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第二十六章 もうひとりの皇帝 その4

「どうしたアレクサンドル、お前の全力はその程度なのか?」


 仁王立ちするクリミールの巨体。その足元で息を切らして倒れるのは、擦り傷だらけのアレクサンドルだった。


「はあ、はあ、まだです、まだ戦えます」


 よろよろとふらつきながらも、若き貴族の子は立ち上がる。


「おい、先生と坊ちゃんじゃ力の差がありすぎる、やめないか!」


 エルゴンザが走り寄って腕をつかむが、アレクサンドルは彼ににこっと微笑みかけるのでエルゴンザは得も言われぬ恐怖を感じ手を離してしまった。


 既に数え切れないほど師匠のクリミールに挑み、その度に投げ飛ばされたり背中から叩き付けられていた。髪の毛も土で汚れ、麦のような金髪は土くれのようだった。


「もうおやめください、アレクサンドル様!」


 コウジの隣でずっと見守っていたナコマがついに泣き出した。大粒の涙をぼろぼろと流し、えっえっと言葉に詰まっている。


「も、もう見て、いられません。皆さん、がぼろぼろ、になっ、ていくの、なんて、辛くて……」


 全員が彼女を見てぼうっと立ち尽くしていた。そんな中でアレクサンドルはナコマに近付くと小柄な彼女の頭を優しく撫でたのだった。


「ありがとう、ナコマ。でもごめん、それは聞き入れられないよ」


 そして使用人に背を向けて、土を踏みしめてクリミールへと歩み出す。


「僕はスポーツのおかげでここまで強くなれた。ずっと自信の無かった僕がスポーツを通じて成長できたんだ。世界にはスポーツがきっかけで才能を目覚めさせる人、大きく変わる人、そんな人がきっといるはずだ。僕はそのために色んなスポーツをもっともっと普及させたい。だから今、ここは退けないんだ」


 言い放つとアレクサンドルは低く身構えた。既に体力はかなり消耗している。


 だがその間に割って入る影に、アレクサンドルの足は止まった。


「そうだなアレクサンドル。お前にばかり痛い目には遭わせていられない、次は私がやろう」


 デイリー公子だった。最初に挑みひどく打ち付けられた公子が凛として立ち上がり、アレクサンドルを阻んでいたのだ。


「公子、先生は私が」


「いいや、私も思い出したんだ。私はかつてスポーツを憎んでいた。だがコウジのおかげで改めてスポーツは楽しいと思うことができた。かつての私のように、この世界には偏見でスポーツを良く思っていない者も多くいるだろう。だが実際に競技を見て参加すればどうだろう。スポーツに限らず経験は人間の視野を広げるものだ。それは本を読んだり他人から聞くだけでは決して得られない一生の財産になる。そしてその財産は食糧や石炭のように有限ではない。無限であり、世界中誰でもやろうと思えばできるものだ。その財産を世界の人々とともに分かち合いたいと、私はそう願っている」


 公子は一瞬だけ目を移コウジに移した。


 コウジそれに気づいたものの、アイコンタクトを贈る暇もなく公子はすぐさまクリミールに突っ込んでいったのだった。


「とあ!」


 低く身体を落としてからの渾身のタックル。ズバンと今までにない音が響き、クリミールの巨体が大きく揺れる。だが直後、上からのがぶりの状態で逆に押さえつけられると、公子はそのまま力任せに放り投げ返されてしまった。


 だが公子は諦めない。すぐさま立ち上がると再び低姿勢のタックルをしかけ、今度はクリミールの右足をつかむ。


「うお?」


 ついにクリミールが声を上げた。


 やったか? コウジもつい拳を振り上げる。


 だがクリミールはその太い脚に全身の力を込め、思い切り地面を踏みしめる。


 公子の強烈なタックルでも全身のバランスを崩すまでには至らず、むしろまたも上から掴まれて突き飛ばされてしまった。


「はあ、はあ、いいところまではいけるのだがなぁ」


 肩で息をしながら汗を拭うデイリー公子。ただただ仁王立ちのまま微動だにしなかったクリミールもようやく息を荒げ始めた。


「次は僕が行く!」


 その声に誰もが言葉を失った。


 コウジだ。レスリングどころか格闘技経験が無く、ただ見守っていただけだったコウジが上着を脱いでナコマに渡していた。


「コウジ様……」


 またもナコマがうるうると目に涙をたくわえて見つめている。だがそんな大事な使用人の頼みであっても、今は聞くわけにはいかない。


 公子も、子供のアレクサンドルもこんなに頑張っているんだ。僕も加わらずして何がスポーツ振興官か、何が男爵か。何が専属トレーナーであり、友達か。


「待て、お前はレスリングは素人だ。下手すれば骨を折るぞ!」


 手を伸ばして制するデイリー公子。だがコウジはその友の手を払いのけもせず、ただ歩み出て押し退けた。


「いや、ふたりがこんなに頑張っているのにただ見ているだけじゃいられない。元は僕が言い出してここまで来たんだ、へたくそでもいい、時間を稼いでふたりの休める時間を作る」


 普段見せないコウジの語気に、公子は手を引っ込めた。


 コウジは身構える。だがへっぴり腰にあちこちと落ち着かない腕の位置。公子もアレクサンドルも心配しながら見つめていた。


「マレビトと組み合うのは初めてだ。いくら素人と言えど容赦はせんぞ」


 そんなコウジを虎のような眼でじっと見据えたまま、クリミールは相も変らぬ表情で尋ねた。


 コウジはふうと息を吐く。


「覚悟の上です」


 僕も最大限自分のできることを。頭の中を空っぽに。


 だがいくら無心になろうとしても多くのことが頭をよぎる。


 今の自分を見つめるアレクサンドルにデイリー公子、ナコマの不安げな顔。タクティ皇帝にゼフィラさんのすべて任せたと覚悟を決める顔。老体のビキラ国王の優しい笑顔。


 そしてバレンティナ。


 彼ら一人一人の想いを背に、コウジは目の前の敵に突っ込んだ。


 低く、とにかく低く。


 初めてアレクサンドルに出会った時、教えたあのタックルを。


 姿勢は良かった。弾丸のように丸まったコウジは、一直線にクリミールに突き刺さった。


 だが遅かった。体格はじめ基礎体力の差で、易々と止められてしまい、軽く突き返されただけで背中から地面に倒されてしまった。


「まさかここまでの素人とは」


 クリミールは呆れたように言う。達人からすれば赤子も同然だった。


「まだまだ!」


 だがコウジはすぐに立ち上がる。そして再び全身を使って体当たりを仕掛けた。


 今度は相手の手と手を握り合った! 組み合う体勢だ。


 だがそのまま引っ張られたかと思うと、気が付けばコウジの身体は頭上にまで持ち上げられていた。


 そして自由落下のごとく背中から地面に叩きつけられる。激痛が全身に走り、叫び声すら上げられない。


「コウジ様!」


 ナコマが駆け出そうとするが、傍にいたアレクサンドルが制止する。それに対しナコマはついに白い歯を見せてかつての主を睨み返した。


「デイリー様、アレクサンドル様、お止めにならないのですか?」


 二人はそろって首を横に振った。


「こればかりは止められない。ここで諦めれば競技会は開催できないから。僕たちもコウジ様も、きっと同じ考えだよ」


 ナコマは歯ぎしりをして仰向けのまま歯を食いしばって痛みに耐えるコウジを見つめた。


「そろそろ終わりにすればどうだ?」


 クリミールも息を切らしている。いくら肉体を限界まで鍛えた者でも人間、疲れはある。


 背中の痛みなんてすぐに治まる。コウジはにやっと笑うと手をついて立ち上がった。


「コウジ様、次は私が!」


 コウジが立ち上がると同時に、アレクサンドルが飛び出し交代した。




 山頂でのぶつかり合いが始まってからどれほどの時間が経っただろう。


 既に太陽は沈みかけ、空は赤く染まっている。だが男たちは今なお立ち続けていた。


 コウジ達三人はもうボロボロだった。上半身は傷だらけで、石で切って血の出ている部分もある。


 呼吸も荒くぜひゅーぜひゅーと変な音まで立てており、立っていられるのが不思議なほどだった。


 だがそれはクリミールとて同じだった。


 すべての攻撃を返してきたものの、汗だくで息が乱れ、げっそりとやせ細ってしまったようだ。


「コウジ、すまない」


 今しがたデイリー公子がクリミールに倒されコウジに託す。


 既に後ろを取れるほどのフットワークを見せる体力は残っていない。気合いだけで突っ込んだ我武者羅のタックルだった。


「いいさ、諦めなければ終わらない!」


 コウジはデイリーとがっしり握手すると、足を引きずるように前に出る。


 そんな彼らに、クリミールは恐怖さえ感じていた。


「分からん、なぜ貴殿はそうなってまで二国間競技会の開催を推し進めるのだ?」


 この戦いの最中、初めて尋ねられた内容だった。


 ふらふらになりながらも、コウジはにたっと笑い、口を開く。


「僕はマレビトとして突然この世界に迷い込んでしまった。でも僕は僕を受け入れてくれたこの世界が好きだ。元の世界と同じくらいに」


 自分でも驚くくらいに言葉は自然と紡がれた。それをクリミールはじっと聞いていた。


「僕の元いた世界ではいくつもの国があった。強い国、大きな国、小さな国、海に囲まれた国。でも世界は決して平和ではなかった。無関係の市民が戦争に巻き込まれたり、迫害されて何十万人もが家を失ったり。僕の国は世界から見れば平和な方だったけれど、それでも世界の悲惨なニュースは毎日のように知らされていた。国同士仲の良い国もあれば悪い国もある」


 コウジは頭を項垂れそうになる。だが必死に首に力を込めて持ち上げると、クリミールを見つめ返してやった。 


「でもスポーツをするときはみんな同じなんだ。フェアなルールと熱狂の中、お互いが全力でぶつかり合う。その時は相手がどうこうなんて関係ない、全力で戦う相手になるんだ。それが終わった時、勝った方も負けた方もお互いを尊敬し合うようになっている。スポーツにはなぜかそんな魅力があるんだ。選手だけじゃなく応援する人たちも同じだ」


 世界陸上、サッカーワールドカップ、ワールドベースボールクラシック、そしてオリンピック。


 開催される度に多くの人が熱狂し、国の垣根を越えて連帯感に包まれる。その何度も見てきた光景をコウジは思い出していた。


「この世界は元の世界と比べて随分と平和だけれども、今でも格差や過去の因縁で国同士がいがみ合っている。僕はスポーツの力でそれをどうにかしたい。大陸五国家が互いに競い合って、互いに理解を深め合う、そんな競技会を開くのが僕の夢なんだ。だから僕は諦めることはできない!」


 言い切ったコウジはぜえぜえと息を乱した。つい大声


「そうか、そこまでして貴殿らは……」


 クリミールの顔が緩み、微笑みが夕日に映えた。


 これが最後かもしれない。でも、まだ諦められない。


 コウジは今持てる気力を振り絞り、ただひたすらにその身をぶつけた。


 一直線、自分が機関車にでもなったように、地面を一歩一歩踏みしめて、ただ全身で相手を倒す。


「うおおお!」


 ついにコウジのタックルが決まった。


 クリミールの懐にえぐり込むと、その巨体をがしりとホールドする。


 そこからはさらに足の裏に脛に腿に。さらには腹に胸に腕に。全身の力を収束させ、一気に押し込んだ。


 石像のような強靭な身体がぐらりと揺れ、やがてバランスを失い巨棒のようにゆっくりと倒れた。


 ズシンと土埃が舞い、クリミールはこの日初めて尻もちをついた。


「や……やったぞ!」


 アレクサンドルと公子が小さく叫んだ。泣き続けていたナコマもこの時ばかりは大きく目を輝かせた。


「は、はは……」


 クリミールの身体に乗り上げたままのコウジからへなへなと力が抜け、そのままぐったりと伏せる。


 ずっと小屋の軒先でぶつかり合いを見守っていたラウルとエルゴンザが駆けつけ、ぼろ雑巾になったコウジの身体を抱き起した。


 そんな一同を見回しながら、地面に座り込んだままのクリミールはふふっと優しく笑った。


「貴殿らの魂、まじまじと見させてもらった。そしてやはりわかったぞ、スポーツには人を、いや国をも変える力があると」


「そ、それでは……?」


 二人に支えられていたコウジが頭を起こした。


 クリミールは「ああ」と大きく頷き、立ち上がった。


「アレス帝国とセレネー王国の二国間競技会。私も協力しよう」

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