっているの?
どうしてわたしのものを持って、わたしのパルファンの替えを用意して……?
「ど、どうして?」
なんとか口にできたのは、それだけだった。
だけれど彼はまた首を傾げただけで、逆にわたしに対して〝どうして〟と聞いているようだった。
「かれんのものを管理するのは、僕の役目だから」
全然、ぜんっぜん答えになっていないわ。
よくよく考えると何だか気味の悪いことを言われている気がするけど、彼があまりに平然とした態度でいるから、そう感じる私の方が変なのかと思ってしまう。
むしろ謝り落ち込む彼が『嘆きの天使』なんてタイトルがつくくらい綺麗で、気味の悪さも帳消しになっている気すらする。
わたしが呆然としていることも知らず、彼が袋をしっかりと閉じ紙袋にしまい直して片手に提げる。
一体、どういうつもりなのかしら……
「と、とりあえず……わたしのために持ってきてくれたのよね? それは、ありがとう。でも……」
〝どうしてわたしの私物を回収して、代わりのものまで用意できるの?〟
まずそれを聞こうとしたのに、汚い怒声が続きを遮った。
「ふっざけんなよ!! 挨拶されただけでも消えてほしいのに、何であんたが水星院様に助けてもらってんの!?」
声を上げたのは、わたしが詰め寄った女子の隣にいたひとだった。
「そ、そうだよ、おかしいよ! 水星院様があんたみたいな性格ブスの言いなりになるなんて……!」
「どうやって取り入ったんだか知らないけど~、綾織なんかが媚びていい相手じゃないんだよ?」
「人の彼氏盗っただけじゃ満足できないの? ほんっと、最低……〝自分はかわいいから特別〟とか頭おかしい。水星院様にまで迷惑かけて、恥ずかしくないの?」
それを皮切りにして、他のひとも顔を歪めて口々にわたしを罵る。
自分達が何を言っているのか、本当にわかっているのか不思議に思う。
だってわたしが彼を呼びつけたわけでも、盗まれた物を取り返せと言ったわけでもない。挨拶をしたのも、わたしを訪ねたのも、彼が自分からやったこと。
それに何より……迷惑をかけることになった原因が自分達なのに、何を怒っているの? 怒りたいのは、怒っていいのはわたしの方でしょ?
言い返すのもためらうくらいの、あまりに支離滅裂な主張。
彼に聞きたいことがたくさんあるのに、彼女達が静かにならないとそれも無理そう。どうしようかしら……
「うるさい」
静かな声が、一言だけ。
それだけで汚い罵声は消えた。
淡い水色の瞳が、彼女達へ向いた。
不快を隠そうともしないその顔は、無表情よりもっともっと冷たい。
「醜い。見苦しい……お前達は、一体何? 僕の邪魔をして、かれんを罵る程の権利があるの? どうしてお前達が僕とかれんの関係に口を出す」
「水星院、様……」
「かれんに対する暴言も、彼女が今まで何も言わなかったから放っておいたけど……かれんの大切にしているものにまで害を及ぼすなら、お前達こそ消えて」
女子達を突き刺す、凍えそうな視線。
教室の温度まで下がった気がして、わたしは思わず両手で自分の身体を抱きしめる。
そんなわたしの肩にそっと置かれた彼の手から、強い花の香りがした。話からすると、割れたボトルに触れたからそうなったのかもしれない。
「そもそも、あの下品な噂は聞くに堪えない。たくさん努力をして昔よりもっと綺麗になったかれんは、真っ直ぐな性格をしている。男になんて媚びない。お前達みたいに勝手な想像で人を貶める輩こそ、最低で恥ずかしい存在だ……気持ち悪い」
そして目を閉じた彼は、もう彼女達を見ることはなかった。
視界に入ることすら煩わしいと、そう示しているよう。
彼がここまで嫌悪を向けるなんて、今まで見たことがなかった。怒っているところすら、見たことがなかったかもしれない。
わたしのために怒ってくれているんだとわかっても、彼にこんなことを言わせたくなかった。
「晏珠、もういいわ」
はっと目を見開いて、彼がわたしを見る。
十年以上呼ばなかった彼の名前は、思ったよりもすんなりと口から出てくれた。
「わたしは大丈夫だから、それ以上言わないで」
「かれん……だけどこの女達は、君に泥をつけた。泥は消えるまで濯がないと、いけない」
静かだけど力強いその言葉に、晏珠が本気でそうしようとしているのがわかった。
水星院晏珠に嫌われて、今後の学園生活が今までのように送れるわけがないわ。
誇張でもなく、生徒会の役員全てがそれくらいの力を持っている。権力も、財力も、魅力も。たとえ自分でそうしなくても、彼が嫌っているという事実だけで周りの生徒がそのひと達を排除しようとするから。
だけど彼には、晏珠にはそんなことをしてほしくない。わたしにかかった泥は、彼が濯ぐ必要なんてない。
どう言えばいいか迷って、わたしは少しずるい言い方をした。
「このひと達が二度とわたしに絡まないで、変な噂を流さないならそれでいいわ。それ以上関わるのは、わたしが嫌なの。わかって、晏珠」
〝わたしが一緒にケーキを食べたいの〟とか、〝わたしがお花でかんむりを作りたいの〟とか。そういう言い方をすれば、彼は必ず付き合ってくれた。
ねぇ、覚えているでしょ? わたしの天使ちゃん。
目にかかる前髪をくしゃりと乱して、彼が小さなため息をつく。
そして少し目元を和らげて、一度だけ頷いた。
「かれん、君の望むままに」
微笑んだ彼に、もう冷たい空気はなかった。
一気に和らいだ空気に、息をつく音がそこここから聞こえた。
「んで……何で、水星院様が、この女のこと……あんなに豚で、きっと整形してて……」
その中で弱々しく、それでもわたしを蔑もうとする声。
見れば女子達のひとりが泣きそうに顔を歪めて、わたしを睨み付けていた。
どうして頑なにわたしを見下そうとするのか、やっぱりわからない。一度自分より下にいると決めたら覆したくないの? それとも、わたしがかわいいことを信じたくないの?
わたしは何を言っても無駄だと思っているけど、晏珠はそうじゃなかったみたい。
ようやくホワイトボードに貼られたものに気づいたらしい彼が、さっと教壇に上がってそれを全て回収する。
「この写真をお前達が貼ったなら、どうして気づかない? 整形していたらこの写真と顔立ちが違うはずなのに、それすら判別できないなんて……それに、これを貼って何をするの? 昔の写真を出しても、今ここにいるかれんが変わるわけもないのに」
晏珠はそう言って、顔も見ることなくあっさりと女子達の言い分を切り捨てる。
子豚のわたしが写った写真を丁寧に丸めて、彼はそれをなぜか小脇に抱え込んだ。
「太っていたのは事実だもの……」
「ふくよかで幸せがたくさん詰まったかれんも、かわいかった」
子豚のわたしが、かわいい? そんなのあり得ないわ。
思い切り眉根を寄せてしまったわたしのもとへ戻ってきた彼は、紙袋を持っていない方の手をわたしに差し出し。
「行こう、かれん」
「行くって言っても……授業が」
「こんな状態で授業はできない。必要なら僕が君を連れ出すと教師に言うから」
催促するように揺れた手に、自分の手を重ねる。
深く甘い、花の香りがした。
そしてわたしは、彼に連れ出された。
昔はわたしが彼の手を引いていたのに――そんなことを思いながら。
× × ×
いつものさびれた庭。
そのベンチには、どうしてかクッションがあった。
確かにここ最近で少し肌寒くなったけど……クッション?
迷いなくわたしをそこに座らせ、自分が着ているジャケットを膝にかけ、と……お世話してくれる彼は少しずれている気がする。
こんな用意をするくらいだったら、屋内の空き教室もあるはずなのに。
とりあえず、それは置いておくとして。
「説明、してくれる?」
一口に言ってみたものの、それはたくさんの意味を籠めたつもり。
だけどいつもとは違い、端に紙袋を置いてわたしのすぐ隣に座った彼には上手く伝わらなかったみたい。
ため息をつき、わたしはひとまず最初の疑問を投げかけた。
「どうしてわたしの私物が盗まれたことを知っていたの?」
「かれんのものを管理するのは僕の役目だから」
……それはさっきも聞いた。だけど納得できる説明がないものは、理由にならないわ。
もっと深く追求したい気持ちが大きいけど、質問は全てを聞いてからにしようと思う。そうじゃないと、きっと疑問が溢れて話が進まない気がする。
「どうやってそれを探したの?」
「かれんの寮に何人か僕の部下を入れてあるから、泥が入り込んだのを報告してきた奴に尾行させた。その部下は女性だし、きちんとしたここの学生だから心配しないで」
「………、……わたしの私物を全部新しくできたのは? あれは普通だったら手に入らないものも多くあったはずよ」
「君のご両親に無理を言って、非売品を買い取った。かれんのものには全部スペアを用意してある。君はものを大切にするからあまり必要なかったけど……用意しておいてよかった。お金は気にしないでほしい。僕の役目だし、これでも父から一社を預かっているから」
「…………」
どうしてわたしのことを助けてくれたのかとか、持ってきた大きな写真は何に使うのかとか、回収したと言っていたわたしのものはどうするのかとか。
色々聞きたいことはまだあるのに、もう耐えられない。
「ねぇ、晏珠。どうしてあなたがそんなことをするの? さっきからあなたは〝役目〟って言うけど、わたしはあなたにそれを頼んだ覚えがないわ」
取り乱したくなるのを必死で抑えて、あえてゆっくりと聞く。
わたしのものを管理するって、どういうこと? あなたの部下がわたしの寮にいるって何? 『フロゥス』の試作品を、わたしの両親経由で買い取っているって?
意味がわからない。でも一番謎なのは彼の気持ち。彼がそういった行動を取る、原理が知りたい。
「確かに頼まれていない」
「でしょう? なら……」
「でも、かれんのものの中で僕だけが動けるし話ができるから、そうした方がいいかと思って」
淡々と、それが当たり前のように言われて、思わず〝そうなの〟と頷いてしまいそうになった。
違う。おかしい。
これじゃ、まるで……
「僕は君のもの。だから君のものを大切にして、きちんと管理するのは当然だ」
向けられたのは、まさに天使の微笑み。
それがしあわせだと、心から思っているような笑顔で。
「……何を、言っているの?」
肌寒さではなく、肌が粟立つ。
恐怖よりも先に、後悔が頭を支配した。
わたしが手放した天使ちゃん。もう遠い存在になった、素敵な男のひと。
そんな彼が、未だにわたしに囚われている。
幼いわたしが彼を自分の振り回して、我がもののように扱ったから。きっと優しく律儀な彼はそれに従おうとしてくれているんだわ。
子豚のわたしはわたしなりに彼を大切にしていたつもりだった。
綺麗な過去として残ってはいないだろうと思っていたけど、まさかそこまで彼を縛り付けていたなんて……
駄目、駄目よ。いけない。
そんなこと、許されてはいけないの。
晏珠はもっと価値ある人間だもの。今すぐその認識を捨てさせないと、彼のためにならない。
そう思い、わたしは頭の中で何度か言葉を選びながら、隣に座る彼の手を両手で取った。
「晏珠、あなたはもうわたしのものじゃないの。ひとりの人間なの。わたしのご機嫌取りなんてしなくていいし、お世話なんてしなくていいのよ」
「僕が好きでしていることだ」
「違うの。それは思い込みよ。幼い頃はそれが当然だったから……」
「小さい頃は、かれんが僕の世話をしてくれた。だからかれんの言うことこそ違う」
言われて、確かにと思ってしまった。
でもわたしが主張したいのはそれじゃない。〝わたしのもの〟と思うことをやめてと、そう言っているつもりなのに。
「かれんは僕に色んな物を見せてくれて、たくさん遊んで、ずっと傍にいてくれた。僕がそれを少しでも返したいと、君が大切にしているものを君ごと守りたいと思うのは、いけないこと?」
「いけなくは、ないかもしれない……けど!」
彼の片手を包んでいたはずのわたしの手が、逆にぎゅっと握り込まれる。
綺麗に整った彼の手は、わたしとは全く違う、男のひとのものだった。
「お願いだから、かれん。僕の役目を……しあわせを奪わないで」
「あんじゅ……?」
「君がとうに僕を手放したことなんて、わかってる。でも、僕はかれんのものでいたかった」
声が、空気が震えた。
彼の顔に、さらりと髪が落ちかかる。
息を吸うことすらためらうほど、うつくしく、切ない色の瞳がわたしを覗き込む。
その瞳は――彼の気持ちをそのまま表しているような、気がした。
「あの過去を捨てて努力をして、今のかれんがあるのはわかる。変わるために、全部を手放したのも。だけど僕にとって、あの日々はとても素敵なものだった」
そんなわけが、ない。
子豚の趣味を押しつけられて、異性の遊びばかりに付き合わされて。
それのどこが素敵だと言うの?
「僕を世界一素敵だと、綺麗だと褒めてくれる女の子。周囲からの愛をたくさん受けた証みたいな、ふっくらとした手を僕に差し伸べて。僕が笑うたびに目をきらきらさせて。少し不器用な愛を僕に注いでくれて……僕の、一番しあわせな時間だった」
「そ、んなの……美化しているだけよ。わたしはみにくかったわ。あなたを自分勝手におもちゃにしていただけ」
「たとえ君がそう思っていても、僕はそんな風に思わなかった。君はふくよかなだけで、かわいらしい子どもだったし、人を傷つけるようなわがままなんて決して言わなかったから」
耳に優しい声が、彼の中での事実を紡ぐ。
じわりと滲んでいく視界の中、淡い水色が揺れる。
わたしは、過去を受け入れている。消せないとわかっている。
色んなひとが子豚のわたしを晒し者にして、あざ笑って、貶める。そんなのに負けないくらいかわいくなったって、胸を張っていた。
でもね、本当は全くつらくないわけじゃないの。
過去のわたしと今のわたしを見比べるひとは、〝頑張ったね、すごいね〟なんて言わない。
全部わたしを見下すため。わたしを馬鹿にするため。
だから恥ずかしくて、子豚だと思い知らされた瞬間と同じくらい恥ずかしくて、消えてしまいたくなって。
だんだんと、あの大好きなものに囲まれていた日々すら、みにくく恥ずかしいことなんじゃないかと思ってしまって。心の中で否定しても、どうしてもそれが消えなくて……
彼の中で、あの日々が素敵な、一番しあわせだった思い出になっている。
成長した彼が、あれ以上のしあわせを見つけていないことが、少し怖い。
でもそれより、わたしは……とても嬉しいの。
「本当は、大学に入って自活するようになるまで、君に近づくつもりはなかったんだ。まだ僕は自信を持って君のものと名乗るには足りないから……でも、こう主張することがかれんを守れるなら、ためらう必要はない」
一粒、ついに零れた涙を彼の指が掬う。
大切な、とても繊細なものに触れるようなその手つきが、また泣きたくなるくらい、いとしい。
「君の役に立って、君を守ることで近くにいたい。僕は僕の意思で、君のものになりたいんだ。僕はかれんの好きな〝綺麗でかわいくて素敵なもの〟から少し外れてしまったけど、かれんの手元に置いても恥ずかしくないように頑張っている。これからも、もっと頑張るから……」
――だから、僕をまた傍において。
吐息に交ぜて消えそうなその言葉に、どうしようもなくなって。
わたしは崩れるように、彼の胸へ飛び込んだ。
「っわたし、わたしこそ……! 晏珠の傍にいたいの。あなたは遜る必要なんてない。望むなら、わたしの隣にいて……」
『たくさん努力をして昔よりもっと綺麗になったかれん』と、晏珠はそう言ってくれた。
わたしの努力を認めて、わたしの過去すら認めてくれるひと。
わたしこそ――彼の近くにいていいの?
好きになっても、恋をしてもいいの?
「あなたが、好きよ」
未だに消えないわたしのパルファンが、少し体温を上げた彼から香る。
たくさんの花々がわたしと彼を包んでいるような、錯覚。
ゆっくりと、わたしを抱きしめた彼の腕は、少しだけ震えている。
その腕の中で息を目一杯吸い込むと、どうしてかまた泣きたくなった。
「かれん――どうか、お願いだ。もう二度と僕を手放さないで。もっと、僕を好きになって。僕を愛して」
腕の中で見上げた彼は、とてもうつくしい、泣き顔。
ああ、わたしは知らなかっただけだったのね。
この瞬間、ようやくわかった。
晏珠は、このひとは、わたしのことを、ずっと好きでいてくれていた。
行き過ぎた行動も、必死にわたしのものであることを主張するのも、わたしを愛しているから。
一度目はわたしのエゴで彼を手放した。
自分の理想のために、子豚から花になるために。かわいい自分を好きになって、いつか出会う素敵なひとのためにひとりで努力した。
二度なんて、もうない。
わたしを最高に愛してくれるひとは、こんなにも近くにいる。
「晏珠が好き。だからもう、手放せないわ」
そう告げると彼は宝石みたいな涙を零して、微笑む。
「僕はずっと、いとしい君のもの」
柔らかい彼の髪が、わたしの頬を撫でる。
そっと唇が触れ合う前――混ざり合った涙は、なぜだか不思議と温かかった。
END
閲覧ありがとうございます。
白の彼は、こんな人です。
ヒロインは本当に……いつも以上に人を選ぶタイプでした。
私はこういうある種純粋な子が好きなので、幸せになってくれ~と思いながら書いていました。
予定ではもっとライトなドタバタものになるはずだったのですが……まぁこれもいいかなと。
ちょっと回収できていない部分もありますが、恋愛主軸なのでこの終わり方にしました。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
20181020/矢島汐