ミルク飴㉛
携帯電話を鞄に仕舞い、背筋を伸ばして人ごみを歩く。今日は気分転換に買い物をしに街へ出てきたのだけど、歩いて気を紛らわせたい気分だからひたすら歩く事にした。風が頬を撫でる感触を感じながら前を見据える。大丈夫だ、この程度の会話で、この程度の落差で傷ついたりはしない。涙など、出るものか。
ぐっと拳を握りしめたところで、鞄の中の携帯電話が振動している事に気付いた。取り出して画面を見ると、鼻歌君からの電話だった。
「はい」
――あ、もしもし? 今から大丈夫かなー?
「ええ、まぁ」
――なら、デスティニーランドまで来たまえよー。君もよく知っている場所だよ、懐かしい場所だねー?
反論する暇もなく、一方的に話されてぶちっと通話を切られた。ここで聞かなかったふりをすると後が怖いのは目に見えている。仕方がないのでタクシーを拾って、目的地を告げる。デスティニーランドですね、という声に頷き、目を閉じることで以下のやりとりを遮断する。発進したタクシーの中で背もたれに身を預け、溜息を吐いて目を閉じた。
あたしが今から向かわないといけないそこは、いわゆる娯楽施設だ。広い敷地に様々なアミューズメント・マシンやお店が密集している。宝くじなど夢を売る商売の中では、最多数の人に愛される最大規模の商売といえるだろう。別名をデートスポットという。……ああ、まったくもって、嫌な場所ね。
――数十分ほどすると、遠くの方にデスティニーランドが見えてきてあたしの気分は急激に下がっていった。脳は骨で締め付けられているかのように痛むし、心臓はその中を力任せに混ぜられているよう。
息を吐いて、眉間を揉んだ。頭痛も腹痛も和らぎはしなかったけれど、気分は紛らわせる。そうしているとタクシーが止まったので代金を払い、デスティニーランドに入場して鼻歌君を探し始めた。
早く帰りたい。そんな気持ちが、折角落ち着いていた気分を乱れさせる。ミルク飴を鞄から二個取り出して、乱雑に噛み砕く。
がり、がりごり。
舌は痛むし、ミルク味に混じって血の味もするけれど、噛んでいる間は帰りたい気持ちを忘れられた。鼻歌君は中々見つからない。そのせいなのかデスティニーランドに居るせいなのか、苛々するので口内の飴にまた八つ当たりする。
デスティニーランドは、あたしがあの人の浮気現場を目撃してしまった場所だ。嫌な運命もあったものである。だから正直に言うと、ここには二度と足を向けたくなかった。デスティニーランドに来てはしゃいでいる子供達が更にあたしの気分を沈下させる。初めて事務所に行く前に鼻歌君と買い物をしていた時も思ったけれど、子供たちの声って、どうしてこうも鋭利なナイフみたいにあたしの心を正確に引っ掻くのかしら。彼らの無垢さ、純粋さが眩しすぎて、あたしの心の目が勝手に眩んでしまっているだけかしら。
とは言え、と気分転換のための言葉を心の中で呟いて、今の自分の心境を騙してみる。
とは言え、デスティニーランドはとても広いので、鼻歌君はあたしと離れている可能性の方が高い。とにかく、最初はお菓子を売っている店を覗いていく事に決めた。どうせ鼻歌君のことだから、そこら辺にあるお菓子のお店でもうろついているに違いない。けれどここにあるお菓子の店は多い事を思うと(さすがはデスティニーランドと言うべきか)、もう今からうんざりしてしまう。
「骨折り損のくたびれ儲けにならない事を祈るべきかしらね……」
単なる呼吸の一環として、息を吐き出すと案外重たい溜息となってしまって、子供連れの親に睨まれた。おそらく、子供にあたしの溜息を聞かれてその子の気分が落ち込む事を思って怒ったのだろう。
……あたしだって、吐きたくて吐いている訳じゃないのよという含みを持たせて睨み返す。けれど、消えない頭痛と腹痛があたしを苛んでいるので、目を逸らして鼻歌君を探す事に集中しようとした。
「おおー、デスティニーランド限定ポテトチップスかー。限定って響きが良いよねー。味は? 蜂蜜キャラメルポップコーン風味とコンソメ味ミックス……。買いだね、買い!」
……どうやら、集中する必要はなかったみたい。鼻歌君ののんびりとした独り言は、こんな中でもあたしの耳に律儀に届いてきた。
正直、鼻歌君が買おうとしているポテトチップスは美味しくないんじゃないかと突っ込みたい。蜂蜜キャラメルポップコーン味なら、普通にポップコーンとして食べた方が絶対に美味しいだろう。
そもそも、ポップコーン味のポテトチップスって一体何なの。この表現だと、食感がポップコーンっていう訳じゃなさそうよね。いや、それもそれで想像し難いものがあるけれど。……その内どこかの会社がさらりと発売しそうね。そうなったら、探究心のためにあたしも一つ買ってみようか。美味しくなかったら、事務所に差し入れてしまえばいい。そしてあたしが一番気になっているのは、甘い味とコンソメは同居しなさそうだということ。チーズ味辺りなら美味しそうだけれど、コンソメはさすがにないでしょう。
けれど、そんな考えても詮無き事はとりあえず脇に置いておいて、あたしは鼻歌君に近寄って声をかけた。
ケーキ味のポテチとかあるらしいので、ポップコーンもそのうち出るんじゃないかと。