第十章 さあベースボールをしよう! その4
「それではいきますよ公子。手加減はしませんよ」
「ふん、私を誰だと思っている。女子の投げる球など簡単に打ち返してやろう」
マウンドのユキに対峙し、バットを構える公子。女だからと舐めきっているのが誰にでもわかる目だった。
ユキは鋭い眼光でコウジの構えたグローブに狙いを澄まし、投球に移った。
空を切るような腕の振り、地面すれすれの低さまで腕を回してテコの原理で勢い付いたボールをそのまま放す。
えぐり込むような鋭い投球だった。
バットを構えた公子の目の前をまばたきしている間も無いほど一瞬で通り抜け、バシンと乾いた音を立ててコウジのグローブに収まる。
「な……!?」
何が起こったのかわからない。そう言いたげな顔で公子は驚愕した。
日本代表の剛速球だ。ソフトボールはマウンドが野球よりも近く、世界レベルの投手の投球ともなれば体感速度は野球に換算して160キロを超えるとも言われている。ユキも4年のブランクがあるとはいえ、かつて日本ジュニアを牽引した実力は健在だった。
だがこれで怖気づく公子ではない。二球目を狙うべく腰を低く落としてバットを構えなおす。
ユキの二球目もこれまた言葉通り手加減の無い剛速球だ。ただコースはど真ん中、打ちやすい場所に甘く入る。
「ふん!」
公子はテニスで鍛えた動体視力でバットの先をボールに当てた。だが少しばかりずれてしまったのか、ボールはそのまま高く打ち上がり、キャッチャーのコウジがそのまま捕球する。キャッチャーフライ、アウトだった。
「公子、アウト! 惜しいですね、もう少し当たりが良ければ出塁できましたのに」
「あのユキとかいう女に花を持たせただけだ。少し手加減し過ぎたようだ、次は私も本気になろう」
公子はぶすっと口を尖らせていたものの、その顔はどこか爽やかだった。
そしてちょうどスリーアウト、攻守交替だ。
「うまくいったわね!」
選手が守備位置を離れる最中、一塁を守っていたマトカがコウジにそっと耳打ちした。
「うん、公子は負けず嫌いだから、一度引き込めばなんとかなると思ったけど、まさにその通りだったよ。ユキがグローブを持っていたおかげでキャッチャーも安心して補球できるしね」
ユキはこの世界に飛ばされた時は部活帰りだった。制服姿で異世界にやって来た彼女が異世界に持ち込んだのはスポーツバッグにはソフトボール用のグローブとユニフォームが入っていた。
コウジよりも長身の彼女は手も大きく、そのグローブは大人の男でも十分に使用できるサイズだ。グローブを借りたコウジはこの試合では両チーム共通のキャッチャーとして、打席には立たず守備と投手のリードに徹する。
ベースボールを行うに当たり、最も気を配った点は道具だった。何せ野球やソフトボールはバット、ボール、グローブと多くの道具が必要だ。おまけにルールが複雑で、実行にも複数の人間が必要となればかなりの準備が必要だ。
ボールは皮製のテニスボールで代用している。元の世界よりもやや大きめでソフトボールとあまり変わらない大きさのため、投手のユキも違和感なく使用できた。投手のフォームにはいろいろと規定があるが、日本人以外全員初心者なのでそこは各々投げやすい方法で、と任せることにした。いちいち細かい点にまで目くじら立てる必要も無いという判断だ。
バットは公爵家の使用人に頼み、木材を削って作ってもらった。城の補修を任されている使用人だったので磨かれたバットは想像以上に出来の良いものだった。まだ一本しかできていないが、もう二本目も制作を始めているらしい。
問題はグローブだ。ユキが元の世界から持ってきた物はあるが、複雑な皮革の組み合わせにそう短時間で作られるものではない。よって今回はキャッチャーのコウジがそのグローブを使い、他全員は厚手の手袋で代用した。ボールに弾性力が乏しく、打球にも威力は生まれないのが幸いしやりづらさは無いようだ。
攻守交替で守備についていた選手たちが立ち去る。代わりにマウンドに立ったのは大学に通う人間の学生だった。彼はサッカー教室でも初心者とは思えないプレーを披露し、村の若者たちを驚かせた逸材だ。
「一番打者は私よ!」
マトカが元気にバットをスイングしながら打席に立つ。その度に短い赤髪がなびいて陽の光を反射する。
投手は見様見真似でユキのフォームを繰り出し、力強くボールを放り投げた。ぎこちないものの球のスピードは結構ある。
だが初心者同士ならば打者の方が有利なのがベースボールの特徴。マトカは持ち前の運動センスを発揮し、きれいなフォームでバットを振る。中心に上手く当てた打球は内野陣の頭を超え、センター前で落球した。
「いよーし、今のうちに走るわ!」
センターがもたついている間にマトカは一塁を回り、さらに二塁まで踏んでそこで止まった。
「お主、本当に初心者か?」
二塁の守備についていた魔女カイエが目を点にしてマトカに尋ねた。マトカはふふんと笑い、自分を指差す。
「ええ、ただの伯爵領競技会の女子チャンピオンですよ」
そのマトカをショートを守っていた公子は横目で見ていた。
「次は私ですね」
二番手のナコマが打席に入る。この子も運動センスは折り紙付きだ、バットを握る姿も様になっている。
彼女の可愛らしい外見に油断したのか、投手の学生が投げたボールは力が無く非常に打ちやすいものだった。
遠慮という言葉を知らないのか、ナコマはそれに全体重をかけてバットを振った。
打球は地面を高速で転がり、投手の脇を芝の葉をまき散らしながらすり抜ける。
だがそこに立ちはだかったのは公子だった。ショートの位置から横っ飛びで地面に倒れた公子は地面に身体の側面をぶつけた。だが伸ばした手には見事ボールが捕まれ、外野に転がり出るところを防いだのだった。
最も慌てたのはマトカだった。安打を確信して既に二塁を飛び出したのに、予想外の捕球。急いで回れ右するも、公子が腕を伸ばして背中からタッチしアウトを取られる。
直後、公子は素早く起き上がり、流れるような動きで一塁を守るベイルに送球した。不安定な体勢にも関わらず、ボールは的確にベイルの胸元へと飛び、彼は危なげなくキャッチする。
その直後ナコマが一塁を踏んだが、既にボールはベイルに握られていた。ツーアウトだ。
「公子、さすがです! プロ顔負けのファインプレーですよ!」
キャッチャーのコウジが拍手をすると、周りの守備陣全員がわっと沸き立つ。
「この程度造作も無い。早く次の攻撃に移って点を取るためには一人でも出塁を減らさないとな」
身体に付いた草を払っていた公子は顔をやや赤く染めながらも、落ち着いた口調で言い放った。
その後試合はさらに進み、公子の二度目の打席が訪れる。
投手ユキ率いるチームは4点、公子の属するチームは3点と点差は1。既に前の打席で出塁しているベイルが一塁を踏んでいた。
ここで一発当たれば勝ち越しも可能だ。
「いくら公子様と言えど、手加減はいたしませんよ」
「当り前だ、全力で来い。私が打ち返してやろう!」
にやりと笑うユキに、真剣そのものの公子。ユキは例の地面スレスレの投球フォームから自慢の剛速球を放つ。
公子の翻したバットがまっすぐボールをとらえたかと思うと、途中ふっとボールが威力を失い急に失速、落下する。
本塁の上で跳ね返るボールのはるか上を通り過ぎる公子のバット。思いもよらぬ球の変化に、公子は完全に目を奪われていた。
「な、今のは一体? 小細工でもしたか!」
「いいえ、今のは変化球です。ボールの握り方を変えれば、あのような投球も可能です」
コウジが淡々と説明した。
野球の世界に変化球が登場したのは1870年頃のニューヨークだ。後にプロ選手となる投手キャンディ・カミングスがクラブチーム同士での試合でカーブを投げたのが最初と言われている。
圧倒的な投球術を見せつけられて、普通の人ならば愕然とするだろう。
だが公子は違った。生来の負けず嫌いだ、これでさらに発奮し、力強くバットを振る。
「ふん、手の内がわかればどうということは無い。今度その球が来たときは見送れば良いだけの話だ」
理解の早さにコウジは驚いた。運動神経もだが、的確な判断力も備えている表れだ。
ユキの二球目はこれまた日本代表を勝ち取った剛速球だった。
だがこの数回の投球で、公子はその動きをつかんでいた。打ちやすいコースに入ってきたことに目を光らせ、渾身のバットを振り下ろす。
ボールはぐんぐんと空高く上がり、やがて目にも入らぬ小さな点になった。最後には古城の壁にぶつかって力無く跳ね返ったのだった。
「打った、打ったぞ! ほら見ろ、私にできぬ競技など無いのだ!」
子供のようにはしゃぎながらベースを回る公子。周りも盛大な拍手を贈る。
「公子様、そんなにお喜びで。お聞きした通り、本当にスポーツがお好きなのですね」
一周した後に迎えたバレンティナが声をかけた。そこでようやくはっと我に返り、公子はおほんと咳払いした。
「決して好きなどではない。このような球技、私には少々簡単すぎる」
バレンティナは上品に笑う。公子は顔をさらに赤らめた。
そんな二人の様子を見ながら、コウジはマウンドのユキにサインを送った。
ありがとう。その意図を読み取り、ユキは親指を立てて返した。




