犬の名前でパニックを起こす少年
津田貞夫には、今年小学5年生になる秀行という息子がいた。
大事に大事に育てた息子は優しい心を持っていたが、些細なことでも不安を感じてしまい、パニックを起こしやすいという問題を抱えていた。
しかし息子が年齢を重ねれば、いずれ神経質な面は薄れて腰を据えた男になるだろう、と貞夫は楽観視していたのだった。
そんな貞夫は今日、自宅で知り合いの愛犬家の友人たちとの交流会を企画していた。
招待された愛犬家に連れられて集まった犬は
ペス オス7歳
ブチ メス3歳
ハッピー メス5歳
ジョン オス7歳
ロッキー メス12歳
ショコラ メス4歳
ロン オス1歳
そして津田家で飼われている
ジロウ オス2歳
を合わせて計8匹であった。
交流会は津田家の庭にあるドッグランで行われていた。しばらくすると、交流会に来た内の一人が「全員で外食に行こう」と言い始めたため、一人家にいた秀行が犬の見張りを命じられることになった。
もちろん父親の貞夫は息子の神経質な性質を理解していたが、集まった犬は全て大人しく、よく訓練されていたため問題ないと思っていたのだった。
しかし秀行は父親の想像を超えるパニックぶりを見せつける事になる。
***
飲食店で友人たちと談笑しているところ、秀行からの着信がスマホを揺らした。
貞夫は一度席を外して電話に応じる。
「もしもし、どうしたんだ秀行?」
「父上! 父上! 大変です!」
秀行の声はあまりにも落ち着きを失っていた。
「どうした秀行、落ち着いて話しなさい」
貞夫は息子を諭すように言った。
「ペスが! ペスがブチにマウンティングしています!」
秀行はさも世界が終わってしまうかのようなテンションで叫ぶ。だがペスは去勢されたオスである。じゃれているだけに違いない。
「落ち着け秀行。それは放っておいても大丈夫だ」
「ひいいい!」
「どうした?」
「ロンが! ロンが! ペスの後ろに付きましたぁ!」
貞夫は一度、秀行が言っている事を頭の中で整理してみる。
先頭にブチがいて、そのブチの後ろからペスがマウンティングしていて、そのペスの後ろから更にロンが飛び付いたという事だろうか。
「秀行、大丈夫だから落ち着きなさい」
貞夫はなだめすかして言う。しかし息子は一向に落ち着く様子を見せない。
「ひいいいい! 父上! 父上! 大変ですぅ!」
「今度はどうした?」
「今度はジロウが! 今度はジロウがロンの後ろに付きましたぁ!」
要するに犬のマウンティングが列車のように連結されているという事だろうか。貞夫の頭には微笑ましい光景が浮かんでいた。
「ひいいいいいい! 父上! 父上! 大変です!」
秀行が一際高い悲鳴を上げる
「どうした!?」
「ロンが怒ってジロウに吠えましたぁ!」
「落ち着け、それくらいじゃ喧嘩には」
「まさに大塩平八郎のロン!」
「いや何を言ってるんだお前は!」
息子は落ち着くどころかヒステリックになる一方だ。これは一度帰った方がいいかもしれない。
「ひゃあああ! 父上! 父上! 大変ですぅ!」
「今度はどうした!?」
「ペスがジョンの尻からロン!」
「家で何が起こっているんだ!?」
先ほどまではギリギリで状況が把握できていたが、秀行がもう限界のようである。恐らく大した事は何も起こってないのだろうが、万が一に備えて貞夫は一人家に戻る事を決めた。
「秀行、落ち着いて深呼吸をしなさい」
すると電話口から大げさに息を吸い、吐き出す音が聞こえてくる。
それが三度繰り返された後、貞夫は再び息子に語りかけた。
「秀行、落ち着いて、ゆっくりでいいから状況を話してごらん」
「空が青いです」
「違う、そこじゃない」
「今、生きている不思議」
息子は宇宙と繋がりやすくなってしまったのだろうか。
「秀行よ、父さんは犬たちの事を知りたいんだ」
「犬? ……。アアー!」
秀行は思い出したように発狂を始める。
「父上! 父上! 父の上!」
「父さんは父の上ではない!」
「ロンが! ロロロロロンが! ロンがぁ!」
「ロン何匹おんねん」
「ブチが掘った穴にぃ! ロンが木の枝を埋め始めましたぁ!」
「……」
「まさに太平天国のロン!」
「乱シリーズをやめなさい秀行!」
「ひええええ! ハッピーが! ハッピーがぁああ!」
今日一番の発狂を見せる秀行。
「どうしたんだ!?」
「ハッピーが! ブチが掘った穴ッピーにロンピーが入れた枝ッピーをハッピーが掘り返ッピー!!!」
「ピーピーうるさいわ!」
「ウルトラハッピー!!」
「やかましい! 落ち着きなさい秀行!」
「ひゃああああああ!」
「今度はどうした!?」
「ウルトラハッピー!!」
「なんで二回言ったんだ!」
しかし「止めなきゃ!」という言葉を最後に息子との通信は切れてしまった。
貞夫が急いで家に帰って見た光景は、ドッグランの中で仰向けに倒れている秀行の姿だった。
結局、犬が傷ついたり喧嘩した様子も無く、秀行は身体中を犬に舐められていたものの無傷であった。
そして貞夫はこれを機に、息子を一人で留守番させる事をやめようと誓ったのであった。
終わり
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