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第二十七章 国境を越えて その1

 既に陽は沈んでいる上にへとへとに疲れているために、この夜コウジ達はクリミールの山小屋に泊まることになった。


 修行僧がたまに泊りに来るそうで、二段ベッドが部屋の隅にいくつか用意されている。


「あまり豪華な物は用意できませんが、お好きなだけ召し上がりくだされ」


 クリミールの顔は敬虔な僧侶に戻っていた。


 このような山頂まで重い食材を運べと言うのは酷なものだ、十分な量のパンと水があるだけでコウジ達は満足だった。


「美味しいです!」


 アレクサンドルも遠慮なくむしゃむしゃと食べている。レスリングというよりただのぶつかり合いをずっと続けていたおかげで、すっかりお腹も減っていた。


「そうだアレクサンドル、お前はまだまだこれから身体を作るのだからたくさん食べなさい。ほら、これもあげよう」


 そう言って戸棚にしまっていた干し肉も弟子の前に置く。


 アレクサンドルは「感謝します、先生」と手を合わせた。


「なんだか悪いな、俺までご一緒させてもらって」


 ラウルとエルゴンザもいつの間にか互いに向かい合って食事を取るほどの仲になっていた。


 何度も立ち向かうコウジたちを応援している内に、なんだか昔のしがらみがどうでもよくなってきたらしい。


「ラウルさんがいなければここにはたどり着けませんでしたから。そうでないとレスリングどころじゃありませんでしたからね」


 その時コウジの背中を誰かがバシンと叩き、傷口が刺激され跳び上がるほどの激痛が走った。


 犯人は隣に座っていたナコマだった。頬をぷうと膨らませながら、カリカリと硬いパンをかじっている。


「まったく、調子いいこと言っちゃって。そんな怪我までしてレスリング云々なんて、使用人の私がどれだけ心配したと思っているんですか。デイリー公子とアレクサンドル様もですよ、まったく。本当、男の人って馬鹿なんですから」


 ナコマの言い分も尤もだ。確かにあんな姿、バレンティナやサタリーナの前では見せられない。


 途端三人は顔が赤く染め、それを隠そうと一斉に水を飲んだ。




 食事の後、すっかり疲れ果てた一行は皆眠っていた。


 だがコウジは興奮して、どうもこうも眠れずにいた。


 いよいよ五国間競技会……異世界オリンピックに近付いた。あとはこの二国間競技会を実現し、スポーツの文化をさらに広げなくては。


 これからのビジョンが次々と頭に浮かび、あれこれ考えていくうちに時間がどんどん流れていく。


 明日も下山で体力を使うから眠らなくちゃいけないのに。


 余計なことを考えないようにしてもむいしきに湧き出すイメージは消えず、あきらめてコウジはこっそりと外に出た。


 山頂の満天の星空。余計な明かりが一切ないここは、セレネー王国で見たあの星空よりもさらに美しく星々の輝きを引き立てていた。


 手近な岩に座り、寝転がって空を眺める。夜の乾燥地帯は上着を着ても肌寒いが、居心地が悪いわけではない。幸いにも風はほとんど無く、星空を眺めるにはうってつけの夜だった。


 コウジがぼうっと星の瞬きを眺めていると、誰かが山小屋のドアを開ける音がする。


「眠れませんかな?」


 コウジが頭を上げると、そこにはクリミールの巨体があった。


 だが星空の下の今の彼の姿はまるで大きな菩薩像のようで、深い慈愛さえも感じられた。


「クリミール様、ご期待に沿えるよう必ず成し遂げます」


 コウジは立ち上がり、星明りに照らされた彼に向かって胸を張った。


「応援していますよ。五国家の安泰は私の幼き頃よりの夢でしたから。山の神々がコウジ様たちを守ってくださるよう、私はお祈りします」


 そんなクリミールも手近な岩に座る。そして星空を流星が横切った時、おもむろに語り始めたのだった。


「私は先代の皇帝と側室の子でしたが、私の母は帝国の出身ではありません。セレネー王国から遣わされたいわば政略結婚の道具だったのです」


 コウジは黙って聞いていた。


 クリミールは僧だ。だが孤高の存在だった。彼のことだ、人の悩みを聞きながらも、ずっと他人に言えない悩みを自分自身抱えていたに違いない。


「正妻との間に弟が生まれ、母は一気に立場を失いました。今までは唯一の男子の母として後宮ハレムでも一目置かれていましたが、以降は言いなりだった他の夫人たちにも手のひらを返され、逃げるように宮殿を去って尼僧となったのです。私は母を追いかけましたが、とうとう生きている間に会うことは叶いませんでした」


 クリミールの手は震えていた。暗くてわからないが、その目には涙も浮かんでいるように見えた。


「私は何もかも見境なく恨むようになってしまいました。母を切り捨てたアレス帝国を、出戻りは縁起が悪いからと母の助命を拒んだセレネー王国を、ただ生まれてきただけで何も悪くないはずの弟まで。私はすべてを恨む自分が嫌で僧になりました。そしてそれを忘れるべく修行とレスリングに打ち込んだのです。母はこの辺りのセレネー王国側の集落の出身とお聞きしていました。その周辺の山々を回りながらずっと俗世から離れていました」


 クリミールが手で顔を拭いた。コウジは何も尋ねるでもなく、ただ頷いて聞き続けた。


「ですがどれだけ時間が経ち己を鍛えても、どうしても恨みは晴れませんでした。しかも聞けば帝国は徐々に他国との協調へと舵を切ろうとしているではありませんか。私は我慢できず、密かに反皇帝派と連絡を取って政治を妨害するよう手を回しました。帝国が孤高を貫くことで得をする連中も少なからずおりますゆえ」


 暗闇の中でふうとクリミールの息を吐く音が聞こえた。


「私は弱い人間です。ただ個人的な恨みのために国政を混乱させたのですから。私のような者が帝位を継がなくて正解だったのです」


「そんなことはありません、あなたはご立派な方です」


 コウジがついに口を開いた。ただその口調は優しく、落ち着いたものだった。


「今日、クリミール様は私たちのために祈ってくださったではありませんか。試合には勝利を祈るのが普通なのに、あなたは私たち全員をお清めくださった。あれを聞いて私はなんて徳のある方なんだと尊敬の念を抱いたのです」


 しばしの沈黙の後、クリミールはそっと手を合わせ祈りの体勢を取った。


「コウジ様、ありがとうございます。これから私は帝国とセレネー王国だけでなく、すべての人のために、そして五国間競技会の実現のために祈りましょう」


 そして星空の下、聞いたことも無い言語のお経のような不思議な言葉を唱え始めたのだった。


 マレビトが持ち込んだわけでもない、この世界独自の言葉。きっとこの山岳信仰を守ってきた僧侶たちの間だけで受け継がれてきた、完全この世界オリジナルな言語体系なのだろう。


 唱え終わるまでほんの一瞬のような、いや一時間はかかったような、そんな不思議な時間感覚を経験したコウジは、改めてふうと息を吐くクリミールの顔を覗き込んだ。


 本当にあらゆるものを受け入れるような、澄み切った顔をしていた。


 そんな彼が唐突に話しかける。


「コウジ様、身の程をわきまえないのは承知ですが、ひとつお願いがあるのです」


「はい、何でしょう?」




 翌日、山を降りて帝都へと帰ったコウジはゼフィラに事の成り行きを話し、改めて競技会のプランを練った。


 そして後日開かれた会議では満場一致でセレネー王国との二国間競技会は開催されることとなった。


「その競技については、選手の数も質もそろうレスリング」


 国の高官や皇族も集まる重要会議の場にて、皆の前で話すコウジの言葉に議場がわっと沸き立つ。


 やはりこの国ではレスリングが一番人気のようだ。


 だがここまでは当然の脚本、問題はここからだ。クリミール様の願い、二国間の平和にとってこれ以上の題材は無い。


「もうひとつ、まだ終わりませんよ」


 どよめきの後、すぐさましんと静まり返る。誰もがコウジの言葉を一単語まで聞き逃すまいと耳を傾けていた。


「そして……帝国をスタート地点とし、国境を越えてセレネー王国をゴールとする長距離走、マラソン競技の以上ふたつを採用します」

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