ミルク飴⑬
「文句ばかり言ってないで、ちゃっちゃとレッツラゴーしたまえよー」
有無を言わせない笑顔のまま、鼻歌君は早く行けとばかりに手を振ってあたしを追いやろうとする。
……まぁ、良いんだけどね。あたし達には殺伐とした関係の方がきっとお似合いだ。誰かが裏切らない、なんて確証はない。鼻歌君が何を目的としてあたしたちに声をかけたのかは分からないけれど、皆我が身可愛さに従っているだけに過ぎないはず。
だから、ある意味此処はとても安全で、それでいてひどく不安を与えてくる場所だ。だけどそんな火にかけられたぬるま湯のようなところでも、今のあたしには一番お似合いで心地良い居場所なのだろう。ここで無理に質問をして、それを崩すような真似はできない。追い出された先にあたしを待つのは、ただの破滅だ。
「別に構いませんが……箕浦公園も夜桜も知りませんよ、あたし。わざわざ行き方を調べるのも面倒です」
「安心したまえよー、君がとてもよく知っている場所だよー、知らないというなら、ただ名前を忘れてしまっているだけさ。それに魔王くんが今、地図をプリントアウトしてくれているから大丈夫さー」
行く事にもはや異論は無いけれど、最後の足掻きをしてみたら思わぬ伏兵が存在した。どこに居たんですか、と言葉が口からこぼれ出ると、仮面師さんが黙って事務所の奥の部屋を指さす。示された扉に向かい開けようとしたら、タイミング良く向こう側から開かれた。
扉があるから部屋だとばかり思っていたけれど、その先にあったのは部屋ではなく道路とは反対側の屋外に設置された階段だった。
この事務所が入っている建物の近くは同じような建物で密集していて、外部階段でも向かいの使用者と鉢合わせでもしない限り、他から移動しているのが見えるという事もなさそうだ。
「丁度良かった、今渡しに行くところだったんすよー。はい、これが夜桜への地図っす」
なんてここの立地について考えを巡らせていると、魔王くんが紙を一枚差し出してきた。受け取ると、簡単な地図と住所が印刷されている。それを見て、あ、と思った。あたしの意思など存在していないと言わんばかりの早い反応だけど、もしも最初から根間からの電話が予測されたものだったとしたらどうだろう。
手段は分からないけれど、もしそうだった場合、それの情報源はきっと魔王くんなのだろう。責めるつもりはないが、純粋に怖いなと感じた。魔王くんと名付けたのが鼻歌君なのか他の誰かなのかは知らないけれど、言い得て妙だなと納得させられる。
「ここのチョコレートケーキが美味しいんすよー、今度どうっすか」
「貴方の奢りなら行ってあげない事もないですよ。後、申し訳ないですが、あたしチョコレートケーキはあんまり好きではないんです。ところで、この上は魔王くんの作業部屋か何かなのですか」
誘いに乗ったら和やかに脅されそうな気配を察知して流しつつ、会話の主導権を狙ってみる。彼は苦笑して一本立てた人差し指を上に向け、
「それもあるんすけど、この上は俺と仮面師さんが家として使っているっす。俺らは逃亡者っすからねー、住居を見つけるのも一苦労なんすよ」
そう言えばそうだった。なるほど逃亡者というのは大変なのだなと頷けば、彼はじゃ、俺はこれでと上へ戻っていった。魔王くんは引くのもあっさりとしているし、事務所の三人の中では一番話しやすい人なのかも……なんてね、多分そうやって油断を誘うのも計算の内なのだろう。今はまだ、周りが皆敵だと思っているくらいで丁度良い。
あたしは扉を閉めて踵を返し、机の上の鞄を手に取る。右手の中の地図を指で畳み、事務所のドアへ向かった。
「死神ちゃん、帰りに花を買って戻っておいで。事務所に飾るからさー。少しは華やかさがあった方が依頼人さんも来やすいかもだしねー」
事務所を出てドアが閉まる直前、鼻歌君に声を掛けられる。いや、そもそもこのドアの前にすら、依頼人は来ないでしょうが。そう返事もしない内に、小さく音を立てて事務所のドアは閉まってしまった。
――地図を見た時に、あ、と思ったのがばれていたのだろうか。
箕浦公園は、あたしの家族の墓がある墓地の近くにある公園だった。近所に住んでいた子供の頃はよく幼馴染達とそこで遊んでいた。けれど、公園の名前なんて子どもの頃意識していなかったし、もう十数年行ってないので、名前に心当たりがなかったのだ。
花を買って戻っておいで、はあたしが帰りに近くの花屋さんで供花を買ってお墓参りをしようと思った事が分かっていて言ったのだろう。供花を買う人に普通の花も買え、と言うのは少々非常識な気もするけれど、あたしが供える花は菊とかそういう適した花ではなく、姉の好きだった薔薇とそれに合う花たちだ。
両親がそればかりお供えしていたため、薔薇なんて派手な花は墓地にはいささかふさわしくない気もするけれど、姉達にはそれがお似合いだとずっとそうしている。鼻歌君はそれも分かって言ったのかもしれない。だとすると、とても怖い事になるけれど。君の事は細かい事まで全部知っているよ、という宣告。本当にあたしのストーカーさんは、いつからあたしをその対象にしていたのだろう。
「……やめた」
考えたって、どうせ今のあたしには一つも選択肢は残されていないのだから。考えれば考えただけ、ありもしない逃げ道に憧れてしまうのだ。そんな現実逃避、するだけ虚しいに決まっている。