第十章 さあベースボールをしよう! その1
「あら魔女様、いらっしゃいませ!」
翌朝、午前から公爵領へと帰る一行は魔術師ベイソンの家、もといその一階のパン屋に来ていた。今は村の若者も一緒だ。
「ああ、今日はもう帰るでの。列車の中で食べるためのパンを買いに来たのじゃ」
カイエに続いてマトカ達がわっと店内に流れ込んだ。
「見なさいよ、バゲットとか食パン以外にもたくさん売ってるわよ! このゴマをまぶしたパンとか、美味しそうじゃない! さすが王都ね」
「村じゃあこんなパン見ねえもんな。おい、贅沢にもチョコを練り込んだパンまであるぞ!」
「わらわのおごりじゃ、皆好きなものを選ぶがよい。そしてわらわを尊べ」
「こら、そういう冗談はよしなさい! あ、皆さんはお好きなパンを選んでくださいね」
店内もにわかに騒がしくなる。だがコウジはどうしても気になることがあった。
やっぱりあの娘、どこかで見たことがあるなぁ。
せっせとパンを並べている女の子。エプロンを着て仕事に打ち込むものの、三角巾の端からこぼれる黒い髪は妙な懐かしさがあった。
「どうなさいました? 私の顔に何かついています?」
気が付けば女の子の方から声をかけられていた。どうやら考え込み過ぎてじっと見入ってしまっていたらしい。
「いや、何でも……」
「コウジー、あなたもパン決めた?」
マトカが焼き立てほかほかのゴマのパンを片手に、ホクホク顔で店を出る。
「コウジ?」
女の子がぼそっと呟いた。
やばい、変態だと思われた上に名前まで覚えられたら。コウジはそこらの棚から適当にパンを選び、購入してすぐに店を出た。
「お邪魔しましたー!」
既に先を行く一行を追いかけ、大通りをダッシュで駆ける。
「ちょっと待って!」
だがその足は呼び声に止められた。振り返るとパン屋の女の子が外に出て、手をこちらに伸ばしていたのだった。
「あなた、コウジって名前、もしかして日本人?」
衝撃的な単語だった。村の若者たちも立ち止まり、こちらを振り返る。
「まさか……マレビト?」
女の子は頷いた。
「4年前に現れたマレビトが王都にいるとは聞いていたが、まさか行きつけのパン屋で働いていたとはの」
魔女カイエが紅茶をすすった後に深く息を吐いた。
大通りに面したカフェの一角。コウジたちとパン屋の娘はテラスに並べた机を囲んでいた。
パン屋の女主人に事情を話したら、快くOKをもらい、女の子は何度も頭を下げた。
「私は榎本ユキ。ここに来たときはまだ高校生だったの」
女の子が話した。人混みの中でもよく通るきりっとした声だ。
「榎本……まさか、あの榎本ユキ……さん!?」
「なんじゃ、知り合いか?」
突然慌て出したコウジに周囲の仲間が目を向ける。
「いや、ソフトボールジュニア世代日本代表のエースピッチャーとしてすごく有名だったんだ! 将来は日本代表も確実って。確かにばったり名前を聞かなくなったけど、まさかこんな所にいたなんて!」
「随分詳しいのね」
マトカがじっと目を細めて鋭く言い放った。
一気にベラベラとしゃべってしまい、はっと我に返る。急に恥ずかしくなってきたので熱い紅茶で顔を隠した。
「ええ、学校から帰る途中、突然光に包まれた気がして、目覚めたらここに来ていたの。でも……」
マレビトの女の子、ユキの目がじわっと潤んだ。そして両手で顔を押さえる。
「電気もガスも無いこの世界では私は無力だった。ずっとソフトボールだけやってきてそれで生きていこうと思っていたのに、ここにはそんなものは無い……本当に、辛かった」
肩を震わせる女の子。コウジはユキの苦労が痛いほどわかった。
自分はあそこで幸運にも伯爵家に拾われ、さらに自分の知識を活かす役割も与えられた。
だがユキは当時、ただの高校生だった。いくらスポーツが得意とはいえ、現代の暮らしに慣れた女の子一人だけがこんな未知の世界に飛ばされて心細かっただろう。
「ソフトボールって何だ?」
空気を読まず、鬼族の青年はコウジに尋ねた。
「僕たちの元いた日本ていう国では、誰もが知っている人気スポーツだよ」
正確にはそれは野球なのだが、起源は同じなのでここではまとめてベースボールとして解説する。
ベースボールもフットボールと同じく、古くからヨーロッパ各地に元となる競技は存在していた。18世紀の文献には既にbase ballという単語が登場しており、それは移民とともにアメリカ大陸にも持ち込まれる。
そして1845年、ニューヨークの消防団によってそれまで地域ごとに異なっていたベースボールのルールが統一され、それが後に野球やソフトボールの原型となる。その後このベースボールは幸か不幸か南北戦争によって南部にも広がり、やがて全米で知られるようになった。
その後人気の高まりによってプロ化され、現在メジャーリーグベースボールを構成するナショナルリーグは1876年、アメリカンリーグは1900年に設立された。
日本では1871年にアメリカ人教師が持ち込んで各地の学校で急速に広まることとなった。プロ野球リーグの設立は1936年で、それまでは旧制高校や大学を中心に盛り上がっていたという。
そしてソフトボールは1887年、厳冬のシカゴにおいて室内でも野球の練習ができるよう考案されたのが起源で、当時はインドア・ベースボールと呼ばれていた。1926年にソフトボールという呼称が定められ、安全性とレクリエーション性の高さから全米に普及したという。
「投げた球を棒で打ち返して、それから走る? よくわからねえなぁ、それって本当におもしろいのか?」
ベースボールのルールは複雑だ。東アジアや北中米では圧倒的な人気を誇る競技だが、その複雑さと道具をそろえる必要があるために、特に発展途上国では普及が難しい。この点はいつでもどこでもボール一個で事足りるサッカーとは正反対だ。
「ええ、おもしろいわ!」
机を強く叩いたユキの目は輝いていた。つい今の今までむせび泣いていたのに。
「そうかぁ、この世界にはソフトボールや野球は無いのか……そうだ!」
コウジがカップを強く置く。また何か思いついたんだなと、一行はお約束のように尋ねた。
「どうしたんだよ、コウジ?」
「まったく新しい異世界のスポーツということで、みんなにベースボールを教え込めばいいんだ!」




