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第二十四章 国境の郵便屋 その3

 正午を迎えてもなお雨は降り続けていた。これほど雨が降るのはこの都では年に一度あるか無いかだという。


 足止めを食らったコウジたちはホテルのロビーでコーヒーを飲みながら過ごしていた。


「……もう山を越えたかしら」


 バレンティナが窓の外に聳え立つ山並みをちらりと見る。雨が降りしきる中に遭ってもその山影は存在感を放ちながら鎮座していた。


「帝都までの距離はどれほどなのです?」


 コウジが尋ねるとデイリー公子がコーヒーをすすりながら答えた。


「普通に歩けば二日はかかるそうだ。距離はそこまでだが山をいくつか越えねばならんらしい」


「そんなにか……」


 間に合うかな。期待と不安が入り混じりながら、コウジは今朝、雨の中へと勇ましく走り行く男の背中を思い出した。




 朝になっても雨は止まず、勢いをさらに増している。雲もゴロゴロと唸り、まともな感性なら山に行こうと言う者はいないだろう。


「それじゃあ、ちょっくら行って来るよ」


 大きな荷籠を背負い、靴を履きなおすラウル。


「でもラウルさん、こんな天候じゃ……」


 コウジ達は空を見上げた。こんな天候では山道もさぞ歩きづらいだろう。


 だがそんな一行に振り向くと、ラウルはにっと屈託の無い笑顔を向けるのだった。


「俺は郵便屋だ、速達なら文字通りノンストップで届けるのが仕事なのさ」




「こんな高山を走り抜けているなんて、ラウルさんは本当にすごいな」


 そして思う。彼が元いた世界にいればマラソン選手として大成できるだろうにと。


 マラソン。これほど原始的でありながら奥の深いスポーツも滅多に無い。


 42.195㎞という長距離を走り抜け、速さを競うという誰でも理解できるルール。


 この競技が初めて正式に実施されたのは第一回近代オリンピックである1896年のアテネ大会だ。つまりは当初オリンピックのために創設された競技と言える。


 紀元前490年、ギリシアの都市国家であるアテナイ・プラタイアの連合軍が攻め入るペルシア軍をアッティカ半島にて迎え撃ち、勝利する。この戦争はマラトンの戦いと呼ばれている。


 その際、勝利の報せを戦地からアテナイへと伝えるためにひとりの兵士が走り抜け、伝令を伝えるとともに力尽き倒れたと、ヘロドトスの著書である『歴史』に記されている。


 この故事を基にアテネ五輪の際、マラトンからアテネまでの長距離走競技が考案され、それが現在のマラソンになる。


 当時は距離については厳格に定められておらず、およそ40㎞であればよいとされていた。だが1908年のロンドンオリンピックでスタート地点からゴールである競技場の王妃の座るボックス席までの距離が42.195㎞であったため、後の国際大会で徐々にこの数字が使われ定着したとされている。


 ラウルもいわばそのアテナイの兵士のように、大切な責務を担わされてしまった。それも自分の国ではなく、隣国のために。


 コウジが物思いにふけっていたところで、ホテルのロビーがにわかに賑やかになる。


「ふう、もうびしゃびしゃです」


 遣いに出したナコマが戻ってきたのだ。雨傘をさしていたのに、全身ずぶずぶだ。


「ナコマ、どうだった?」


「雨のせいで復旧は捗っていません。作業中にも別の崖が崩れるかもしれませんので、下手に始められないのです」


 一行の顔は沈んだ。線路の復旧具合はどうか知りたかったが、この調子だと予定よりさらに到着は遅れそうだ。


 アレス帝国のゼフィラも他に帝都と連絡を取る手段を探すと言って朝から出て行った。この都の知り合いを片っ端から尋ねて回っているようだが、どうなったのだろうか。


 結局雨なので街中を歩くことはせず、その日コウジ達はホテルに留まることにした。


 少しでも宿泊客を楽しめようとロビーにバンジョーによく似た民族楽器を携えた楽団が来て、独特な物悲し気な音楽を演奏し続けていた。それを聞きながら、一行は一日を過ごした。




 雨が上がったのは陽が沈んでからだった。


 昨日のこともあってホテルで夕食を食べていると、ホテルの職員が復旧工事がようやく本格的に始まったことを教えてくれた。


「これで三日後には列車で帝都に向かえますね」


「ええ、そうだと良いのですが」


 コウジが楽観的に言うも、バレンティナは不安げだった。


 こんな時間になってもゼフィラはまだ帰って来そうにない。というのも、先ほどセレネー王国の衛兵の一人が来て現状をコウジらに伝えてくれたのだ。


 彼女は王都の魔術師の管理する通信用の水晶玉を通って王都と連絡を取るたいそうだが、如何せん自国の人間ではない上にアレス帝国に連絡するとなると色々と事情があるためになかなか使用許可が下りないらしい。王をはじめとする多くの有力者がニケ王国からまだ帰ってきていないのも問題を長引かせる要因だった。


 現在、ゼフィラは知り合いの高官とともに許可が下りるのを待っているそうだ。


 食後、部屋に戻ったコウジは今後の仕事についてプランを練っていた。


「コウジ様、いかがなさるのです?」


「うーん、どうしようか?」


 紙に思いついたことをどんどん書きだしていくのがコウジ流だ。


 皇帝に直接頼まれた、アレス帝国とセレネー王国の友好の象徴としての二国間競技会。競技種目、場所、人員など考えることは山積みだ。帝国に入る前からある程度は方針を固めておくに超したことはない。


 だがアレス帝国の大規模競技場は現在建築中で、まだ使えない。フットボール文化の無いアレス帝国では、それに適した競技場が必要無かったのだ。代わりに古来のスタイルの円形競技場で、国民的人気のあるレスリングやボクシングなど格闘技が行われているらしい。


 よってサッカーのようなフィールド競技は難しいし、ベースボールも円形競技場では面積が足りない。格闘技は比較的小さな土地でも可能なのだ。例えばレスリングや柔道の大会では同じ体育館の中で同時進行で複数の試合が行われることはよくある。


 しかもアレス帝国とセレネー王国の二国間で開くとなればもっとハードルは高くなる。


 アレス帝国はコウジたちのいるニケ王国と人気の競技は違うとはいえ、スポーツに対する関心は高い。


 だがセレネー王国は平地が少なく、巨大な競技場を作る文化は育たなかった。球技も土地が狭くても可能な独自の競技が発達し、アレス帝国と共通して戦えるものは無い。


 ただレスリングは広く根付いているため、現実的なことを考えれば二国間で精鋭を集めレスリング大会を開くのが最も無難だろう。


 だけどその場合、喧嘩にならないよう気を付けないとな。コウジは思いついたことをさらさらと羽ペンで書き出しながら、あれこれと思索する。


 そんな時、窓の傍に立つナコマが外を見てはしゃぎ始めた。


「コウジ様、星がすごくきれいですよ!」


 可愛らしいメイドの声に、どれどれとコウジもナコマと並んで窓から空を見上げる。


 そこに広がっていたのは言葉を失うほどの星空だった。


 黒い布の上にいっぱいのダイヤモンドを満遍なく散らしたかのようにも見えるこの星空は、都会ではまず見られない。


 特に光の集まるあの場所は天の川だろうか。銀河の中心方向、星々の密集する方向を天体から眺めると星が大河を作り出しているように見えるのだ。


「本当だ、ここは標高が高いから、空も澄んで見えるんだね」


 コウジがそう話しても、ナコマはうっとりと空を見つめたままだ。


 コウジは星座についてはそこまで詳しくない。北斗七星と黄道十二星座くらいしかおおまかな形はわからない。


 もしも詳しければ星座を見てここが別の星なのか時間軸のずれた地球なのかもわかるかもしれないが、そもそもい南半球のこの大陸では何の役にも立たないだろうな。そういえば南半球の星座は六分儀座だのさんかく座だのテーブル山座だの、やっつけで作ったような星座ばかりだと聞いたことがある。


 普段星空を見上げる機会の無かったコウジも、つい元の世界のことを思い出す。


 コウジはこれまで、なるべく元の世界のことを考えないようにしてきた。戻れる方法は無いのに、思い出すと辛くなるからだ。


 その気持ちを紛らわすため、コウジはナコマの肩にそっと手を置いた。


「ナコマ、せっかくだし星空を見に行くかい?」




「本当に美しい夜空ですこと」


 岩の上に座り込んだバレンティナは空を見上げて漏らした。


「ふむ、これほど見事な空は滅多に見れないな」


 デイリー公子も腰に手を添えて背中を反らせたままの姿勢で星の瞬きに目を凝らしていた。


 市街地から少し外れた小高い丘の上。すぐ近くに天文台も設置されている。建物の灯りの少ないここならば余計な光に邪魔されずに星々の煌めきを堪能できると、ホテルの職員が教えてくれたのだ。


「はあー良かったー、これで今日は寝られるわ」


 そんな星を眺める一行の耳に、聞きなれた声が届く。


「あ、ゼフィラさん!」


 ゼフィラだ。この人気の無い丘を、鳥人のゼフィラはすっかり安堵した顔で歩いていたのだ。


 当然、声をかけられて彼女は驚く。


「コウジ殿! それに皆様! なぜここに?」


「ええ、星を見に来たのですよ、ホテルの方がここが一番きれいだからと教えてくれて。ゼフィラさんは?」


「通信用の水晶の使用許可が出たので使っていたのですよ。高山では遮るものが多すぎるので、通信用の水晶もこの都ではこの丘の上くらいしか遠くまでつながらないのですよ」


 ラジオみたいだな。この世界の魔法はよくあるファンタジー世界ほど便利なものではないらしい。


「あ、流れ星です!」


 突如ナコマが空を指差すので、コウジも釣られて先を見上げる。


 一際輝く青い光が強く放たれたかと思うと、一本の青い筋を残して空の端から端までを貫いた。その光景に一同は「おおっ」と歓声を上げた。


 そしてコウジは思うのだった。


 今僕たちがこう空を眺めている間も、ラウルさんはずっと走り続けているのだろうか。この、ただ広い星空の下を。

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