チョコレート③
「魔王くんは、一体何をしたんですか」
自分から話さないのは不公平な気もするけれど、あたしのは、きっと鼻歌君が教えているはずだ。もし万が一知らないようであっても、あの火傷のように爛れて膿みそうな記憶なんて早く忘れてしまいたいので、魔王くんみたいに笑顔ではぐらかしてしまおう。……まぁ、魔王くんが知らないなんてこと、有り得ないとは思うけれど。
そんな風に、あたしはあたしの罪で舌を汚さないぞと硬く心に決めながら、まず一つ目を訊いた。
「……何を、って何のことっすか」
丁度コーラを飲もうとしたところだったようで、軽く咳き込みながら問い返してくる。……あれ、伝わらなかったかしら。あたしたちの間で何を、と問えば、もちろん犯した罪の詳細と答えが決まっていると思ったのに。それ以外で魔王くんが何かをしたような出来事もないし。ああ、彼女の一件では魔王くん、影が薄かったし、仕事をサボったと責められていると勘違いしたのかしら。だったら申し訳のないことをしたわね。
「ですから、事務所に来る前に何をしていたのか、という話ですよ」
どうもうまく伝わっていなかったようなので、周りを憚りながら声を潜め、言い直した。店員さんも奥に引っ込んだようだし、あたしたちの他にお客もいないのだけれど、むしろだからこそ、会話が無防備に辺りに響き渡ってしまいそうで、言葉の選びに神経を尖らせてしまう。
「――ああ、そういう意味っすか」
魔王くんは言い直されたあたしの質問を聞いて、うーんと唸ったきり黙りこみ、目を瞑って何かを考え始める。目を開けて、そうっすね、と話し始めた声は掠れていて、一度咳払いをしてから彼は自分の罪を教えてくれた。
「そうっすね、出所した殺人犯は、遺族に許されていると、死神ちゃんは考えるっすか。もしそうだとしたら、甘いっす。許される事なんて、一生ないっすよ。たとえ、正当防衛や事故だったとしても、遺族にとって最終的に残るのは、大切な人が殺されたという事実だけっす。とにかく僕は、憎しみを持った遺族に、加害者の情報を何でも与えるという仕事をしていたんっす。
「長い哀しみは憎しみへと変わりやすいっすが、ムショで反省の色が見えない奴とかいるんすよ。勿論、他人が冤罪で捕まっているのを良い事にのうのうと生き伸びている奴もいるっす。で、そういう事を教えて、もし遺族に住所等を求められたら金をふんだくって情報を売っていたんっす。そっすね、大体、全体の十分の一が求めてきたっすかね。……そして、僕がその最後の情報を売った相手の五分の一くらいは、憎んだ相手を殺してしまうっす。僕は、犯罪者を世に生み出した最も憎むべき悪として、警察に摘発されかけ、探偵君に助けられたんっす。これが中々儲かる商売でして。まさに止められない、止まらないって感じっしたね。某お菓子じゃないっすけど」
ずず、とコーラを啜って魔王くんは語り終えた。
ふ、と息を吐いて、初めてあたしは息を止めていたことに気がついた。
確かに魔王くんの罪は、他国に逃げても不思議じゃないくらい、罪深い。凄い、なんて言えないけれどその度胸には憧れるものがある。そんな風に人を唆せる立場にいたら、どんなに楽しいだろう。魔王というのも、お似合いの名前だな、と感じる。
魔王くんの話のせいか、あたし達の雰囲気は店のそれと共鳴して更に暗くなってしまった。あたしはこれ以上訊くのを躊躇して無言で全て食べ終え、彼が会計を済ませるのをその場で待っていた。手持無沙汰になりながら、ウェイトレスさんの名札をふと見ると、『ゆり』と書かれていて、今時下の名前を書いているのは珍しいな、と驚く。この店の不気味な雰囲気と、供花として名を馳せるゆりは、見事に合致していると思うけれど。
「では、またいずれ」
店の前で立ち話を少々した後、別れの挨拶を交わして、それぞれの帰路に着く。携帯電話を開くともう夜も遅い時間が表示されていて、辺りもそれなりに見えなかったので自然と足が急いだ。
急いだ、のだけれど、公園の前を通り過ぎようとした時、何の因果か気が変わった。魔王くんとの立ち話で公園の話題が出、懐かしくなったあたしは、ふと気が向いて公園の方へ足を向けた。魔王くんに言われた時には不満を持ったけれど、あたしを襲うような命知らずとは、そうそう出くわさないだろうし、撃退できるだろう。と、小説なら慢心して墓穴を掘りそうな考えをしつつ、道を小走りで進む。
夕闇に演出される公園は、不気味に薄暗い。街灯が寂しそうに照らしだすブランコ等の遊具が一層雰囲気を怖いものにしていき、早く帰りたいと心が泣き始めた。……幽霊とか信じているわけではないけれど、どうにも居心地が悪いわね。まぁ、昼日中の公園も、それはそれで居心地悪そうだけれど。
冬のわりに、不自然なくらい生ぬるい風がそっと頬を撫で、ぞっと鳥肌が立つのと共に周りは暗くなっていき、街灯の灯りも時々消えて、実に頼りない。切れそうになる前に電球は換えてちょうだいよと、誰かに怖さの余り無茶苦茶な文句を突きつけたくなってくる。もう自分を騙せなくなってしまい、怖すぎて立ち止まると恐怖心が増長するだけだと分かっているのに、思わず足を止めてしまった。
――ざ
……一つ、余計な足音。反射的に振りか――遅かった!
通り過ぎようとしていた砂場に横様に突き飛ばされ、砂が髪や服に付いたのが感覚で分かった。あたしを突き飛ばした犯人を見てやろうと、突き飛ばされた際に思わず瞑ってしまっていた目を開ける。パチパチと音の鳴る街灯に味方されて見えたのは、あたしも使ったの事のある、ギラリと鈍く光る刃先。
それがあたしの無防備な咽元にすっと――それ以上考えず、転がって死から逃げた。転がった勢いを利用して立ち上がり、向かってきていた相手の体のどこかに遠慮なく拳を叩き込む。
相手がよろめいた所を見逃さずに、叩き込んだ拳を下ろして相手が逃げないようしっかりと掴んだ。もう片方の手でナイフを持つ手ごと握り、両手で引き寄せ相手の鳩尾辺りとあたしの折り曲げた足を衝突させる。
勿論、その拍子にナイフが刺さらないよう、蹴りを入れる寸前に手の平が切れるのも厭わず、もぎ取っておいた。最後の止めとして、ふらついている相手に渾身の力を込めた頭突きをお見舞いしてやる。
――これで、ようやく気絶してくれた。
「……殺人犯、嘗めないでちょうだいね」
いきなりの戦闘で上がった息を整え、じんじんと痛む額を擦りつつ、決め台詞を吐いてあたしはそそくさとその場を去った。一応ナイフは回収したけれど、薄暗い中で追剥ぎ紛いなことをするのも非効率だし、一体いつ相手が目を覚ますかもわからない。蛇足になりそうな行動は、避けるべきだ。後顧の憂いを断つためにここで殺すべきかと迷ったのだけれど、何の準備もしないまま実行に移して後処理を滞りなく終わらせられるほど、あたしは直接的な殺人に慣れていない。余計なフラグは立てないに限る。
家が見えてくる時になってようやく落ち着けて、さっきの事を振り返る余裕が出来た。よく助かったな、あたし。人を殺せる覚悟で反撃できるなら、襲われてもどうにでもできると思っていたけれど、何かを考える余裕なんて持てなかった。相手の着ていた服の色が闇に浮かんでいたのが印象的で、一生あの光景を忘れられないと思った。
――黒に照らされていた、白。