第二章 気が付けば専属トレーナー その2
「コウジ殿、ありがとうございます。おかげで自信がつきました」
男の子は深々と頭を下げた。反応に困るコウジに対し、マトカとおじさんは床に頭が着きそうなほど深く腰を曲げていた。
「弟のアレクサンドルです。王城に奉公に出ていたのが最近戻ってきたばかりなのです。領民にはもう少し大きくなったら挨拶させようと思っていたのですが、あなたたちには一足早くの紹介となりましたね」
悪戯っぽく笑うバレンティナが手招きすると、アレクサンドルは姉に走り寄った。
「母はこの子を産んですぐに亡くなりました。父はこの子を立派な領主にすべく、勉学に武術にと教え込んでおります。ですがどうもこの子は身体が小さく、臆病な性格もあって心配していたのですが……今日、相撲で初めて村の子どもに勝ったことが本当に嬉しかったようです」
弟の頭を撫でるバレンティナの姿は、姉と言うより母のような慈しみに溢れていた。生みの母の顔を知らないアレクサンドルにとって、年の離れた姉は実際に母のような存在なのかもしれない。
「ところでコウジ、あなたは格闘技に大変お詳しいようですね」
バレンティナの微笑みに、コウジは「え、はい」としどろもどろな返事をする。
実際はよく言われるタックルのコツをそのまま教えてみただけなんだけどなあ。しかも相撲と言うより、ラグビーのテクニックなんだけど。
そんなコウジの考えなどよそに、バレンティナは「ふむ」と頷いた。
「実はちょうどアレクサンドルの剣術指南役を呼び寄せたのですが、ここに来るまであと一か月はかかるそうです。それまでの間、このアレクサンドルの面倒を見てくださいませんか?」
笑顔で提案する令嬢に、マトカ親子は「それはいい」と手を打った。だが当のコウジは焦っていた。
「で、ですがお嬢様、私は剣を握ったこともシッターの経験もありません。アレクサンドル様の護衛なんて、荷が重すぎます」
「護衛ではありません。剣術指南は本当にきついので、ひ弱なアレクサンドルなら逃げだしてしまうかも。それまでは領民の子どもたちと外を走り回って、健全な体へと育ってくれることを願うだけです。あなたはそのお付き合いとして、アレクサンドルと、それから子供たちに運動を提供してくださればかまいません」
「ああ、もうすぐ村対抗の競技会だからねえ」
マトカが呑気に言うと、父が「お嬢様の前だぞ!」と小声で注意したので、慌てて口を押えた。
そう言えば子供たちも隣村の奴らを倒すとか何とか言っていたな。あの相撲は競技の一種だろうか。
「アレクサンドルもあなたがお気に入りのようです。早く次の技を教えてもらいたいと、言うことを聞かないのです」
「いいじゃない、バレンティナ様から住まいも用意してもらえるのよ!」
マトカはコウジを小突いた。確かに、その程度ならばできなくもない。それにどの道この世界で衣食住にありつけるには、今はバレンティナの庇護下に入るのが賢い。
「わかりました、それではお勤めさせていただきます」
コウジは改めて頭を下げた。こうして彼は憧れのスポーツ新聞社ではなく、伯爵家の食客として職に就いたのだった。
「コウジ殿、早く次の技を教えてください!」
夕方、屋敷の庭の芝生に立ったアレクサンドルは目を輝かせていた。この好奇心にはコウジも頭を掻いた。
とりあえず藁にもすがる思いだったのでノリで引き受けてしまったけれど、相撲はどうも専門外だ。
いくらスポーツ好きでも、オリンピック競技として定着している柔道やレスリング以外は実際のところよく知らないのが多いんだよなあ。
「アレクサンドル様、何も相撲だけで強くなろうなんて思わなくても良いのです。他にも強くなる方法はたくさんありますよ」
コウジが口から出任せに話すと、アレクサンドルは「え、本当?」ときょとんと目を丸めた。
「ええと、ボールはありますか?」
「はい、納屋にしまっています」
アレクサンドルはコウジの手を引き、屋敷の裏手にある小さな納屋へと案内した。木製の小屋で剪定道具や馬具が収められたその奥から、いくつか木箱を取り出す。
その木箱をひっくり返すと、大小様々なボールがコロコロと芝の上に転がり出た。
なめし皮を丸めたサッカーボールほどの大きさのもの、コルクを丸く削った野球ボールほどの大きさのもの、そして何にい使うのか想像できないずっしりと重い木製のビリヤード球のようなもの。コウジが普段触れているものに比べて非常に原始的ではあるが、実用には十分耐えられそうなもので安心した。
その中からコウジは皮製のボールを拾い上げた。12枚ほどの皮を組み合わせて作られた、ごつごつとはしているものの球形をなんとか保持しているボールだ。
「これは陣取りに使うボールです。競技会では1チーム10人の2チームがこのボールを奪い合い、相手陣地にこのボールを持ち込んで旗の下に置けば勝利となるのです」
コウジ背中からアレクサンドルが解説する。
ラグビーのような競技だ。サッカー発祥地のイングランドでは村人全員が2チームに分かれてひとつのボールを奪い合い、村のどこかにある敵陣にボールをぶつければ勝ち、という伝統行事を残す村があると聞いているが、それに近いのだろう。
軽く地面に落としてみると、あまりバウンドしない。さすがに人工皮革やゴムと比べるのは酷だよな、とコウジはボールを抱えてアレクサンドルとともに芝の上に向かい合った。
「アレクサンドル様、サッカーをご存知ですか?」
「サッカー?」
首を傾げるアレクサンドル。どうやらマレビトはこの国にサッカー文化を持ち込まなかったらしい。
「足だけでボールを奪って敵陣に蹴り込む競技です。時間内にたくさん蹴り込んだ方が勝ちです」
「足だけでボールを? 手に持ってはいけないのですか?」
「はい、それは反則です」
コウジはボールを落とし、革靴のつま先で蹴り上げた。そして足の甲を使って何度もリフティングする。サッカー経験者ならば比較的簡単にできる芸当だ。
だがこのリフティング、見る側の素人にとっては曲芸のような高等技術にしか思えない。アレクサンドルも「おおっ」と地面に落ちず足の甲を跳ね回るボールを輝く目で追いかけていた。
「これも練習を積めば簡単にできます。どうです、相撲も良いですが、領民の子どもたちとサッカーをやってみてはいかがでしょう?」
「はい、やりとうございます!」
アレクサンドルは羨望の眼差しでコウジを見て答えた。