第九章 都会の日々 その2
「うん、随分と内容が少ないな?」
夕食後恒例の談話にて、手渡された本をぺらぺらとめくって公爵は首を傾げた。
コウジの仕上げた器械体操のルールブックは非常に簡素なものだった。体操器具の名称とサイズ、その基本的な使い方。そしていくつかの演技の説明。
それだけだった。競技としての採点方法などは何も書かれていない。
「はい、ここから先は選手自身が技を編み出し、大会を運営するべきだと考えております」
コウジは背筋を伸ばしたまま言い切った。
元の地球でもそうだ、体操だけでなくあらゆるスポーツが時代の移り変わりに応じて発展し、普及していった。
この世界でも同様、きっかけがあればあとは皆が必要に応じてルールを改める。そうやってこの世界の実情に応じた競技へと発展していくはずだ。
公爵はうーんと考え込んだものの、やはり専用の器具を使っての運動には興味を示したようだ。昼間ナコマが複数の使用人に一部の技を教え、随分と評判だったことも耳に入っているらしい。
「まあよいだろう。やってみれば意外とおもしろいかもしれないからな。ところで明日は王都に行くのだったかね? 私の親戚が住んでいるので、そこに泊めてもらえるよう使いの者を出しておこうか?」
「いえ、お気遣い無く。マラカナ村のみんなと同じ宿に泊まろうと思います」
「そうだな、村の皆と楽しく過ごすに超したことは無いな」
公爵は少し寂しそうな目で笑った。
「私も明日、知り合いを訪ねに我が主とともに王都に行きますよ」
ウイスキーを飲んでいたベイルも加わる。田舎の伯爵領に住む魔女カイエも意外と顔は広いようだ。
「ほう、せっかくの客人がこんなに。明日はこの城も寂しくなるな」
「なあに、いつものことではありませんか。それに厳かなこの城には静寂が似合います」
礼によって例の如く、公子の一言で場が凍り付く。
皆の視線を集めながらも、公子はおかまいなしに琥珀色のウイスキーを流し込む。
「デイリー、お前だってわかっているだろう。領主の務めは領民の生活を守るだけではない。それに街に活気をもたらせばそれはやがてこの領地をさらに良いものになる」
公爵は深くため息を吐くと諭すように息子に語り掛ける。だがその口調には一種の諦観も含まれていた。
そして息子は大方の予想通り、表情一つ変えず淡々と答えた。
「父上、それは興行としてスポーツの大会を開くということでしょうか? さすれば金は集まりましょう。ですがそれで何もかもを失う者もいることをお忘れなく」
「公子、私の元いた世界でもスポーツ賭博に関する問題はありました」
突如口をはさんできたコウジに、公子の眉はぴくっと動いた。
「ゆえに統治者は賭博を禁止したりまたは手段を制限するなどして対応していました。そのおかげで……」
「そんなものができるのなら既にやっている!」
強い語気で公子が言い放ち、コウジはつい黙り込んでしまった。
グラスを片手に公子は不良が喧嘩を売るかのようにコウジの顔を覗き込み、目をじっと見据える。
「フットボールを禁じていた時代であっても領民は隠れてフットボールをしていたほどだ。何もかも規制すればすべて解決できるわけではない。そもそも法で規制されたからと言って、元の世界ではそういった問題は何ひとつ起こらなかったかね?」
コウジは何も答えられなかった。現代の日本でも競馬、違法なスポーツ賭博で破産する人はごまんといる。
「そうだろう、いつの時代でもどこの世界でも、法の目をかいくぐってでも領民は易きに流れるのだ。それが統治者としての心構えだ」
公子はグラスに残った酒を喉に一気に流し込むと、カンと強く音を立てて机に置いた。そして乱暴に立ち上がると、つかつかと食堂を後にした。
「明日は朝からトンネル工事の視察です。早いので私は先にお休みさせていただきます」
「本当、あの公子がお相手じゃバレンティナ様も可哀想だよ」
ナイトガウン姿のコウジがベッドに腰かけて呟く。
「お食事中はそんな素振りをまったくお見せにならないのに。バレンティナ様の前だけでは紳士だなんて、本当に困ったお方です」
コウジの隣にちょこんと座り込んでいたナコマも自分の髪の毛を櫛でとかしながら答えた。
「まるで聞く耳持たないというか、完全に何言ってもダメだなあれじゃあ。代替わりしたらスポーツそのものを禁じてしまうんじゃないかな?」
「ですがコウジ様、私はどうもあのお方がスポーツをお嫌いだとは思えないのです」
ナコマの思わぬ発言にコウジは驚いた。
「どうしてだい?」
「今日、外で器械体操をしていた時なのですが、ふと城を見てみると、窓から公子様がこちらを微笑みながら見ておられたのですよ」
公子が器械体操をしているナコマ達を?
想像ができない。あの公子が微笑むなんてバレンティナの前くらいだ。
「まさか? バレンティナ様が外を歩いておられたんじゃないか?」
「あのお時間、バレンティナ様は奥方様と室内でお茶をされていたそうですよ。それに周りには私たち以外誰もいませんでした」
そうなるとやっぱりナコマ達を見ていたのか?
本当に実はスポーツが好きなのか。それとも他に理由が?
「まさか……ロリコン?」
「ろりこん? コウジ様の世界の言葉ですか?」
思ったことがつい口に出てしまっていた。ぶっと噴き出したコウジは慌てて手を振った。
「違う違う! 今の言葉はすぐ忘れて!」
そしてふたりは二日続けて同じベッドに並んで眠った。
朝、目を覚ますと案の定ネグリジェを放り投げて眠るナコマを見て、コウジはそっと布団をかけた。
午前中のサッカー教室を終えた一行は昼食後、街外れの駅に向かった。
「さあ、どこに行くどこに行く?」
プラットホームで観光ガイドの本を広げる鬼族の青年。その両隣にマトカたち村の若者が集まってじっと本のページに目を向ける。
「私この店のパイが食べたい! 王都で一番人気って評判よ」
「それなら俺はこの陶磁器工房だ。母さんの誕生日プレゼントにきれいな皿を探しているんだ」
「よっ、この孝行息子! お前の母ちゃんは幸せ者だぜ!」
盛り上がる一行から少し離れたベンチで、コウジとナコマは並んで座っていた。
「私も屋敷の使用人にお土産がほしいです」
「そうだね、一緒に探してあげるよ」
ナコマが「ありがとうございます」とほほ笑むので、コウジも笑って返した。
「ねえコウジコウジ、ここにあるアンズパイかフルーツプディング、あなたならどっちがいい?」
何の前触れも無く、マトカがずんずんとコウジに近付く。例のガイドブックのページを開き、見せつけながら。
「どっちも買うのはだめなの?」
「かーっこれだからマレビトは! 砂糖は高級品よ、私たち農民がそうホイホイお菓子を買えるわけないじゃない」
目を服の袖でこすって泣くような素振りを見せるマトカ。もちろん嘘だ。
「砂糖は北の熱帯の国でしか手に入らない貴重品じゃ。高い輸出税もかかっておるし、わらわも普段は滅多に口にせん」
コウジと隣のベンチに座って魔女カイエが口をはさむ。
北の熱帯と言われると違和感があるが、この大陸はおそらく南半球にあることを考えれば適切な表現だ。
コウジに詰め寄っていたマトカはターゲットを魔女に変え、ずんずんと小さな魔女に迫る。
「魔女様、どちらがよろしいでしょう? サクサクと酸味のアンズパイか、柔らかな食感と甘味のフルーツプディング。魔女様ならどちらを選ばれます?」
「そんなもの決められぬに決まっておろう。どちらも違った魅力があり、それは決して比較できるものではない」
そんな二人のやりとりを隣に座っていたベイルが優しく微笑んで眺める。
その時、どこからともなく汽笛が聞こえ、ベンチに座っていた面々は立ち上がった。
「あ、列車です!」
ナコマは今にも走り出さんばかりだった。田園風景に白いもやを残しながら、シュッシュと近づく蒸気機関車。その汽笛の音は想像以上に大きく、コウジは両耳を押さえた。




