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第八章 令嬢と公子 その3

「……じゅるっ」


 魔女カイエの口から涎が滴り落ちる。従者のベイルが慌ててハンカチで拭くが、その視線は机の上に向けられたままだった。


 伯爵家のディナーも十分に豪華なものであったが、公爵家のそれは次元が違った。


 山盛りのサラダにこれでもかと添えられたローストビーフをはじめ、ロブスターまるまる一匹をくり抜いたグラタンや海産物がぎっしり詰まった煮凝りなど、一流ホテルでしか食べられないような料理が所狭しとひしめいている。


 何かの意匠だろうか、流木の枝先に球形の団子のような練り物が突き刺され、そのまま皿の上に置かれている。最早コウジの理解できる世界の食べ物ではなかった。


「今日はコウジ殿がおられるので、このような物も用意しましたぞ」


 公爵が言うと、使用人がスープボウルの蓋を外す。むわっと立ち上がる熱気と懐かしい香りに、コウジは足の力が抜けた。


「味噌汁です。かつて現れたマレビトが製法を伝えたのですが、大豆はニケ王国では栽培されておりません。コウジ殿の故郷では毎日のように食されている料理と聞き及んでおります」


「あ、あ、ありがとうございます!」


 コウジは何度も何度も頭を下げた。ちょうど西洋の料理ばかりで、米と味噌が恋しくなっていたところだ。どこまでいっても日本人の本質は変えられそうにない。


 全員が席に着き、公爵の挨拶もほどほどに晩餐会は催された。


「この領地は石炭が採掘されるおかげで潤っている。鉄道が敷かれた後は石炭と水の補給基地として、通過する汽車は必ずここに止まることになっているのだ」


 三杯目の味噌汁をスプーンですくうコウジに、公爵が得意げに解説する。そして儲けた金で山ひとつ越えた先の伯爵領から小麦などの食糧を買い入れ、都市の人口を養っているという。


 つまり伯爵領にとっては一番のお得意様なのだ。


「ここから鉄道を使えば王都までもすぐだ。来年には伯爵領とも鉄道でつながる計画を立てている。実際にトンネルの工事は既に始まっているのだから」


 巨人族や鬼族、モグラの獣人といった土木作業の得意な種族を動員すれば、トンネルの掘削もたいした労働にならないようだ。地球ではたとえば日本人の技術だけで最初に貫通させた逢坂山トンネルは700メートル足らずなのに着工から開通まで2年ほどかかっているのに。


「公爵のおかげです、鉄道の敷設にかかる費用の大半を負担してくださるなんて。伯爵家だけではそれほどの大事業、考えすら及びませんでした」


 肉を切ってた手を止め、バレンティナが一礼した。


「いえお気になさらず、コッホ伯爵家のおかげで我が領民は飢え死にを免れているのです。それにこの事業を進めたのは私ではありません、お褒めくださるなら我が息子デイリーをどうかお褒めください」


 公爵が隣に座る息子の肩にポンと手を置いた。


 公子はダイヤモンドを散らしたような笑顔をバレンティナを向け、バレンティナも微笑んで「ありがとうございます、デイリー公子」と返した。


「……分かりやすいですね」


 蚊の羽音のようなすごく小さな声で、ナコマがぼそりと呟く。幸い隣のコウジの耳にしかその声は届かなかったようだ。


 客人の使用人も客人という扱いなのだろうが、普段慣れない場に置かれたナコマの作法は存外正しく、優雅ささえも感じられた。ここら辺は伯爵家でのメイド教育の賜物だ。


 彼女たちは普段、コウジ達の目の前で食事をすることは無い。使用人専用の食堂で当主らとは別の料理を食べているそうだが、そのエリアは客人であるコウジには立ち入り禁止のプライベートゾーンだ。バレンティナも滅多に入らない。


 なお、その隣では魔女カイエが貪るように肉に食らいつき、口にまだ物を含んだままなのにエビのバジルソース添えをさらに放り込んでいた。


「下品ですよ、おやめください!」


 ベイルの厳しい指摘も魔女の耳には入っていないようだ。公爵家の一同はほっほっほと上品に笑うのだった。


 そういえば、何で魔女までいるんだ?




 夕食後、女性たちは応接室にて優雅な座談会に向かい、食堂には男性陣が残された。この時ばかりはナコマもコウジの元を離れバレンティナに付き従った。


「コウジ殿、例の物はお持ちかな?」


 公爵はブランデーを揺らしながら、足をむずつかせていた。


「はい、こちらに」


 コウジは懐から一冊の本を取り出した。それを受け取った執事が、公爵に手渡す。


 本をぱらりと開け、じっと読む公爵。整った顔が台無しになるほど、鼻息を荒げながら目を輝かせていた。


「素晴らしい! これぞ我が家系の目指したフットボールのあり方! 手を使わないゆえにボール奪取の容易さを生み出すことで、相手に触れてはならないというルールを自然と生み出すことができている!」


 興奮しながら本を持つ手を震わせる公爵。スポーツ好きとは聞いていたが、あまりのリアクションにコウジは若干引いていた。


 コウジが手渡したのはサッカーのルールブックだった。公爵領にサッカーを広めるにあたり、成文化したルールブックがあれば共有しやすいと発案し、この3日かけて急いで書き上げたものだ。


 当然、思いつく項目を順番に書き連ねただけの、本物のサッカーのルールブックに比べれば粗末なものであるが、最低限のルールは分かるように作ったつもりだ。


 だがそれでも、公爵に認めてもらうには十分だったようだ。


「ほら、お前も読んでみろ」


 息を荒げて息子にコウジ手製のルールブックを渡す公爵。だが公子は睨みつけるような顔をコウジに向けると、ふーんと言いながらぱらぱらとページをめくり、本を閉じたのだった。


「単純でありながら安全に配慮している。これならば皆すぐに受け入れてくれるだろう。早速明日、この城の庭園で……」


「父上、いつまで道楽に現を抜かすおつもりですか」


 空間を切り裂くような鋭い言葉に、時間が止まった。ぴたりと動かなくなった公爵が目玉だけををちらっと動かす。


 デイリー公子だった。ルールブックを机に投げるように置いた彼は、椅子にふんぞり返るような格好でグラスの酒を飲む。


「領民がフットボールを求めている? だからといってそれに迎合する父上はどうかしています。人とはタガが無ければ安易に享楽へと流れてしまうもの。それを導いて取りまとめるのが領主としての務めではありませんか。それなのに新たな競技を広めるなど、堕落を促しているようにしか思えませぬ」


「客人の前だぞ! 言ってよいことと悪いことがある!」


 公爵が立ち上がり、今にもつかみかからんと前に出る。それを執事が割り込んで必死に宥めた。


「いいえ、この際ですからはっきりと申しましょう。私は父上のやり方を好ましく思っておりません。娯楽にのめり込んだ者はやがて自滅します。父上もご存知でしょう?」


 ぐっと口を噤む公爵。顔を真っ赤にしてわなわなと震えている。


「お言葉ですが、公子」


 そんな二人のやりとりを見て、ついにコウジは口をはさんでしまった。スポーツを愛する一人として、デイリー公子の発言は聞き捨てならなかったのだ。


「スポーツは決して堕落ではありません。日々の楽しみとして、活力の源として我々を楽しませてくれます。そのために仕事に励み、皆と一緒に喜びを分かち合うのです。その魅力は……」


「それならばマレビト殿、そのスポーツのためにすべてを捧げてしまった場合、どうなる?」


 公子はコウジに貫くような眼を向けて尋ねた。


「スポーツにのめり込んだ結果、金も地位も何もかも失う者もいる。選手は怪我をすれば一生を棒に振り、観客も賭けに溺れて自ら泥沼へとはまっていく。そんな領民の姿を見たいと思う領主がいると思うか?」


 公子の指摘にコウジは返す言葉が思いつかなかった。凄まじい眼力に怖気づいてしまい、まるで石になってしまったようだった。


 公子はくすりとも笑わぬまま新たに酒を注ぎ足し飲み干すと、すっと立ち上がった。


「今晩はお暇させていただきます。あとは皆様でご歓談くだされ」


 そう言い残し食堂を去る公子の背中を、一同は何も言わず見送った。

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