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第二十六章 もうひとりの皇帝 その3

 木の板が張られ少し高い段になった床の上に、鮮やかな朱色の袈裟のような僧服をまとった男がこちらに背中を向けて鎮座していた。黒い髪の毛は短く刈りそろえられ、非常に質素な印象を受ける。


 男を囲む壁には経文のような書がと掛けられ、内容はわからなくともここが神聖な空間であることは誰にでも理解できた。


「先生!」


 座り込んでいる男にアレクサンドルが呼びかけた。


「……アレクサンドル、お前ならいつかここに来るだろうとは思っていたが、まさかこうもすぐだとは予想外だったな」


 そう言いながら男は振り返った。タクティ皇帝が生まれた時に15歳だったと聞いているから、もう40代前半くらいだろう。


 だが逞しく無駄のない筋肉に覆われた肉体は彫刻のように美しく、きりっとした顔立ちも聡明さが感じられる。力強さと知性を併せ持つ、男の憧れる男という表現がぴったりだった。


「異国からよく来られた。こんな辺鄙な所へ何用で?」


 男の態度は礼儀正しいもので、謙遜も感じられた。だが同時に何事にも臆さぬ威風堂々たる空気も身にまとっており、近付く者は誰しも畏まってしまいそうな、そんな威厳も感じられた。


「クリミール様、ですね?」


 コウジが恐る恐る尋ねると、僧服の男の目がかっと見開いた。石にされてしまったような電撃が走り、一行は後ずさる。


「……宮殿から来られたのか」


 声質が明らかに変わった。


 エルゴンザは汗まみれで、石像になったように直立不動のまま先生と慕う男を凝視していた。


 そんな弟子に男は目を向けると「席を外してくれ」と静かに言った。


「は、はい!」


 エルゴンザがそそくさと小屋の外に出る。


 扉が閉まり、外から吹き込む風の音も消えてしまうと、男は一行を睨みつけたままようやく話し始めた。


「いかにも、私はタクティ皇帝陛下の兄にして皇位継承権者第一位のクリミールだ。まさか異国の者を派遣するとは、弟も回りくどい手を使ったものだな」


 間違いなく堂々たる王者の顔と声だった。奇妙な経文に囲まれた部屋なので、まるで荒ぶる神が降り立ったかと誤解してしまいそうだ。


 ナコマに至っては猫としての本能ひどく働くのか、がたがたと震えながら今すぐに後ろに飛び退いて逃げられるよう足をすっと引いていた。


 だがコウジは屈しなかった。


「私たちは皇帝陛下のご命令でここに参ったわけではありません」


 前に踏み出してきっぱりと断りを入れる。


 クリミールはほんの一瞬、眉間にしわを寄せた。だがすぐにふっと小さく笑うと、伸ばしていた背筋を軽く曲げて前に屈む。


「ほう、さしずめ私が反皇帝派を扇動しているとでも聞いてやって来たわけか。そうだな、確かに私は皇帝の足を引っ張っている。だがそれだけだ。それ以上の目的は無い」


 笑いながらこちらをじっと凝視するクリミールに、コウジ達は言われようの無い不気味さを感じ始めていた。


「なぜそのようなことを?」


 デイリーが尋ねるも、「今話す必要は無い」と一蹴される。


「それよりもここまで来たということは何か目的があるはずだろう。用件は何だ?」


 蛇のような視線でこちらを見るクリミールは、本当に人間かと疑ってしまう。だが話題を振られたのは絶好の機会だと、コウジは必死に鼓動を押さえ込んで答えた。


「はい、セレネー王国との友好のための二国間競技会の開催についてです」


 内容が予想の範囲外だったのか、クリミールは「ん?」と言って目を細めた。


「友好のための競技会、だと?」


「はい、スポーツを通じて両国の親交を深めることができると、皇帝陛下は信じておられます」


 クリミールはしばらく黙ってじっとコウジの顔を見つめていた。そしてにやっと笑うと、ゆっくり口を開く。


「貴殿はこの世界の者ではない雰囲気を醸し出している。さてはマレビトかな?」


「はい、日本という国から来ました、加藤コウジと申します」


「風の便りでニケ王国にスポーツに詳しいマレビトが現れたと聞いたことがあるが、貴殿のことであったか。レスリングのルールブックも貴殿が?」


 コウジは「はい」と堂々と返した。自分の本を読まれているとわかって素直に嬉しくも感じたが、今は顔をにやけさせる場面ではない。


「貴殿の著書は読ませていただいた。あれは非常に公平で選手にも配慮をした良いルールだ。その前書きに書かれていたな、貴殿の世界では世界中200の国が集まってその技を競う大会があると。それを通じて友好を築くことができると」


「お褒め頂き光栄に思います」


 コウジは深々と頭を下げる。


 だがその時、クリミールは語気を強めた。


「それならば問おう。スポーツを通じて心を通わせる、そんなこと本当にできると思うか?」


 大声ではないのに、蝋燭の炎さえも消えてしまいそうな張りつめた空気が部屋を包んだ。


 公子もアレクサンドルも、固唾をのんでコウジを見遣る。


 しばしの間コウジは黙っていた。だが深く呼吸をし、時間を置いてはっきりと述べる。


「もちろんです。全力でぶつかり合ってこそ互いを知ることができるのです。これは言葉だけでは決して言い表せません」


「全力でのぶつかり合い、か」


 コウジの言葉をぼそぼそと反芻しながら、クリミールはゆっくりと立ち上がった。


 今まで座っていたのではっきりとはわからなかったが、その巨躯にコウジは圧倒された。


 身長2メートル近くある大男だ。簡素な衣服がその引き締まった肉体を強調し、コウジの目にはまるでギリシャ神話のヘラクレスのように映った。


 そんなクリミールは足音も立てず、板張りの段からすっと降り、一向に笑いかけるのだった。


「外で語り合おう。ここでは窮屈だ」




「ラウル、これはどういうことだよ?」


「俺だってよくわかんねえよ」


 エルゴンザとラウルの二人は山小屋の壁に貼り付きながら、じっとにらみ合うクリミールとコウジたちを見守っていた。


 冷たい風の吹き荒れる山頂には、ある程度の広さの土と岩が固められたほぼ水平な地面があった。


 そこに連れ出されたコウジたちは、ここから見える例の巨岩ような山に一礼するクリミールと対峙していた。


「大いなる山の神々よ、私たちを包み込み、良からぬ気をお祓いください」


 祈りを終え、クリミールは改めてコウジたちに向き直る。


「私は宮殿を出た後僧となり、修行を重ねた。その際レスリングにも励み、気が付けば若いレスラーが私を先生と呼んで慕うまでになった。そこでわかったことがひとつある。何も直接思想を語らい合わなくとも、無言の言葉があるということを」


 そう話しながらクリミールは上半身を覆う僧服を脱ぎ、鍛え上げられた肉体を太陽の下に晒したのだった。


 元々の高身長に加え巨人族かと見まごう筋肉。敵が一目見ただでけで戦意を失いそうな貫禄があった。


「いくらでも来い、私に勝てたら議員たちは黙らせよう」


 コウジが一歩下がり、公子が歯を鳴らし、アレクサンドルが目を反らした。


 エルゴンザの顔から血の気が引き、それを見てラウルも怯える。ナコマコウジ達を今にも泣き出しそうな目で見つめていた。


 まさかそんな条件を提示されるなんて。話し合いで何とか解決しようとシナリオをいくつか用意していたのに、全部がパーじゃないかとコウジは悔しがる。


 だが競技会実現のためにはこの男を説得するのが最大の鍵だ。到来した好機を逃せるはずがない。


「見せてみろ、お前たちの魂を。そして戦うことで互いに理解できると証明してみせるのだ!」


 クリミールが言い放ったと同時にどうっと強い風が吹く。まるで山の神さえも味方につけたようで、コウジは前に足を踏み出すことができなかった。


「よし、俺が行こう」


 そう言ったのはデイリー公子だった。彼は上着を脱ぎ捨て、細くも逞しい上半身をさらけ出すと歩き出す。


 だがクリミールと比べれば大人と子供、絶望的な違いだ。


「でも……」


 無茶だ。コウジはそう叫びたかった。


 しかし戦いにゆく友の背中を、コウジは引き留めることができなかった。


 そんなコウジの考えを察したのか、公子は振り返ってにこりと笑った。


「コウジはレスリングの素人だし、アレクサンドルはまだ子供だ。ここは私が行くのが妥当だろう。なぁに心配するな、私を誰だと思っている」


「……デイリー、君は僕の知る最高の友達だよ」


「俺もそう思っているよ、コウジ」


 コウジと公子は互いに頷き合った。


 公子は前を向き直り、自分よりもはるかに巨大な相手とにらみ合う。


 デイリー公子の上着を拾ったナコマはそれを丁寧にたたむと、大きな岩の影から隠れるようにして成り行きを見守っていた。


 一瞬、風が止んだ。


 そして誰かが合図をするまでも無く、山頂での試合は開始された。


 互いに腰を曲げてじりじりと距離をはかりながら隙を窺う。


「はっ!」


 先に飛び出したのは公子だった。素早い動きで突っ込んだかと思えば、突如横に跳んで素早くクリミールの背後に回り込む。


 アマチュアレスリングならば非常に有効な得点だ。そのまま腰に腕を回し、相手の体勢を崩せば他の技にもつなげられる。


 公子もその原則に従い、クリミールの大きな腕を回避しながら巨木のような腰に自分の腕を回し、がっしりと抱え込んだ。


 よっしゃあ! コウジは拳を握りしめ、歓声をあげようとした。


 だがクリミールの腕が公子の手首をつかむと、なんと彼はいとも簡単にその拘束を解いてしまったのだ。


 完璧に入ったはずなのに、そう言いたげな顔で公子は掴まれた腕を持ち上げられると、軽々と投げ飛ばされてしまった。


「デイリー!」


 土と砂利に覆われた地面に背中を打ち付けて悶絶する公子に、コウジ達は駆け寄った。


「な、なんという馬鹿力だ」


 友人の悲痛な声を聴いてコウジは震えた。


 だがそんな彼の隣で、一人の影が立ち上がる。


「次は私が」


 アレクサンドルだ。まだ子供だというのに、身体も十分には発達していないのに、伯爵家の後継者は気迫も十分にクリミールの前へと進むのだった。


「アレクサンドル、お前も随分と腕を磨いたそうだが、私にはまだまだだ敵わんぞ」


 王者クリミールもこの時ばかりは師匠の顔になる。だがアレクサンドルは深々と礼をして淡々と言った。


「それは百も承知です。今の私では先生の足元にも及びません。ですが、万にひとつでも可能性があればかけるのが真に強いレスラーだと、先生は教えてくださいました」


「良い心構えだ。だが、こちらも油断は一切せん」


 クリミールは背中を曲げ、臨戦態勢に移った。

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