第十一章 公子とコウジ その1
その日の夕食はベースボールの話で持ち切りだった。
「そして公爵夫人が好機をものにし、見事得点を入れたのでございます」
「ほう、それは是非とも見ておきたかった。我が妻のそういうところは何年も見ておりませぬ。造幣所の視察が無ければ私も喜んで参加していたのに」
バレンティナが試合の流れを説明し、公爵が相槌を打つ。時たま公爵夫人が「まあいやですわ」などと上品に口をはさみながら、まるで家族のように和気あいあいとしていた。
一方のコウジは肉を口に運びながら、そっと公子の顔を覗く。
公子は愛想笑いをしていたが、自分から話し出すことは無かった。
実はつい先ほど、公子から言伝を預かったとコウジの部屋を執事が訪ねたのだ。
執事の話した内容は「明日の午前は狩りに出る。衣服や銃は貸し出すので必ず来い」とのものだった。ほとんど命令だ。
公子の心境に何か変化があったのは間違い無い。だがそれがどういったものかまでは今のところは読み取れない。きっと明日、どこかのタイミングで打ち明けられるはずだ。
入念な準備を重ねて昼間のベースボールを実現させたのだ、明日の狩猟では細心の注意を払って行動しないと。
そんな風に思考を巡らせるコウジに一瞬、公子はじろっと目を向けた。コウジは慌てて顔を埋め、肉にフォークを突き刺した。
翌朝、公子はじめ公爵家の使用人10名ほどとコウジ、それになぜか魔女カイエと従者のベイルも同伴し、郊外の野山にて狩猟が開かれた。
公子が白馬に乗って朝もやの中を進む一方、コウジは黒塗りの馬車の中で魔女カイエと向かい合って揺られていた。
「驚いたな、運動に精通しておるお主が馬に乗れぬとは」
「元いた世界では一般人が馬を飼うことは滅多にありません。乗るための訓練を受けている人も少数です」
馬に乗った経験といえば、中学の修学旅行で北海道を訪れた時に乗馬体験をしたくらいだ。手綱を握って全力で駆ける、なんて怖くてとてもできない。
「ところで魔女様、狩猟なのにそのような服装でよろしいのですか?」
魔女カイエはいつもの貫頭衣とトレードマークのとんがり帽子姿だ。皆ズボンとハンチング帽などで動きやすく馬に跨りやすい格好の中、魔女だけが浮いていた。
「わらわは魔族ぞ。いつでも魔族らしく振る舞う。それに乗馬は嫌いではない」
ふっふと不敵に笑う。可愛らしくも不気味さも漂う、まさに魔女らしい振る舞いだった。
そうこうしている間に、一行は目的地に到着した。
広大な野原の間を小川が幾筋か流れ、所々に針葉樹林の塊が見える。山の斜面が迫り緑の中に巨岩も顔をのぞかせている。
カルスト地形だろう。もしかしたらこの地下には鍾乳洞もあるかもしれない。
ベイルの乗っていた大型の馬車には荷物も積まれていた。そこから降ろされた革製のケースを使用人が開けると、立派な猟銃が収められていた。
ぴかぴかに磨かれ黒光りする銃身。その美しさにコウジは目を奪われ、元の世界でミリタリー好きがなぜあんなに多いのか、少しわかった気がした。
「この辺りには鹿が出ます。それを馬で追いかけながら撃つのです」
ベイルが馬に鞍を取りつけながら説明する。片側だけに鐙が付いた不思議な形だ。
「コウジ殿」
魔女がコウジの隣に立ち、ささやかに声をかけた。
「鹿を追うのに馬が無くては辛かろう、お主はわらわの背に座れ」
「へ?」
思わず声が漏れてしまった。
「そうですな、マレビト殿の世界では乗馬はあまり親しまれておりませんようで」
馬に跨ったまま猟銃を背負う公子もにやついていた。
「ですが、大丈夫でしょうか?」
コウジはちらりと馬の顔を見る。静かに鼻息を吐き出しながら、太い首を上下させる精悍な顔つき。凛とした風格とともに、恐ろしさもあった。
それにいくら200歳の長命とはいえ見た目子供のカイエに頼るのはさすがに気が引けた。
「案ずるな。ほれ、ベイル」
魔女がふっと両手を広げると、巨人の従者はその脇に手を添えて軽々と馬の背に座らせた。
跨るのではなく横座り。馬の片方に二本の足を出すこの乗り方をサイドサドル方式と呼び、ドレスを着た貴婦人の間で使用されたという。
「魔女はこうやって馬に乗るものぞ」
ああ、だから奇妙な鞍の形だったのか。コウジは納得した。
「さあ、銃を背負いなされ」
公子の指示で執事が銃をコウジにすっと渡す。
生まれて初めて触る本物の銃だ。コウジはごくっと唾をのみ、銃身をそっとつかんだ。
ずしりとした重みが肩にまで伝わる。鉄製だからというだけでなく、まるで霊が宿っているかのような重みまでコウジは感じ取った。
執事から扱い方を説明してもらい、ようやく銃を背負う。そしてベイルの手を借りて魔女の背中側に座らせてもらい、鞍に付いていた取っ手をがっしと握りしめた。
「準備はよろしいようだな。よし、では行こう!」
公子が先を進み、魔女がそれに続く。急な発進と揺れにコウジは振り落とされまいとしがみつくので必死だった。
「この辺りはシカがよく現れる」
公子が馬の足を緩めたため、後ろにいた魔女もスピードを落とす。
激しい揺れに耐えていたコウジも周囲を確認できるほどに余裕ができた。
野原の中を水音美しい小川がすぐ足元を流れ、その反対側には森が迫っていた。周囲には人間程度なら身を隠せる巨岩も転がっている。
「少し馬を休ませよう」
公子は馬から降りた。コウジと魔女も続くが、ずっと必死で全身に力を入れて続けていたコウジは既にへとへとで、地面に足を着けるなり尻もちをついてしまった。
「情けないのぅ」
魔女がぷっと吹き出すも、公子は何を考えているのかうかがい知れない表情のまま背中の銃を持ち替えていた。
「マレビト殿は銃を使うのも初めてかな?」
不意に公子が尋ねる。
「はい、私の住んでいた国では銃を持つことは警察……治安維持の職務に就く者しか持てませんでした。所持にも特別な許可が必要で」
コウジは息を荒げながらも丁寧に答えた。
大学時代にアメリカまで行って実弾発射してきたと自慢していたゲーム好きの友人がいたが、まさか自分まで弾を撃つことになるとは。
「どのようなスポーツも詳しいと思っていたが、そうではないのだな」
「スポーツとは地域や文化によって何が流行るかは大きく違います。逆に日常的に乗馬や射撃に親しむ国もありますよ」
コウジがゆっくりと立ち上がった。公子はそんなコウジに顔を向けず、銃口を覗き込むなどして入念に銃をチェックしていた。
「まあよい。マレビト殿……いや、コウジ。ここならば銃声が鳴っても不自然ではない」
公子の口調が変わり、コウジの直感が告げた。
本題が始まった。
直後、公子はコウジに銃口を向け、引き金に手を添えた。
コウジの心臓は大きく跳ね上がった。
黒い小さな穴。だがそれは確実にコウジを絶命させるだけの弾丸を放つことができる。
「皆と結託して私を嵌めただろう。公爵家の長男である私に対し、失礼だとは思わんかね?」
公子は努めて淡々と話すが、その目には怒りがこもっていた。
饒舌な魔女カイエも言葉を失い、じっと公子を睨みつけている。
「その件に関してはその通りです。私たちは是非公子とベースボールを楽しみたいと思っておりましたが、食事中に誘ったとしても公子は首を縦に振ってくださらないでしょう」
脈打つ心臓を握りしめるようなつもりで、コウジは堂々と返した。
公子はにやりと笑う。
「あっさりと認めるのだな。父の留守を狙い、母上にバレンティナ殿まで巻き込んでおいて。あの獣人の娘にでも根回しさせたのか?」
「うむ、ナコマと、それからわらわもじゃ」
魔女カイエが割り込んだ。さすがは魔女、何度も死線を潜り抜けてきたのだろう、こんな状況でも眉一つ震わせていない。
「魔女様まで、前々から思っておりましたが、本当にあなたは人が悪い」
公子は呆れるように言い放つ。そして改めて引き金に手を当て直し、片目を瞑ってコウジに狙いを定めた。
「コウジ、問おう。なぜそなたはそこまでスポーツを勧める? いくら父に頼まれたからにしても、そこまで献身的に取り組む必要は無かろう。普及しようがしなかろうが、そなたに直接得になることは無い。やがて私に代替わりした時、私は領民にスポーツを規制するかもしれないのだぞ?」
「単純な答えです。スポーツは楽しいからです」
間髪入れず、コウジは答えた。
しばらくの間、三人には無言の時間が流れていた。せせらぎの水が岩を打つ音が妙に大きく聞こえる。
「……ほう」
公子がようやく返す。そしてすぐさまコウジは続けた。
「損得はありません。スポーツをする側も見る側も、根本的には楽しさのために没頭するのです。小さな子供がかけっこをするのも、大人がフットボールで身体をぶつけ合うのも、本質的には変わらないのです。楽しみたいという根源的な欲求が、人をスポーツに駆り立てるのです」
ここまで言い終わり、さらに静かな時間が流れる。
ほんの一瞬だったかもしれないし、もしかしたら一時間以上経っていたのかもしれない。
ついに公子がにやっと笑ったかと思うと、引き金をほんの少しだけ引いた。
「バレンティナ殿も同じことを言っておられたな。そうか、楽しいから……か」
そう言い放ち、公子は銃口を空に向けた。そして引き金を引き、撃鉄を起こす。
銃口から閃光が放たれ、ズドンという轟音とともに弾丸が飛び出す。木々の間から鳥が一斉に飛び立ち、周囲はたちまち喧騒に包まれた。




