北城陸 その6
「あ、あのっ……こ、ここは園芸部の、部室でしょうか?」
上ずりまくったその声は、予想地点よりもだいぶ下から届いた。
視線を下げると、半分開いた扉の向こうで誰かがこちらを覗いているのに気付く。
ぱっちりとした大きな瞳と目があった。
見知らぬ女子生徒だった。
「ひゃわあ!」
目が合うや、その女子生徒は奇天烈な叫びをあげて、初太刀を避ける達人の動きで扉の影に身を隠してしまった。
だが、達人は決して逃走したのではないことは分かる。なぜなら、扉の縁にはまだ指がかかっていたからだ。
その指が、そろりそろりと動く。閉じられかけた扉は再び開かれ、俯き気味の達人……もとい女子生徒が姿を現わす。
今度は目を合わせてはくれないようだった。
「あの……その。えっと」
ぽそぽそと消え入るような声だったが、廊下の喧騒に負けることなく、不思議とハッキリとしてリクの耳に届いた。
パッと見、地味な女の子だった。
そんな印象を受けてしまったのは、おそらく長く伸ばした前髪のせいだろう。今のように俯いていると、目の辺りがすっぽりと隠れてしまっている。
背は低い。150ほどだろうか。立ち上がりかけたリクの視点から、少女のつむじがばっちりと見える。
そんな少女が、園芸部部室の前で、おどおどとした様子で立っていた。
口を開いては閉じている。
何かを言いかけては噤んでいる。
頰に赤みが差しているように見えるのは、きっと緊張のためだろう。
しかし、それでもなお、僅かな勇気を振り絞ろうという姿勢がそこにあった。
そんな少女に相対したとき、リクの変化は劇的であった。
思考停止も一瞬だ。心構えをしていなかったと言えば嘘になる。
なぜなら、リクは今日ずっと、この教室で彼女を待ちわびていたのだから。
カイトでもアスカでもない誰かを。
今までにないまったく新しい何者かの訪れを。
薔薇色の花畑が広がるような幻覚を見た。
部活動紹介に備えた苦労が走馬灯のように駆け巡った。
次第にリクは顔を紅潮させていった。
緊張からではない。
興奮からだった。
無論、一目惚れだとか、そういう理由ではない。
なぜなら、そう。
この日、この時間に、一年生と思しき生徒が、この部室に現れたからだ。
いったいどうして!?
そして間違いなく、園芸部の名前を口にした。
なんのために!?
これが入部希望者でなくて、なんだというのか!
「もしかして、入部希望のひとですか!?」
リクのテンションは最高潮に達した。
「ち、違います!」
ばたん。
「……」
薔薇は枯れ、死の静寂が訪れた。
リクのテンションは冷め切っていた。
いま、いったい何が起こったのか、まるで理解できなかった。
夢に描いたような可愛らしい新入部員候補が突然現れて、そして幻覚のように消え去っていったような……。
これが白昼夢だろうか。とてもリアルだった。
「あ、あの……」
目頭を揉んでいると、扉の向こうから何者かが姿を現した。
先ほどの少女だった。
これは白昼夢ではない!
「すみません、違わないです。……あの、私、園芸部に」
「入ってくれるの!?」
「ぎゃあ!」
再び扉は閉ざされた。
「……」
身を乗り出しかけた姿勢で暫く硬直していたリクだったが、やがて静かに、座り直した。
リクのテンションは0か1かといった折れ線グラフの様相を呈していたが、事ここに至り、平静であった。
凪いでいた。
背筋を伸ばして目を閉じ、呼吸を整え数を数えた。いち、に、さん。
がらりと扉が半分開いた。
「ごめんなさい、違うんです。私、あの」
「ようこそ、園芸部へ」
慣れた。
@
「こちらに座ってください」
「はっ、はい!」
「炭酸系とスポーツドリンク、どっちが好き?」
「あ、えっと、しゅわしゅわが、私ちょっとダメで!」
そんな会話を交わした後、二人は長机を挟んで向かい合っていた。
少女は両手でぬるいボカリを持ち、それを開けるでもなく縮こまり、きょろきょろと目線は忙しない。さながら外敵を警戒する子リスの風情。
小動物を彷彿とさせる少女だった。
そう、小動物なのだ。
リクは己の推測を検証し、実践することに努めた。
結果、彼女は目を合わせたり、大きな声を出したり、脅かしたりしなければ逃げたりはしないことがわかった。
それさえ避ければ、こうして誘導に従って着席してくれる。
会話もできるし、物だって手渡しで受け取ってくれる。
ちょろいものだった。
……。
いや。
仮にも初対面の女の子を動物扱いしてどうする。
彼女は自分の意思で部室を訪れてくれた客人であり、新入部員になってくれるかもしれない極めて重要な人材だ。
礼を尽くして迎えるべき相手だ。
失礼なことを考えている場合ではなかった。
リクの反省は早かった。
「……はじめまして。俺は園芸部部長の北城陸です」
礼儀とは即ち挨拶から始まる。
その唐突とも言える絶妙な間から放たれた言葉に、彼女は外敵を察知した子リス然として敏感に反応した。
そして喉仏を見せ付けるような勢いで言った。
「はいっ! は、はじめまして! 一年の、遠藤莢です! 友達には、サヤエンドウって、よく言われます!」
「……サヤエンドウさん」
思わず復唱した。
そういうあだ名って、本人は嫌がるものなんじゃないのか?
「はあぅ! 気にしてるのに……っ!」
案の定じゃねーか!
「えっ!? ……ごめん。でも、俺はその、サヤって名前は、凄くいい名前だと……思います」
「………………あ、ありがとうございます」
とってつけたようなフォローは、ギリギリ成功したようだ。
成功だよな? また耳まで赤くして黙り込んでしまったが。
それにしても卓越した地雷設置テクニックだった。気にしてるなら名乗るなよ……。
小動物系と見せかけた、熟練の工作兵に似た何かだったか。
リクの脳内では軍服を着た黒ウサギがせっせと匍匐前進していた。とても愛らしいイメージだ。こんな映画が昔あったなそういえば。
「あの、北城先輩。これって、さっきのフウリンソウですか?」
脳内ウサギが土を掘り始めたところで、少女――サヤ――が動き出した。
また変な癖が出てしまった。突然発生した空想に囚われてぼーっとするのはリクの悪癖だ。
注意しなければ。
彼女が指差していたのは、机の上の鉢植えだ。
反射的にリクは頷く。
「ああ、うん。そう。さっき体育館で――」
「すごい! やっぱり本物だ!」
サヤはがばりと身を乗り出した。
その瞬間、思い出した。このフウリンソウがただの花ではなかったことを。
「私、さっき前のほうで見てたんです! 蕾だったこの子の花が、急にふわって咲いていくのを! あれって手品か何かだったんですか!?」
ふんすふんすと興奮していた。
というか、突然饒舌になったな。どうやら緊張が好奇心で上書きされたようだ。
「え、ええー……っとまあそんな感じかな?」
まずい。
後ろめたいことは何もしてないのに、なんとか誤魔化さなくてはという思いに駆られる。
なにせ説明できない。
例えば……そう。タネは明かせないが、何らかの手品ということにでもしなくてはならない。
対するサヤはなにやら楽しそうにフウリンソウを指でつつき回している。
手品の正体を見破りたいのだろうか。
リクとしては、劇薬にまみれた土に触れないか、ちょっと気が気ではない。
「フウリンソウって、確か四月から開花期でしたよね。それにしても、ちょっと早咲きですよね。珍しいなあ。あれ、土がちょっと白くなってますね」
「ああ、土にはあまり触らないほうがいいよ……。でも遠藤さん、詳しいね」
「私、実家がお花屋なんです」
経験者だ!
「だから、高校入学をきっかけに園芸部とか入りたいなって……。あと、私、あまり人と話すのが得意じゃなくて。でも、北城先輩、言ったじゃないですか」
「なんて言ったっけ」
「園芸部ひとりだ、って……フフ」
鈴のような笑い声に、ちょっとドキッとした。
「部員が少ないなら、私でも頑張れるかなって……。それで、私」
彼女の指先がフウリンソウから離れていく。
つられて指先を目で追うが、長机の下に隠れてしまった。
ふと思う。このまま視線を上げていいのだろうか。
また逃げ出してしまわないだろうか。
「北城先輩」
いや。
逃げないな。
拳を握り締めたように、両腕が強張るのが見えた。
ある種の信頼感をもって顔を上げる。
前髪の壁の向こうから、大きな瞳がふたつ、こちらを見ていた。
まっすぐ見ていた。
「私を、北城先輩の園芸部に入れてくれませんか?」
たかが高校生のいち部活。それに対して考えれば、ひどく不釣り合いな真剣さだった。
だか、だからこそ、振り絞るようなサヤの声は何よりも深くリクの心に届いた。
たかが部活。
しかし、サヤにとってはきっと、たかが、などではないのだ。
それがリクにとっては、何よりも嬉しかった。
「うん」
心に暖かいものが満ちるのを感じた。
一人でも新入部員が入ればと思っていた。
廃部を免れるための数合わせでもよかった。
しかし今、リクの前には理想を絵に描いたような少女がいる。
たった一人? だからどうした。
これから始まる一年間は、きっと素晴らしいものになる。
断る理由などあるわけがなかった。
「これからよろしくね。それと、ありがとう」
リクは笑って言った。
サヤもまた、安堵からか、少しだけ泣きそうな顔で笑って言った。
「それも、フウリンソウですね」
サヤは本当によく知っていた。
フウリンソウの花言葉は、感謝だ。
@
それから、取り留めもない話を少しだけした。
臆病が過ぎて、あまり友達ができなかったこと。
引っ込み思案を治したいこと。
他人と目を合わせると怖いから、前髪を伸ばしていること。
また、サヤは自分のことだけを話すのではなく、よく質問をした。
「このフウリンソウは、種から育てたんですか?」
「うん。去年から、学校の花壇で」
「あのクーラーボックスはなんですか?」
「アホほどジュースを持ってくる友達がいるんだ。部の備品みたいなものだから、中身は好きに飲んでいいよ」
「彼女とか、いますか?」
「いないよ」
「北城先輩って、男のひとですよね?」
「怒るよ」
「すすすすすすみません! ですよね!」
蓋をあけると、好奇心の塊みたいな子だった。
もしかすると、ずっときょろきょろとしていたのは別に臆病からではなく、好奇心からだったのかもしれない。
あちこちを見回しては、次々と質問の銃弾をばらまく姿は、腰だめにサブマシンガンを構える突撃兵のそれだ。
あと、呼び方も決まった。
先輩と呼ばれることにまったく慣れていないリクが、「なんかくすぐったいね」と漏らしたところ、
「じゃ、じゃあ、あの……リクさんて、呼んでもいいですか!?」
これが勇気の証だと言わんばかりに喉仏を見せつけながら言うので、
「は、はい!」
そう返すしかないリクに対し、
「じゃあ、私のことも、さ、サヤって、よ、呼んでください! リク………………先輩」
尻窄みに言った。
結局先輩を付けるのかよ、と思わなくもなかったが、電池が切れたかのように俯いてしまったサヤを前にリクは何も言えなかった。
きっとこの部屋の湿度はいま、校内で最も高いに違いがなかった。
そんな奇妙な空白を破ったのは、何かをごまかすようなサヤの声だった。
「そ、そう言えば! リク……先輩! ここなんですけど!」
サヤはフウリンソウの鉢植えを指差して言った。
正確には土を指差していた。
「ここ、形がなんか、耳っぽくないですか!」
「?」
何を言っているのか分からないリクだったが、指の先を見て合点がいった。
それは確かに耳だった。
なんということもない。鉢植えの土が盛り上がって、人間の耳の形に見えただけのことだ。
あの雲のかたち犬に似てるね、とか、そういう話だった。
「ホントだ。気付かなかったな」
リクは身を乗り出して言った。そのままだとフウリンソウの影に隠れてよく見えなかったからだ。
それにしても妙にリアルな造形だった。
耳孔の部分には、アリの巣みたいな穴まで空いている。
わざとそういう風に土を盛ったかのようだったが、リクにはまるで覚えがないので、偶然だろう。
そう言おうと顔を上げたところで、リクは己の過ちに気が付いた。
恐ろしいまでの近距離にサヤの顔があった。
身を乗り出しすぎたのだ。
車のワイパーのような動きで赤く染まる顔だとか、プルプルとした唇だとか、ぱくぱくと開く口腔から覗く舌だとかが全部見えた。
そしてそれらは立て続けに起きた。
「ひゃああああ!」
ロケット発射の如き勢いで席を立つサヤ。
「待ってサヤ!」
それを予測してサヤの手首を咄嗟に掴んでしまうリク。
「おーっすリクちゃんおまた…………せ?」
勢いよく扉を上げるアスカと、ジュースを両腕に満載したカイト。
時が静止したような極寒の空間の中心には、腰が砕けて半分放心したサヤと、それを長机越しに抱きしめるようにして支えるリクの姿があった。
二人の射抜くような無言の視線を一身に受けながら、リクはまず、それを発した。
「これは違うんだ」
弁明に、短くない時間を要した。