第十章 さあベースボールをしよう! その3
「次はわらわじゃの」
ベイルの後に打席に入ったのは魔女カイエ。
「随分ストライクゾーンが低いけど、まあどうってこと無いわ」
ボールを握りしめた女の子、マレビトのユキがぼそっと呟く。だがそれは魔女の地獄耳はしっかりと聞き取っていたようだ。
「待て待て、それはわらわがチビであると、お主はそう言いたいのか?」
うっと黙り込むユキ。こんな見た目でも一応は200歳超の人生の大先輩だ、下手なことは言えない。
「ふふん、小さいからと侮っておると恐ろしい目に遭うぞ。何せわらわは魔族なのでな」
そう言いながらしたり顔で棒、つまりはバットを振るカイエ。だが彼女にとっては重すぎるのか、どうも動きがぎこちない。
そしてユキは今まで以上に加減し、慎重にボールを投げる。やや低め、アウトコースを狙って。
ぐんぐんと投球が打席に近付き、今まさに魔女の目前を通過する。瞬間、魔女は片手を上げた。
「止まれ!」
キャッチャーのコウジには一瞬、空間が歪んだように見えた。空間の歪みがボールを包み、そして驚いたことに投球は空中でぴたりと止まった。
前進も落下もせず、ただ空間に浮かぶ。透明の台にでも置かれているようだ。
「もらった!」
その動かなくなったボールに狙いを澄まし、魔女はバットを振った。
ボールは三遊間を抜け、レフト手前まで転がる。
「おいおい、今のは反則でしょ!」
走り出そうとしてバットを落としたカイエの背中を掴み、コウジは抗議した。投手のユキは腹を抱えて笑っている。
「いいや、ルールブックに試合中魔法を使ってはならないとは書いていなかったぞ。というわけでこれはまっとうな作戦の一種じゃ。むしろお主が今わらわをつかんでいることが、走塁妨害に該当するのではないか?」
この魔女、ルールブックを読み込んでいる。競技の最中には一切魔法を使ってはならない、と明記しなければ。
送球する面々もこの頭脳プレーには失笑し、打順を終え椅子に座っている公爵夫人も口を押さえて笑っている。
そうこうしている間にカイエは一塁を踏み、ボールが投手に返される。
「ふふん、伊達に200年生きておらんわ」
「200年も生きて覚えたことがズルだなんて、嘆かわしい!」
いつの間にか後ろに立っていたベイルに頭を手で押さえられ、魔女は「むぎゅ」と声を漏らした。
「何をされているのです!」
庭を貫く鋭い声に、選手たちは笑い声を止め、声の主に目を移した。
芝を踏み荒らすように乱暴な足取りで城から近づくデイリー公子。そのこめかみには青筋も浮かんでいた。
「あらデイリー、お前も来たのですね」
「お母様、こんな所で平民と混ざって何をされているのですか? 怪我されてからでは遅いのですよ!」
公子は公爵夫人に詰め寄ったが、さすがは領民の母、怒りの相を浮かべた屈強な息子を前にしても表情ひとつ崩さなかった。
「ええ、コウジ殿が元の世界で人気だったスポーツがあるから、その楽しさをみんなで分かち合って欲しいと。道具も公爵家の使用人に命じて作らせたのですよ」
「この競技はベースボールと呼ぶそうです」
執事も割り込む。しかし公子が一瞬睨みつけると、彼はおずおずと引き下がってしまった。
「まったく、話にもなりませんな。コウジ殿、母上を丸め込もうと思っても無駄ですよ。私は決して父のようなスポーツ振興に賛成はしません。私が領主となった暁には、競技場もすべて閉鎖しましょう。それにバレンティナ殿まで巻き込んで、怪我でもされたら責任はどう取るおつもりですか?」
「いいえデイリー公子、私は自らこのベースボールに参加したいとコウジ殿にお頼みしたのです」
毅然とした口調と態度。伯爵令嬢バレンティナの見たこと無き姿に、公子は驚いて怒りの相も吹き飛んでしまった。
「そんなバレンティナ様、スポーツは危険です。怪我の恐れもあれば賭博に使われる可能性もあります。特にあなたのような麗しきお方、いつ賊に襲われるかわかったものではありません。無闇に知らぬ者と関りを持ったり外を出歩くのは心配です」
おずおずと話す公子の姿はコウジには新鮮だった。やはりこの公子はバレンティナの前ではすっかり変わってしまう。
「スポーツの中で多少の怪我は覚悟の上です。もし私がベースボールの最中にボールをぶつけられても私はその相手を決して恨まないでしょう。それに……」
バレンティナが息を吸った。そして改めて公子を向き直る。
「スポーツには怪我や疲労を分かった上でも、自分もやってみたいと思う魅力があるのではないでしょうか? 私は幼き頃より剣術を仕込まれてきましたが、それは決して貴族のたしなみとか自己の防衛だけでなく、剣を振ること自体を楽しく感じております。公子もいかがです?」
そう言ってバレンティナはバットを公子に差し出した。
「噂で聞くに公子は文武に優れたお方であると。多才な公子のお姿、私は是非見とうございます」
公子は固まっていた。返事さえもできない。そんな公子にバレンティナはじっと微笑みを向けていた。
十秒ほど経っただろうか、ずっと黙り込んでいた公子はなんともばつが悪そうな表情を浮かべ、渋々バットを受け取った。
「バレンティナ殿に頭を下げられてはお断りすることはできません。なあに、この棒でボールを打って、ボールが帰って来るまでにあれらの板を回れば良いのでしょう。単純なスポーツです」
「おやお前、初めて見るのに随分と詳しいのですね」
公爵夫人の一言に、公子は顔を赤くした。




