第二十章 傷心のサタリーナ その3
「コウジ様、置いて行きますよ!」
純白の山肌を滑降する小さな影がはしゃぎながら言う。スキー板を今日初めて履いたばかりとは思えないほど、ナコマの呑み込みは早かった。
「おいおい、まだ先に行っちゃダメだよ!」
好き勝手振る舞う使用人をコウジは諌める。
「いいじゃないの。ナコマちゃん、気を付けて楽しんでねー!」
快活に笑うのはサタリーナだった。できたばかりのそりに乗り込み、コウジに押されながら平坦な雪の上を進む。ある程度なら方向転換もでき手動のブレーキまで備えた優れものだ。
サタリーナの怪我から2週間、出歩いても問題無いほどに痛みの引いた彼女を連れてコウジたちは久々の雪のレジャーを楽しんでいた。
断崖に囲まれた都を見下ろす丘の上、ここは眺望も地形もスキーには最適だった。
もしもの事態のために巨人族の衛兵クレイグも来ている。先日のスキー競技会でも上位に入ったこの人なら、雪上で何か起こっても大丈夫だろう。
「さあ私も負けてられないわ。いつでもオッケーよ」
「それではいきますよ、はい!」
斜面ギリギリに立ち、コウジはサタリーナの乗るそりを押した。
そこまで急でなくとも徐々に加速するサタリーナのそり。新品のワックスのおかげでやがて吹き抜ける風のごとく雪の上を滑る。
「ひゃー、これよ、やっぱりこの風よ! これが無いと生きてるって気がしないわ!」
「本当、冷たい風が気持ちよくって、まるで風に乗る鳥、いえ、風そのものになった気分だわ」
並走するバレンティナも巧みな足さばきで滑り降りる。まだサタリーナの足が動いていた頃、特訓に付き合って一緒に滑っていたのが功を奏していた。そんな二人のうら若き女性のやや後ろから、頼りになる護衛のクレイグが目を光らせる。
一番下手なのはコウジだった。元々年に一、二回スキー場に行くかどうかの頻度で、上達するほど滑り込んでいなかった。
さらにコウジが使っていたのはカーボン素材のアルペンスキーで、木製のテレマークスキーに近いこの世界のものとは板の使い勝手が大きく違う。新しい感覚に対応するだけで精いっぱいだ。
車椅子に座るサタリーナは痛々しかった。顔つきも暗く、生きる意欲を失ったようだった。だが今は違う、以前のように喜びに満ちていた。
「今日は楽しかったわ! やっぱり雪の上は最高ね、ベッドの上で寝ていたら私じゃなくなっちゃう」
「それは良かった、春はまだまだですので、またいつでも滑りに行きましょう」
その夜、王城のコウジの元にバレンティナからの遣いが慌てて尋ねてきた。聞けばサタリーナがまたも大怪我をしたのだという。
「サタリーナ様!」
コウジとナコマが駆けつけた時には、サタリーナはベッドの上で憔悴しきっていた。
それを取り囲む医者や使用人の中から、バレンティナが飛び出す。
「バレンティナ様、一体何が!?」
「馬鹿なサタリーナ……ひとりでベッドから起き上がるなんて無茶するから……」
うつむいたバレンティナの握った手は小刻みに震えていた。
「誰も見ていない時でした。あの娘、ひとりでベッドから起き上がって歩いて車椅子に座ろうとしたのです。まだ起き上がるのは介助が必要だというのに」
それで転んで悪化してしまったのか。コウジは察してううむと唸った。
昼間はあんなに元気だったのに、今日の今日でこんなに変わってしまうなんて、信じたくなかった。このままゆっくり養生すればまたソリ滑りに行けるというのに。
医者がサタリーナの傍らから立ち上がり、机の上に用意されたすっかり冷めた紅茶に口をつける。
そして一同が見守る中、重々しく口を開くのだった。
「ご安心ください、大事には至っておりません。しばらくすれば痛みも引くでしょう。ただ……」
「ただ?」
バレンティナが一歩前に出る。気圧されて医者は口をつぐんだ。
「もう歩けない、そう言いたいんでしょ?」
突如サタリーナが口をはさみ、部屋にいた全員が固まった。そしてベッドに横たわってふっと苦々しく微笑むサタリーナに皆の視線が注がれる。
「分かっていたわ、いつまで経っても膝から下が全く動かないんだもの。まるで私の身体じゃなくなったみたいに」
貼り付けたような苦笑いだった。心なしかほんの少し震えているようだ。
「久しぶりに雪を踏めて、とても楽しかったわ。あの感覚を思い出させてくれてありがとう。でもね、だからこそ思い知らされたのよ、私はもうスキーができないんだって」
コウジは心臓が大きく跳ね上がり、そのまま止まってしまうかのような気分だった。
「私はあなたたちの助けが無いともうそりも乗れないの。自分の力で歩くこともできないのよ、スキー板を履いて滑るなんてもっと無理だわ。いつかデイリー公子と一緒にスキーを滑るなんて夢見ていたこともあったけれど、もうそれも叶わない」
話しながらサタリーナの目から涙が溢れ、頬を伝う。
部屋の空気がずんと落ち込む。そしてコウジも泣き出したい気分だった。気晴らしに雪の上に出れば元気になるさ、と安易な考えでサタリーナを連れ出したことを今さらながら後悔した。
サタリーナはそりの上で見ていたのだ。コウジたちが足にスキー板をはめて滑り降りるのを。そしてそんな風に足が動かず、かつて誰にも負けないスキーヤーだった頃にはもう戻れないと自覚したのだ。
「公子に申し訳ないわ。新婦が歩けないなんて、公爵家に何て言えばよいか。きっとこんな私、嫁にもらってくれないわ」
サタリーナが両手で顔を覆い、今まで漏らすことのなかった嗚咽が漏れだす。
人々の黙り込む部屋の中を、サタリーナのむせび泣きと暖炉の薪が火花を上げる音だけが支配する。
だがそれは長く続かなかった。怒気に満ちた鋭い声により、静けさは破られる。
「何弱気になってるの!」
全員が一斉に視線を移し、サタリーナが泣くのを止めた。
声の主はバレンティナだった。ぴんと背筋を伸ばした美しい所作で、それでいて力強く、ずんずんとサタリーナのベッドに歩み寄る。
「デイリー公子はそんなことを気にするような方ではないわ! あの方がサタリーナを気に入ったのはスキーがうまいからじゃない、どんな困難でもくじけない芯の強さがあるからよ!」
伯爵令嬢はベッドの脇でサタリーナを見下ろしながら、彼女の手を包み込むように握った。怒りと慈しみと、ずっと抑えていた感情をぶつけるバレンティナの瞳からも、涙が止めどなくこぼれ落ちる。
長い間側に使えていたナコマにとってもバレンティナの涙を見るのは初めてのようで、取り乱したように驚いていた。
「サタリーナ、あなたは誰よりも強い娘よ。じゃないとあんなに激しい特訓をこなして、大会で優勝なんてできるはずない。あの苦難を思い出しなさい、きっと今の足だってあなたなら乗り越えられる。だから……」
バレンティナがサタリーナに覆い被さるようにそっと抱きつく。
「だから……諦めないで!」
泣きながら抱擁する友人に、サタリーナも黙ったまま上体を起こして抱き返した。だが彼女の目からは滝のように涙が溢れ落ちていたのだった。
「コウジ様……」
誰もが静まり返る中、ナコマが心配げな目でコウジの顔を覗き込む。
今こそチャンスだ。今度こそサタリーナに生きる希望を与えてあげなくては。
紛い物ではない、彼女が心から望む活力の源を。
「サタリーナ様、もう一度雪山に行きませんか?」
ぶしつけにコウジが尋ねる。
「でも、私は……」
抱擁を解き、涙を拭いながらサタリーナは答える。足が動かない。その続きは誰でもわかる。
だがコウジは引き下がらなかった。
「はい、私にひとつアイデアがあります。あなたはまだ自分の力でスキーができる」
びくっと飛び上がるように、サタリーナが涙に濡れたままの顔をコウジに向けた。その驚きの表情の中に、まさかという希望が隠れているのをコウジは確かに見た。
「準備のためにもうしばらくお待ちください。必ずや満足いくものを用意しましょう」




