北城陸 その4
校門から続く長い階段を上り切ったとき、昇降口付近には既に無数の人だかりができていた。
人影に隠れているが、その中心には掲示用のボードの頭がちょこんと突き出ている。
今日この日、最も注目される掲示物といえば一つしかない。この先一年間続く学校生活を大きく左右するもの。
全校生徒のクラス名簿である。
それを見たものの反応は千差万別だ。肩を抱き合って喜び合う者、がっかりとする者、ひたすら名前を追っていく者。その中でも共通しているのは、一向にボードの前から退こうとしない点である。
ぶっちゃけ邪魔であった。
「全っ然見えねえ」
リクの懸命な背伸びもむなしく、視界に広がるのは誰かの後頭部や背中ばかりである。これだから低身長は。
「おまえは二の一だ」隣のカイトがニヤリと笑い、リクを見やる。「俺もな」
にへらと頬が緩んでしまうのも仕方がないだろう。
それはリクにとっては掛け値なしで嬉しいニュースなのだから。
「そうか! また一年、よろしく頼むな」
「おう」
カイトとは、これで何年連続同じクラスということになるだろうか。幼稚園からだから、軽く十年は越えている気がする。
そんなことを頭の中で指折り数えていたところに、背後から第三の声がかかった。
「ンッフッフッフッフ」
それは喜悦にまみれた邪悪な声だった。
振り向くと、太陽のような少女がそこにいた。
これでもかと言うほどに上機嫌を主張する、満面の笑顔だった。擬音となって聞こえてきそうなニコニコ顔である。糸のように細められた目は、まっすぐリクに向けられている。
当然ながら制服姿だ。鞄を持っておらず、代わりになぜか大量の缶ジュースを抱えるように持っている。呆れるほどの量だった。
「奇遇だねぇ。あたしも同じクラスだよ! リクちゃん!」
つい先ほど、真っ先に「リクちゃん」と声をかけて、そのまま走り去っていった少女だった。
そんな彼女の物言いに、リクは怒る気持ちよりも先に、どっと疲れを感じるのだった。
空閑飛鳥。
リクにとってのカイトが親友であるならば、アスカという存在は悪友と呼ぶほうが近い。
よく手入れされたセミショートの黒髪に、リーフ柄のヘアピンを留めている。輝くような笑顔は同性から見ても魅力的で、黙っていれば大和撫子で通用しそうな美人と言っていい。
しかしその性格は清楚とは程遠い。快活で自由奔放。考える前に手足が動き、バリバリの運動部系で体育会系。後先を考えずに全身が口ほどに物を言う暴走列車のような女の子。それがアスカという人物だ。
リクにとっては二人目の幼馴染にあたる。
だからこそリクと、そしてカイトも熟知している。コイツのからかいに一々相手などしていれば、比喩ではなく日が暮れることを。
「……おはよう、アスカ。なんとなく想像はつくけど、その大量の缶ジュースは?」
「ん? もらった」
さも当然のようにニコニコとアスカは答える。
「だからいつもみたいに部室に置いときたいんだけどぉ、ねぇリクぅ、ちょっと手伝ってよぉ」
アスカはぐいぐいと距離を詰めるや、リクと自身で缶ジュースを挟むようにしてグリグリと押し付けはじめた。
女の体が、男に対してどういう化学反応をもたらすのかを熟知している者の仕草だった。
二人の身長はほぼ同じであるため、顔が非常に近くなる。太陽のようだったアスカの笑顔は甘えるようにとろんと溶けて、まるで見る者の脊髄を痺れさせるような怪しげな魔性を放ち始める。
ハートマークがちくちくと刺さるような幻痛を受けながら、リクは答えて言った。
「ムリ」
にべもないとは正にこの事であった。
「時間考えろよ。部室まだ鍵開いてねーよ。部活動紹介が終わったら鍵取りにいくから、クーラーボックスに入れるなら午後にしろ」
「えーーー! わざわざ三階から持ってきたのに!?」
がーん、わなわなっ。相変わらず分かりやすいリアクションをするヤツである。
「じゃあ、せめて教室に運ぶの手伝ってよ!」
アスカは憤然とした態度で更なる要求をする。リクはちらりとカイトを見やるが、右手の鞄と左手の鉢植えを掲げて肩をすくめる。『俺は両手ふさがってんだけど』という意思表示。
ため息ひとつ。「しょうがねーなぁ。少し貸せ」
幾つかの缶ジュースを受け取ったリクの腕に、じんわりと冷気が伝わる。買ったばかりなのか、表面には水滴がびっしり付いていた。
「ぼーっとしてないでカイトも手伝いなさいよ! ってか、なんで植木鉢なんか持ってんの? ってああ、そっか、リクのね」
勝手にうんうんと頷くアスカ。
「ビビリのくせに気合い入れちゃって。ムダな努力お疲れ様ね! プ!」
「言ってろ! つーか、部室がなくなったらお前のジュースも預かれなくなるんだからな!」
「えー、それは困るなー。じゃあもしそうなったら、次は図書室のカウンターにでも置かせてもらおうかしら」
アスカは去年図書委員だったが、今年も続投するのだろうか。
「まぁそれはそれとして。ねぇリク、今日はいくつ作ってきたの?」
「ん? ああ。一応四つ」
「おやおや、新入生が入ってくれる前提ですか。大した自信だねぇ。でも大丈夫だよリクちゃん! もし新入生が一人も、ひ・と・り・も来なかったとしても、お姉ちゃんがちゃあんと全部消費してあげるからね!」
「やっっっかましいわ! ってかオマエの方がむしろ二ヶ月年下だろうが!」
「たかが二ヶ月早く生まれたくらいでアニキ面とか男として器がちっちゃい!」
「オマエが先に言い出したんだろうがー!!!」
「お前らそのくらいにしておけ。めっちゃ見られてる」
いまや人だかりの中心はリク達であった。
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気を取り直して教室に向かう三人。
二年生の教室は普通校舎の三階にあるので、缶ジュースと鉢植えを抱えた一行がせっせと階段を上る。
「それにしても、またずいぶん大量だな。やっぱり今日の部活動紹介か?」
「まぁねー。えっと、女子サッカー部に女子バスケ部、女子バレー部に卓球部でしょ」
指折り指折り、次々と部活の名前を挙げていく。そのほとんどが運動部である。
アスカは栄陽高校内において、比類する者のいない有名人だ。
その理由は彼女の顔の一つにある。
それは助っ人部員としての顔である。
例えば対校試合の戦力として、例えば急な怪我人に備える予備人員として、例えばそもそも大会出場のための数合わせとして。あらゆる用途でアスカは招かれ、戦場に現れる。
そしてその神が与えたとしか思えない卓越した運動センスによって、彼女はありとあらゆる運動分野で無類の強さを発揮する。その圧倒的な実力と守備範囲は魔人と称されるほどだ。
勝利を約束するとまで言われる彼女の働き。さらに、報酬はジュース一本以外に要求しないという破格のリーズナブルっぷり。その実力が知れ渡ったいま、人気が出ない訳がなかった。
そうして栄陽高校に入学して一年。数多の実績を築き上げたアスカは、その助っ人としての地位と評価を不動のものとしたのである。
「だから、今日の部活紹介はあたしも出ずっぱりなワケ。出ろって言われれば出るけどさ、部活じゃなくてむしろあたし紹介かよ的な? てか、リフティングくらい自分らでやれって感じよねー」
「なら断ればいい」
「まさか!」からからと笑う。「友達の頼みは聞くものだよ、リクちゃん」
そういうところは、ちょっと眩しいとリクはいつも思う。
学年を問わず、アスカには友達が多い。
そりゃそうだ。毎日まいにち色んな運動部を駆け回っていれば、自然とそうなって当たり前だろう。友達の友達まで追ったら全校生徒を網羅する気がする。
リクやカイトが敵――自分がそう思っているだけかもしれないが――を作りやすい人間なのだとしたら、アスカは真逆だ。アスカは小悪魔じみた行動力と魅力で、誰も彼も味方にしてしまうのがこの上なく得意なのだ。
そんなところだけは、少しだけ羨ましい。絶対に口に出したりはしないけれど。
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時計の針が午前九時を指した時、全校にチャイムが鳴り響いた。
同時に教室に入ってきたのは、ふてぶてしい顔をした巨漢である。
その巨漢は教卓につくや、教室を睥睨して言った。
「あー、まずは進級おめでとう。知っている者が大半だと思うが、一応挨拶しておくと、一の一に引き続いて二の一の担任を務めることになった大場です。授業では去年から引き続いて二年生の科学の科目を担当します。一年間、どうぞよろしく。……さて、誰か号令を」
「きりーつ!」
がたたっ。真っ先に立ち上がり、発声したのはアスカであった。
その時の大場教諭の表情は筆舌にしがたい。苦虫を百匹まとめて噛み潰したような、まぁとにかくイヤそうな顔をしている。およそ教師が生徒に向けるべきものではなかった。
よく分からない、といった顔をしているのは、恐らく去年、一の一のクラスに在席していなかった者だろう。安心してほしい。どうせすぐに思い知ることになる。
全員の起立を確認したアスカが続けて言う。
「きをつけー! れー!」
おはよーございます!
「着陸!」
クラスの各所が一斉に吹き出した。
「空閑ァ。おンまえは新年度の最初くらい大人しくできんのかァ!」
「やだなぁ大場先生ぇ。あたしとセンセの仲じゃないですかぁ!」
「オマエには、二度と、号令は任せん! 今後大人しくしているように!」
「そんな! じゃああたしはどうやって笑いを取ればいいの!?」
「取るなー!!!」
名簿が教卓に叩きつけられた。かなりの勢いだった。新年度が始まっての、記念すべき第一発目であった。
そして開始される凄絶な舌戦の様子を、ぽかんとしている一部を除き、クラスメートの大半は「今年もかー」という感じで静観する構えだ。リクも後者側の人間である。見飽きたというレベルではなかった。
新しい担任のあだ名というのは、往々にして始業式その日に決まるものである。どうやらこの調子だと、今年もロクなあだ名はつきそうにない。
「それにその大量のジュースはなんだ! 机に速攻で私物広げるとかお前学校嘗めてんのか!?」
「はい先生! それはロッカーの場所が分からなかったからです!」
「ぐ、ぬぬ……確かにこれからシールを配る段取りではあるが……そもそも! その量はいったいなんだ!」
「はい先生! この後の部活動紹介の準備に必要なものです! 北城君の植木鉢と同じです!」
「うぐぐぐぐぐ!」
よくもまぁ口が回るものだと思うが、俺を巻き込むのは止めてほしい。そっちの方便と違って、この鉢植えはガチで使うんだから。
そして第一ラウンドはどうやら大場教諭に分が悪い。どうやら今年もアスカの地位は揺ぎなさそうである。そんな事を思いながら、リクは窓際の席から外を眺めていた。
カイトは既に寝ていた。
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簡単なHRという名の試合観戦(●大場教諭VSアスカ○)が終わり、一同は体育館へと移動する。
南浅砂市では学生の総数が少ないことから、始業式と入学式を兼ねて同時に行われる。そうすると自然に体育館に全校生徒が集うため、せっかくなので対面式も兼ねてしまおう、と言うのが通例である。
流れとしては着任式→校長の言葉→対面式と続く。この後に部活動紹介が控えているため、空気を読んでか校長の話も短めだ。
「皆さん、ご入学、誠におめでとうございます」
後略。
さて、壇上の対面式が始まったあたりで、リクの緊張もいよいよ最高潮に達しようとしていた。
もうそろそろだ。心は平静なつもりでも、体は正直とばかりに鼓動は早い。血流を意識すれば、こめかみが痒くなりそうだ。
リクはこういった、始まる直前の空気が一番苦手だ。備えを尽くした自信はある。いざ壇上に立てば吹っ切れる覚悟もある。だが今この時だけは胃が痛むほど緊張してしまう。
いっそ、早く、楽にしてくれ。そう願ったその時、ステージの脇に立つ教師に動きがあった。
……来た!
それを合図に数名の生徒が動き出す。
壇上ではまだ新入生代表が微笑ましい辿辿しさで答辞を読んでいる。しかしそれもあと一分と経たずに読み終えるだろう。いま動いているのは順番の早い部の部員のみ。登壇をスムーズにするためにあらかじめ作られる列。生徒が次々と列に加わっていく。リクの出番はもう少し先。早く動いてしまいたい。しかしいつ動き出せば。思考は堂々巡り。
「リク」
ふと、背中に触れる手のひらの感触に気付いた。
「お先、リク。会場、あっためとくからね」
普段では考えられないような、こそこそとした声だった。そのなんと似合わないことか。振り返らなくても分かる。アスカだ。
背中から伝わる暖かさが、心に渦巻いていた緊張を溶かしていく。雑音が世界に戻ってくる。光が戻ってくる。
「……ああ、任せた」
振り向かずに言った。気恥ずかしくて強がった訳ではない。それも見透かされている確信がある。アスカに弱みを見せるのも、こうしてたまに元気付けられるのも一度や二度ではない。
なぜなら長い付き合いだから。お互い様というやつだ。
だから俺たちはこれでいい。
「お前もしっかり仕事してこい」
「まっ、ジュース一本ぶんはね」
ぱしんと背中を叩かれた。最後にエネルギーを貰った気分になる。
彼女もこれからあの壇上に上がるのだ。緊張してないはずがない。
それでもきっと、いつもの顔でケラケラと笑っているに違いない。
その頼もしい親友が、いったいどんな働きを見せてくれるというのか。リクは緊張を忘れ、むしろその時を楽しみにすら思った。
そして思い知った。アスカが緊張なんてまったくしていなかったと言うことを。
そうしてそれが始まった。
部活動紹介と言っても、特別なことはしない。壇上に上がって、簡単に新入生を祝って、こんなことしてますと活動内容に触れて、運動部などはちょっとしたパフォーマンスを見せる。それでおしまい。
各部に与えられた時間は五分。それほど厳密に時間を測ってはいないので、まあ目安程度だ。
全校生徒の前で話をする必要があるので、これへの参加は基本的には任意だ。しかし、今年も九割近い部がこれに臨んでいる。
それを見つめる新入生の目は真剣だ。対して、上級生はニヤニヤとそれを眺める傾向にある。友人知人の晴れ舞台を鑑賞する構えだ。
だが、そんな彼らの表情が、次第に同じ種類のものに変わっていったのはいつ頃からだっただろうか。
「なぁ、あの人さっきもいなかった?」
「やっぱそう? 見間違いじゃないよなぁ……」
生徒たちが困惑するのも無理もない。
つい先ほどまで巧みな股下ドリブルからのボール回しを披露していたバスケ部員が、今度は卓球のラケットを持って卓球部員として登場。
今度はピンポン玉のリフティングを始めたが落とす気配がない。それどころかシェークハンド用の両面ラバーラケットをくるくると回転させて両面交互に、あろう事か側面の木でも綺麗にリフティングをしてみせた。どう見ても遊んでいた。
そして今度は野球部員として現れてキャッチボールをしている。そのうち普通のキャッチボールでは面白くないと思ったのか、珍プレー好プレー集のような奇抜なアクションで捕球しはじめた。相手にわざわざ暴投を要求しているあたり、あまりに自由すぎて言葉も出ない。
バスケ部紹介の時からそうだったが、彼女のパフォーマンスはあくまで脇役に過ぎない。彼女を背景に、壇上では各部の部長らしき人物が真面目な顔で原稿を読んでいるのだが、ハッキリ言って誰も聞いちゃあいなかった。
しかも退場のたびに、
「女子バスケ面白いよ!」
「卓球もよろしく!」
「あたしの球を捕れるキャッチャー募集中!」
などと叫んでちゃっかり美味しいところを持っていったこともあり、アスカは徐々に新入生たちの心を掴みつつあった。
「なぁ、あの人いったい何者? スポーツ万能ってレベルじゃねーぞ!」
「アレだよ。二年の空閑先輩。ほら、地主の一人娘の。魔人って呼ばれてるあの」
「スゲー。美人で金持っててスポーツ万能とかリアルに存在するんだ」
「勉強はできないらしいけどな」
「おい見ろ、今度はサッカー部員と出てきたぞ! すげえ! なんかめっちゃ高く蹴り上げてる! しかも足で綺麗にキャッチしたぞ!」
「あっ、あれは、まさか!?」
「知っているのか!」
「あれはリフティングハイだ。そういうリフティングの競技で、ボールが高ければ高いほど難度が跳ね上がるんだ! それを室内でキメるとかあの子何者だよ! ってか体操着ですらねぇ! 制服でローファーじゃねーかふざけんな!」
「なんかよく分からんがすげえ!」
やがて歓声がその場を支配した。
もはや心を掴むどころの騒ぎではなかった。異様なボルテージだった。会場の一部はスタンディングオベーション状態であり、そして入学式の厳かさなどそこには微塵も存在しなかった。
そんな熱気溢れる体育館を、緞帳の裏から見下ろす影があった。リクであった。
(こ、この後に出なきゃならないってのか……)
その感情はもはや緊張とかそういう領域を通り越した地平の彼方であった。辿りついたその先は、限りなく無に近い何かだった。
傍で待機している数名の教師から、同情するような視線が投げかけられるが、気のせいではないだろう。
魂が抜けたような顔をしていると、数人のサッカー部員と共にアスカが近づいてきた。パフォーマンスが終わったのだ。サッカー部部長もまたリクと同じような無の顔をしていた。
「リク!」びしっと親指を立てたアスカが続けて言った。「あっためといた!」
やるべきことはやってやったと言わんばかりだった。
すべての元凶の、汗だくになった働き者じみた笑顔だった。
「やりすぎだ」
リクはハンカチでアスカの額をペシリと叩き、それをそのまま額に置き去りにする。
歩き出す。
手にはフウリンソウの鉢植えがあり、心にはアスカの熱が残っている。そしてカイトもまた、生徒たちに混ざって見守ってくれている。
これから戦場に立つリクにとって、これ以上の装備などなかった。
この空気感である。もはや観客と化した生徒たちが求めるようなパフォーマンスはできないし、期待はずれとがっかりされるかもしれない。そういう不安がないと言えば嘘になる。
しかし、誰からも無関心でいられたり、白けたり、話を聞いてくれないといったことだけはないだろう。
援護射撃に報いるためにも、全力を尽くす。
「でもありがとうな。行ってくる」
『それでは次に、園芸部の皆さん、お願いします』
司会の声がマイクに乗って体育館に響いた。