プロローグ
今回のみ三人称で話が進みます。
風にそよぐ木々が一斉に葉を揺らし、隙間から優しい木漏れ日が差し込む。ざわざわと音を立てる森の中を、薄い茶色の髪をなびかせながら、少年コースは軽快に走っていた。彼は両親に頼まれた食料を買いに隣の街へ行っていた。ついでに帰りがけに森で山菜などを採るつもりで小型のナイフを持ってきていた。
コースはこの森――スペックト・フォレスト――が好きだった。一人っ子の彼は、小さい頃から家族三人で遊びに来ていたので、自分では勝手知ったる森という風に思っていた。ただコースはまだ十歳なので、この森がどのくらいの広さなのかはよく分かっていなかった。
子供の足で二時間ほど歩くと、目的の街――ツェベン――に辿り着いた。街に入った途端にあちこちから威勢の良い店員の呼び声がコースを迎えてくれた。
コースは大人の足下をすり抜けてどんどん先へ進んでいく。時々、子供なら立ち止まりたくなるような玩具やお菓子の露店もあったが、コースは見向きもしない。所持金では何一つ出来ないことを知っているからだ。それに、コースは森で動物と触れ合っている方がずっと楽しいとも思っていた。
けれど目的ではない店の付近で立ち止まったのは、知っている声がコースを呼んでいたからだった。
「あ、コース君だ!」
「コースお兄ちゃん!」
「こんにちは、コース君もお買い物?」
四歳年下のロズちゃんと、妹のマリー、そしてその両親だ。コースはよく、ロズを含めた年の近い数人で遊んでいる。
「うん。おつかい頼まれたんだ」
「偉いわね。もう買ったの?」
「ううん、これから」
「じゃあ早く買わなきゃね。気をつけてらっしゃい」
「うん。バイバイ」
「コース君バイバイ」
コースとロズは元気良く手を振って別れた。
街の中心部を過ぎると、人が急に減ってきた。所狭しと並んでいた店も随分と減った。やがて見えてきた薄汚れた布を張ったテントの店、ここがコースの目的地だ。ポケットを触ってお財布がしっかり入っていることを確認してから、コースは店員のおじさんに話しかけた。
「風邪薬一つください」
「はい僕ちゃん、10ポルだよ」
コースはポケットから大事そうに財布を取り出した。財布は年季が入っていて、しわくちゃになっている。開けて掌の上で引っくり返すと、ちょうど1枚コインが出てきた。
「毎度あり。お使いご苦労さん」
おじさんはコースの頭をぽんと撫でた。コースはポケットに薬を押し込むと、もと来た道を引き返した。
用事を済ませたコースは、森へと一直線に進む。今日はどの辺りで遊ぼうか。楽しいことで頭の中がいっぱいになっていた。狐さんに会えるかな、美味しい樹液は飲めるかな、などと考えていないと疲れてしまって歩けない。
再び森に帰ってきたコースは、まず腐葉土でふかふかになっている地面の感触を楽しんだ。先程までの疲れは何処へやら、飛んで跳ねての大はしゃぎ。こっそり近寄っていたリスも慌てて逃げ出してしまうほどだ。
靴が泥だらけになるまで遊んだコースはすっかり疲れてしまい、日の当たる場所で眠り込んでしまった。
肌寒さを感じた時には、既に日が沈みかけていた。う~んと大きく伸びをしてゆったりと目を覚ますと辺りが薄暗くなっていたものだから、眠気はどこかへ飛んでいってしまった。
お土産を採って行くのはやめにして、慌てて家に帰る。カラスや小鳥達が鳴きながら一斉に飛んで行っているのも、コースに早く帰れと促しているようだった。
次第に、燃えているかのように空が夕焼けで赤々としてくる。その夕焼けには目もくれずにコースは出来る限り早く帰ろうと走る。けれども疲労から途中で何度も立ち止まってしまい、ベギンス村に戻るまでには太陽が完全に顔を隠していた。
この村の家は皆、木で出来た簡素な造りで形も似ている。コースの家も例外ではなく、特徴と言えば可愛らしい橙色のドアくらいだ。
「ただいま」
元気よくドアを開けると、心配した両親が飛び出して来ると思っていた。前に一度、同じように遅くなってしまった時がそうだったからだ。
しかしドアを開けても両親のどちらもコースを出迎えてはくれなかった。それに、家に居たのは両親だけではなかった。いかつい顔をした男が二人、両親の首筋に噛みついていた。
思いもよらぬ出来事に、コースはドアを開いたまま立ち尽くす事しか出来なかった。コースに表情は無く、恐怖を感じる前に思考が停止してしまったようだ。
「コース、逃げて」
母親はコースに向かって声を荒げて叫んだ。けれどもコースは動かない。
男が母親に噛みついたままコースを睨んでくる。逆立った茶髪を乱し、目の端はキッと吊り上がっている。青白い肌によく映える紅い瞳は、ルビーの如く妖しく煌めいている。
その容姿全てがおぞましく、目が合ってしまったコースは動くことが出来なかったのだ。
「逃げなさい、コース」
再度母親が弱々しく叫ぶ。顔からは生気が失せ、みるみるうちに白くなっていくのが分かる。その声ではたと我に返ったコースは、目に涙を溜め両親に背を向け走りだした。
そのまま後ろを振り向くこと無く村を出た。見かけない顔の人々が村を彷徨いているのが、コースの目の端に映った。けれど立ち向かう勇気も無いため、息を潜め、出来る限り早く村から逃げることしか出来なかった。
どのくらい走っただろうか、コースは今日三度目となる森の中にいた。それも、街に近いところまで来ていた。何度も足が縺れてしまって地面に転がったせいで、ズボンは破れて元々半ズボンだったのかと見紛うほどになっていた。
ここまで来れば流石に襲われやしないだろうが、足の動く限り村から遠ざかるために、重い足を引き摺るようにしてどうにか前進していた。けれど木の根につまずき俯せに倒れた時には、コースは起き上がる体力のみならず、気力すら無かった。
首だけを動かして進んできた道を振り返る。これまでひたすら走る事だけに集中していたので、一度も振り返っていなかった。振り返るのが怖かったからかも知れないが。
木々の隙間から遠くの方が明るく見える。けれどそれは村の家々の灯りよりも強い光で、まるで太陽が上ったかのようだ。
しかし長い間走っていたとはいえ、流石にまだ夜が明けた訳では無い。その証拠に、上空は暗闇に包まれている。
よく耳を澄ますと、木が爆ぜるパチパチという音が聞こえてくる。
火事が起きている、とコースが理解した時には、彼は瞼すら開けられなくなっていた。