第十一章 公子とコウジ その3
コウジが公爵の城に厄介になって二週間。明日、バレンティナは伯爵領に戻る予定だ。
許嫁として公爵一家と交流し、一応は伯爵家の食客であるコウジを監督するという責務は全うした。今後も何度か足を運んで、近い内には本格的な婚礼の準備へと入るだろう。
今の公子ならバレンティナも受け入れてくれるだろう。両家の安泰を予期しコウジはほっと胸を撫で下ろした。
「ナコマはどうするんだい?」
夕食後の談話を終え、部屋のベッドに腰を下ろすコウジが尋ねた。彼は今日、新たに体育館を使った競技としてバドミントンのルールブックを仕上げ公爵に提出している。
「私はコウジ様のお付きを任された使用人です。コウジ様がここにおられます以上は私もお供させていただきます」
箪笥からコウジのナイトガウンを出しながらナコマが返した。
「ありがとう」
コウジは心からそう思った。いくら豪華な貴族の屋敷での生活とはいえ電気も無い異世界だ。自分の世話を何かと焼いてくれるナコマは本当に頼りになった。
「メイドとして当然の務めです。それに……ここだと一緒に体操のできる同世代の使用人もたくさんいますので」
思えばナコマと同じ布団で寝るのももう2週間か。慣れればすっかりどうでもよくなるものだ。コウジにとって彼女は使用人というよりも、面倒見の良い妹のように思えていた。
突如、ドアがノックされる。
ナコマが「はいただ今」とドアを開けると、夕食で着ていたスーツ姿のまま、デイリー公子が立っていたのだった。
思わず言葉を失い後ずさるナコマ。思い返せばふたりはスポーツの最中に一言二言声を掛け合うくらいで、互いに言葉を交わすことは滅多に無い。
「夜分失礼する」
公子はナコマ微笑みかけた後、部屋の中のコウジに顔を向けた。
「コウジ、少し良いか?」
食事中とは打って変わって、真剣な眼差しだった。
心当たりは思い浮かばないものの、重要な話に間違いない。コウジは「はい」と即答すると、そのままナコマを残し部屋を出た。
無言で城打を歩いたふたりは、やがて夜のテラスにたどり着く。満天の星空に古城。この幻想的な風景を前に、公子は手すりに両手を添えて身を乗り出す。
「ここならば誰にも聞かれまい。こんなこと、そなたにしか言えぬ」
天上の星々をぼうっと見ながら、公子が口を開いた。
「私はバレンティナ殿との婚約を破棄する」
「……え?」
あまりに突飛な発言に、コウジの脳がフリーズした。
バレンティナ様にゾッコンの公子が? まさか? 冗談でしょう?
思考になっていない言葉の羅列が頭を巡る。その言葉をなんとかつなぎ合わせ、コウジはやっとのことで尋ねる。
「なぜ、公爵家と伯爵家は隣同士で関係も良好なのに。これから大いに発展するためにはお二人が夫婦となるべきでは?」
「伯爵家と断絶するようなことはしない。むしろこれからも良い関係を続けていく。これはあくまでも私自身のことなのだ」
公子はため息混じりに言った。その目には諦観の念が込められていたようだった。
「私は幼き頃よりバレンティナ殿に見合う男となるべく日々研鑽してきた。だが俺はあのお方の意図を推し量ることができなかった。そんな男に麗しき令嬢を任されようか」
「そんな、公子は優れたお方です。これは傍にいる私も常に実感しております。バレンティナ様とはお似合いの夫婦では?」
「あのお方は私など見ていないよ。何度もあのお方と会ってきていたが、今のあのお方は明らかに別の方向を見ておられる」
公子は振り返る。そしてびしっとコウジを指差した。
「コウジ、そなたがこの世界に来てからだ」
何も言葉が出なかった。
バレンティナは美人で器量もよいが、コウジにとってそのような考えが及ぶような相手ではなかった。こちらは異世界から来たぺーぺーで、彼女は格式高い伯爵家の令嬢だ。雲の上の人であり、恋愛対象として見るという発想自体がそもそも出てこない。
そんなコウジにとって、公子の言葉はまるで予期せぬ不意打ちだった。目を点にし、言葉が紡げず「え、あの……」としどろもどろなコウジを見ながら、公子はゆっくり手を下ろした。
「気付いていないのか? あのお方は食事の席でも何度も何度も、そなたに視線を向けておられたのだ。その表情は私に向けられるものとは全く違い、尊敬と慈愛に溢れたものだった」
まったく気付いていなかった。
夕食では皆と仲良く話してばかりいたので、バレンティナの視線が向けられるのは当然のことだと思っていたが、幼少よりバレンティナと交流してきた公子にはその違いがすぐに分かったようだ。
「私はこの領地を動けない。だが、バレンティナ殿はこんな領地に収まるようなお人ではない。コウジ、そなたのような自由な者こそがバレンティナ殿を大いなる世界へと連れ出すべきなのだ」
公子は笑顔で話すも、その目は少しばかり潤んで微かな夜の光を反射していた。
「そんな……なぜ私に?」
「あのお方は保守よりも革新を、閉塞よりも解放を求められている。そなたは100年に渡る安定で閉塞したこの大陸に新風を巻き起こす数少ない人間だと私は踏んでいる」
そう言うと公子は上着の内ポケットに手を突っ込み、そっと一封の封筒を取り出した。封蝋がはがれているので、読まれた後のようだ。
「実はビキラ国王陛下にそなたのことに関して書状を送ったのだ。その返事がこれだ」
公子は封筒から一枚、紙を取り出して広げた。王家ともあって紋章の施された立派な便箋だ。知性を感じさせる美しい文字、コウジはじっと文面を目で追う。
「ええと、おもしろき者が現れたな……そのマレビトには是非王都まで来てもらって……スポーツを振興するために……爵位を……与えよう!?」
目玉が飛び出したかと思った。同じ箇所をコウジは何度も読み返し、誤りが無いことを確かめる。
爵位だって? 異邦人の僕に爵位だって?
「そうだ、まだ決定事項ではないが、陛下はかなり本気で考えておられる。複数の国が参加するスポーツの大会が開かれるとなれば、見物に多くの者が訪れ、国が潤い、物流も発展する。国威を周辺に知らしめる良い機会にもなろう。それに陛下もかつては馬上槍試合では負け無しと呼ばれた剛の者であられた。スポーツの大会と聞いて黙っておられる方ではない」
公子は丁寧に紙を折り、また封筒にしまった。
「爵位があればそなたは貴族だ。私たちと同じ土俵で議論ができ、国政にも参加できる。宮廷に仕えれば給料をもらってスポーツ振興にも励めるぞ」
コウジは何度も頷いた。
こんな好機、誰が逃そうか。元の世界に帰る方法も無いとなれば、コウジもこの世界で生きていかねばならない。とはいえ今のようにいつまでもバレンティナに厄介になるのは気も引ける。どこかで屋敷を出て自分の食い扶持くらいは稼ぐのは当然だ。
だがまさか、国王から爵位を与えられるとなれば少なくともこの国での身分は保証される。
おまけにスポーツ振興を任されたとしたら、コウジにとって願っても無い大チャンスだ。元の世界でのスポーツ業界での就職を諦めていたのが、まさかここに来てスポーツに従事できることは予想だにしなかった。
「だがあくまでもまだ仮の話だ。決定事項ではないことは重ねて知らせておく。本当にスポーツ大会が人を呼ぶのか、実証する必要がある。そのためにはそなたと、それに伯爵家の協力も必要だ」
スポーツ大会で実証する。公子の語気はその部分で特に強くなった。
ある種の野望に燃える公子の目を見て、コウジは公子が何をしたいのか、おおよその意図を汲み取った。
深い息を何度も吸って、心を落ち着ける。そして深く頷きながら答えたのだった。
「なんとなくおわかりしました。では、じっくりと話し合いましょう」
「コウジ殿、もうしばらくここに残られるのですか。少し寂しいですね」
翌朝、伯爵家の馬車の前でバレンティナは公爵家一同、そしてコウジとナコマとの別れを惜しんでいた。来た時と同じく、城中の使用人が見送りのために外に出て並んでいる。
「しばらくすればお戻りいたします。それまではナコマはお守りしますのでご安心を」
「あれ? それじゃあ私がまるでお世話されているみたいじゃないですか」
はっはっはと笑いが上がる中、公子が前に出る。そして自らの手で馬車の扉を開けると、すっと身を低く屈めるのだった。
「バレンティナ殿、ありがとうございました。では、また」
馬車に乗り込んだバレンティナはらしくもなく手を振って帰路に就いた。広大な庭園のはるか彼方でも、馬車が見える限り公子もずっと手を振り続けた。
ついに城門をくぐり馬車が見えなくなると、公子はゆっくりと手を下ろし、ふうとため息を吐いたのだった。
「よろしいのですか公子?」
コウジが横から尋ねる。だが公子はすぐに振り返ると、きざったらしく白い歯を見せるのだった。
「そなた、私を誰だと思っている? ファーガソン公爵家の跡取りだぞ、結婚を申し込む女子などごまんといよう」
余裕あるなあ。コウジはぷっと吹き出した。
「さあ、これから忙しくなるぞ。伯爵家に改めて書状を送り、学校にも呼び掛けて人を集めねば」
「宣伝のためにも商工会ギルドにも協力を求めましょう。出店を許可して商人を集めれば人もさらに呼べます」
そう話し合いながら、コウジと公子は肩を並べて城の中へと入る。目指す野望の実現のために。




