ミルク飴⑯
――二年前に、二つ上の姉が死んだ。それを知った日の夜、あたしは一滴も涙を流さなかった。その罰なのか、それから一か月ほど、二階で眠ろうとしては、一階から聞こえてくる泣き声に、どうにか寝入るまでしばらく苦しめられ続ける羽目になった。
姉は横断歩道で信号待ちしていたところを誰かに突き飛ばされて車にはねられ、即死だったらしい。その場に居合わせた何人かの証言を突き合わせた結果、警察は誰かの意思がそこにあったと見ているらしかった。
姉に恨みを持っている人物に心当たりは、と聞かれたときに質問し返したら、親切に教えてくれた。ただし深夜で辺りも非常に暗かったため、その誰かの正体は明瞭としなかったそうだ。突き飛ばした誰かを捕まえようとした人もいたらしいけれど、逃げられてしまったらしい。
その日、枕で耳を塞いで、階下の泣き声を遮断しながらあたしは密やかに嗤った。
ああ、あの華やかな姉に相応しくない何とあっけない死に方なのだろう! 死というのはいつだって清々しいほどに平等だ!
姉には歌手になる夢があって、両親も家から芸能人が出たら誇らしいと、喜んで応援していた。それなのに、姉を轢いた車とは別の車に姉の喉は轢き潰された。あたしの嗤いは止まらない。あれほど家族全員で大事にしていた姉の喉が潰れてしまったのだから。
下で嘆いている両親は姉の死を悼んでいるのか、それとも姉の喉の死を悼んでいるのか。どうにも気になるところである。なんて、直接尋ねてしまえば、正気を疑われてしまうのでしょうけれどね。
――残念ながらどちらにせよ、死体には泣き声も笑い声も狂気も届きはしないのだけど。
死体と言えば、姉は中々に美しい死体になった。姉は、父似の赤毛を持つ一見外人のようなあたしとは正反対の見た目をしていた。彼女は母に似て純粋にこの国の人のように見え、艶やかな黒髪は死に装束の白や顔周りに敷き詰められた花々によく映えていた。
と言っても、美しいままでいれたのは顔だけで、体の方は開かないようにされた棺で隠されているからいいものの、実際目にすると吐くだけではすまないような悲惨な状態にあったと聞いた。どうも、解剖する前から、らしい。姉を突き飛ばしたというその人は、よほど姉に対して思うところがあったのだろう。今頃は、どんな気持ちでいるのだろうか。
それでも顔だけでも無事だった分、まだましだったのかもしれない。なんとか葬式の体をとれていたのだから。死んだ後でも美しさが保たれているなんて、何だかんだで、姉はいつも本当に憎たらしいくらいに運が良い。
その死体を見つめながら、葬式に参列した親戚や姉の友人に姉思いの妹に見えるよう悲しげに微笑み、そして堂々と囁いてみせた。
「……さようなら、姉さん」
完璧だな、と我ながら思う。さようならが姉の嫌いな言葉だとあたしが知っているなんて、おそらく誰も知らないだろう。姉が死ぬ数日前、姉に誘われて、何かの死病を患った人を主人公にしたお涙頂戴な映画を珍しく二人で見た時に、姉が吐き捨てていたのだ。
「さようならというのはね、私が考えるに他人を切り捨てる残酷な言葉なの。だって、その後に言葉を続けるとしたら、「あなたのことを忘れません」より「あなたのことを忘れます」の方が私にはしっくりきてしまうのよ。生きている間なら構わないけれど、死んだときにはこんな言葉、私には絶対贈ってほしくないわね。だって忘れられてしまったら、悲しいでしょう」
そう言っていたのが姉だったからこそ、大嫌いな姉が死んでくれた暁にはこの言葉を贈るべきだと思っていた。けれど、目を閉ざされて青白い顔になった姉を見下ろしていると、ああ泣きたいなと、不覚にも思ってしまった。
優秀で美しい姉のせいであたしの存在は霞み、欲しい物も買って貰えない子ども時代を過ごしたのに、もうその姉が居ないと思うと、急に寂しくなって迷子のように大声で泣き出したくなった。姉さん、あたしはあなたの事が大嫌いで大好きだったのだ……。なんて、そんな風に思ったのはその時の一瞬だけだ。
きっと、初めて人の死というものに触れたことで、動揺でもしていたのだろう。姉のことが大好きだったなんて、絶対に認めてやるものか。……いや本当に、ツンデレとかじゃなく。お姉ちゃんのことなんかちっとも――、やめておこう。虫唾が走るわ。
冷たい風に揺られ、薔薇がしゃらしゃらと音を立てるのをぼんやり眺めた。墓の前に来ると、どうしてもあの頃を思い出す。肉親の死を正しく悲しめなかったのは、あたしの罪だ。その罰は、きっと今も終わっていない。
次話は、翌日昼12時更新です。こうして分けながら更新すると、話が遅々としていることを思い知らされました……。
調べた結果、事故死は解剖されると出てきたのでそう書いてますが、基本的に、諸々ニュアンスです。ご了承ください。