第十章 さあベースボールをしよう! その2
「なんだこれ……?」
揺られる列車の中、コウジが袋から取り出したパンはべとべとの蜜に濡れていた。
「濃厚蜂蜜パンじゃないの。パンの中と外に蜂蜜を大量に塗り込んだ贅沢なパンよ。クマの獣人はみーんな大好物なのよ」
マトカがゴマのパンにかぶりつきながら説明する。一口噛む度に表面からゴマがパラパラと崩れ落ち、列車の床にまかれていた。
先ほどユキに勘違いされたと思って慌ててすぐ側に置いてあったパンを取って購入したのが、よりにもよってこんなパンだとは。
いくら甘党でもこんな柔らかいパンをそのまま蜂蜜に一晩漬けこんだような代物は食べられないだろう。歯も溶けそうだ。
今までは人間の貴族に厄介になっていたので食事も人間の口に合ったものばかりだったが、そういえばこの世界には様々な種族が暮らしているのだ。種族ごとに好みの味が違っていてもおかしくは無い。
「そういえば最近は鬼族向けの食べ物も売られなくなったなぁ」
マトカの隣で鬼族の青年が中空を見上げながら口にした。足元には昨日町の人間からもらったラケットが置かれている。
「そうそう、昔はたまに売りに来ていたわよね、臓物売りのおじさん。捌き立ての牛の内臓は生のままちゅるんとやるのが一番で」
「そういう話、後にしてくれない!?」
平然と繰り出されるおぞましい会話に、コウジは思わず叫んでしまった。
コウジが公爵領にやって来てから早一週間。
学生らを対象にしたサッカー教室は終わり、マラカナ村の若者たちはもう数日滞在した後に故郷に帰る。
王都から帰ってきた後、コウジはテニスのルールをまとめて公爵に提出したが、それ以外は何のルールブックもまとめていなかった。
やれやれ、これで厄介な客人もいなくなる。
デイリー公子はそう安堵の息を吐きながら、午後の古城を歩いていた。
だが外から妙な音が聞こえ、ピタリと足を止める。笑い声だ。男も女も、子供の声まで混じっている。
「……あいつらは何をやっている?」
公子が窓の外を覗くと、そこにはコウジに村の若者たち、魔女と巨人の従者、使用人に執事、サッカー教室に来ていた学生、さらには見知らぬ女の子まで、皆一様に何かの球技に打ち込んでいた。
芝生の庭に石灰で白線を引き、大きな四角形を作っている。その所々に複数の選手が立ち、特に中心に立った女の子は掌に握れる程度の大きさのボールを握りしめていた。
「絶対に打ち返してやる!」
マラカナ村から来た鬼族の青年が現れ、黒髪の女の子と向かい合って立つ。手には木製の棒が握られているが、その形状は先端ほど太くなる不思議なものだった。
そして棒を構えた青年のすぐ後ろにはあのコウジがしゃがみこんでいた。だが奇妙なことに、コウジの顔や胸には皮で作った鎧のような防具が付けられていた。さらに腕には巨大な手袋のような物をはめている。こんな道具、公子は見たことが無かった。
女の子がぐるぐると手を振り回し、ボールを下手で放り投げる。ボールは棒を持った青年の前を通り過ぎるように進むが、男はそのボールめがけて棒を振った。
しかし当たらない。空振りに終わった男は勢い余って一回転し、尻もちをついた。その間にボールはしゃがんでいたコウジが巨大な手袋を使って丁寧にキャッチし、周りの選手たちから拍手が送られる。
「ナイスボール! すごい切れのある球だ!」
「当り前よ、小3から高2まで、ずっとエースピッチャーだったんだからね!」
「くそー、今度こそ!」
鬼族の青年はムキになって棒をぶんぶんと振り回していた。だが続く2球目も完全に振り遅れ、3球目は高さが揃っていない。
「ほら三球三振、アウトだ!」
コウジに背中をボールでポンと叩かれた青年はとぼとぼとその場を後にした。しかしその後近付いてきた人物に、公爵は度肝を抜かれた。
「バ、バレンティナ殿……!?」
意気揚々と棒を受け取ったのはバレンティナだった。動きやすい飾り気の無いドレスをまとい、その細い体からは想像もできないほど素早く、かつ力強く棒を振る。
女の子がじっと見据えてボールを投げると、バレンティナは大きく体を回して全力の一撃をボールに叩き込んだ。
棒はうまくボールをとらえ、弾丸のごとく地面を転がる。
「ヒットです、急いで走ってください!」
コウジの進言にバレンティナは棒を地面に転がすとスカートの裾をつまみ、軽快に走り始めた。その間にも外側に立っていた者たちが飛んでいったボールを拾い、急いで仲間同士で投げ渡している。
バレンティナは木製の白い板を踏んだところで立ち止まり、その後近くに立っていた選手がボールを受け取ったが、コウジが「セーフ!」と叫んだので彼らは肩を落とした。
どうやらボールを投げる者と周囲に散らばっている者は同じチームだが、棒を持ってボールを打つ者は敵チームになるようだ。この短いプレーから公子はルールを推察していた。
バレンティナは白色の板を踏んだままその場に留まる。そして次に入ってきた人物に公子はさらに驚いた。
「お、お母様まで……!」
公爵夫人だった。乗馬用のロングドレスと帽子を身に付け、何度も棒を試し振りしながら相手と向かい合う。
放り投げられたボールは軽々と振るった棒に触れたものの打球に力強さは無く、すぐ近くをころころと転がっていった。
すぐにバレンティナと公爵夫人が駆け出し、女の子が足元のボールを拾い上げる。そして女の子は背後を振り向くが、バレンティナが既に二枚目の白い板を踏んでいるのを目にするとすぐに狙いを変えた。
先ほどまでバレンティナの立っていた板を目指し走る公爵夫人。女の子はその板の上に立つ選手に向けてぽいっとボールを放り投げた。ボールは簡単に選手の手に収まる。
「アウト! アウトですがバレンティナ様を進められたので得点のチャンスが高まりましたよ!」
「あら本当に? それは嬉しいわ。次の方には頑張ってもらわないと」
子供のように屈託ない笑顔を見せる母に、公子はたじろいでいた。
あんな母の顔、ここ数年ずっと見ていなかった。いつからだろう、お母様があのように喜ばなくなったのは。
母と入れ違いで棒を拾い上げたのは巨人族の男だった。魔女カイエの従者、ベイルだ。
ベイルは太い腕を見せつけ、棒を握ってどっしりと構える。その目は普段見せないほど鋭く、温厚な彼も本来は勇猛な巨人族であることを周囲に教えていた。
女の子はゆっくりとボールを握ったのち、これまでに無く高速で腕を振り回す。そして下手だというのに恐ろしいまでの速さで球を投げたのだった。
だがベイルはその球を見切った。太く長い腕のおかげでまるで短剣のようにしか見えない棒を振り下ろし、ボールの芯をとらえる。
城を攻める投石器のように放射線を描いて選手たちの頭上はるか高くを打球は飛び越えた。そして公子自身が立っていたガラス窓のすぐ近くの壁にぶつかり、ドンと大きな音を立てて下に落ちる。
「ホームランだ! やったねベイルさん、一気に2点だよ!」
「すごい、あのボール全然弾まないのに……地球ならメジャーリーグでも通用するんじゃない?」
拍手を繰り出す面々の間を頭を掻きながら照れくさそうに走るベイル。バレンティナは3枚目、4枚目と白い板を踏んでフィールドを一周する形で元の場所に戻った。そして遅れてベイルも同じ板を踏みながら一周して戻る。
公子は黙り込んでいた。そしてこの場に居ても立ってもいられなくなり、つかつかと廊下を進んだ。




