ミルク飴⑳と⑦
彼女の住んでいる部屋は、築何十年と経っていそうな古ぼけたアパートの一室だ。何度か来た事もあるけれど、そんなに防音もされていない。よくもまぁ、近所の人達が事件に気づかなかったなと思わず感心した。
昼間だというのに、明るさの足りないアパートはなんだか不気味だ。
「……ここです。もうすぐお昼ですね、お昼ご飯ご馳走しますよにゃー」
彼女の静かな声で我に返った。思考していても足は規則的に動いていたようで、あたし達は彼女が指す部屋の前で立ち止まっていた。
彼女がスカートのポケットを探って鍵を取り出し、ドアを開ける。開けたドアを支える彼女に誘われるまま、遂にあたし達は青乃ちゃんの部屋に入った。
パチ、という乾いた音と共に電気が点く。彼女の部屋は居間、台所、風呂場とトイレだけ。あたしだったら、と部屋を見回して考える。あたしだったら見られたくない物は風呂場に隠す。開けようかとも思ったけれど、もし死体があったらどうすれば良いか指示を受けていないし、そもそも鼻歌君にも勝手なことをするなと釘を刺されているので、止めておくことにした。これでまた、仮面師さんに怒られるのも嫌だしね。
「今から作るのでー、そこら辺に座っていてくださいですー」
あたしが風呂場を見つめ、仮面師さんが所在無しに突っ立っていると、彼女がそう声をかけてきた。彼女の言葉を有難く受け、長方形のテーブルを囲んでいる座布団に腰を下ろす。
……鼻歌君はこの事件は二人組がやったと言っていたので、気配を探っていたけれど、この部屋にはこの三人以外居ない。これでも殺人犯なので自分に向けられる殺意や悪意があれば、それなりに反応できる自信はあるのだけれど、感じない。ずっと神経を張り巡らしているのも疲れるので、あたしは人の気配を探るのをやめた。鼻歌君も、適度に肩の力を抜いていた方が良いと言っていたしね。
出されたのはカレーライスだった。
「でも、なんで青乃ちゃんが犯人だって分かっちゃったんです?」
「……あたしの勤め先の上司が探偵でね。彼が今回の誘拐事件の犯人は貴女だって言うじゃない。最初は信じなかったけれど、殺人犯だって言うでしょう。探偵さんは、殺人事件向きの頭を持っているとあたしは思っている。だから誘拐事件が殺人事件になったと聞いて、あたしは探偵さんの言う事をちょっと信じてみようと思ったの。まぁ、貴女から事件のことを聞いた時から、少しはあなたを疑う気持ちがあったから、その探偵さんを信じてみる気にもなれたのだけれど」
スプーンでそれを掻き混ぜながら、彼女の不意の質問に答えた。
カレーを配って席に着いた途端に訊いてきたものだから、完全に不意を突かれて一瞬息が詰まった。けれど、平静を装う振りは割と慣れているので上手くやれたと思う。二口分くらい混ぜたカレーをひょいと掬って、頬張る。
「んにゃー? 上司さんが探偵さん? にゃーさんはいつの間にか、変なところにアルバイトしに行っているんですねー? 教えてもらえていなかったこと、青乃ちゃんはちょっぴりショックですにゃー」
……最初は少し変な味、というか食べ慣れていないような味がしたけれど、それに被さるように辛いので、その未知な味はどこかへ行ってしまった。気になりはしたけれど、気のせいだと思って黙っておく事にする。
噛めば噛むほど辛く、しばらく瞼を開閉しないと涙が出てきてしまいそうだ。暫くそれを繰り返していたら、滲んでいた視界も正常に戻った。仮面師さんも辛かったのか、少しだけ泣き出しそうな顔で瞼をパチパチさせている。さすがに味覚までは演技できないのかしら。それとも、亀岡というキャラクターは何となく辛いのが苦手そうな印象を受けるけれど、これもそういう設定による演技なのかしら。
彼女は、ただつついているだけで一向に口に運ぶ気配が無い――
「にゃーさんは意外とおばかさんですねー? どうして青乃ちゃんの作ったもの食べるのですか? ……薬が入っていないかとか、ちょっと位考えませんでしたかー?」
――! しまった! 一気に自分の呼吸が浅くなるのを感じた。スプーンを持つ手が震えてしまう。カレーの中にそれを戻す事さえも、満足にできない。鼻歌君に出されたものは必ず口に入れろとは言われていたけれど、……まさかここで死ぬんじゃないだろうな。大学からここに来るまで、彼女はいつもとそこまで変わらなかったから、すっかり油断してしまっていた。彼女は、彼女はそこまで――。
おそらく真っ青になったあたしの顔を覗き込んで、彼女はにぃ……と嗤った。その笑顔を見た瞬間、ぞっとした。ぞっとしたのと共に、頭の隅が霞んできた。睡眠薬なのか、それとも眠るように死ぬ薬なのか。
「おやすみなさーい、にゃーさん、亀岡さん……」
答えは、次に起きる事ができたならその時にきっと分かるだろう――
――本当に、大丈夫なんでしょうね、鼻歌君。