北城陸 その3
その日の朝も、霧吹きによって数多の水滴に包まれたバニーカクタスは格別の美しさだった。
(なーんか、ヤな夢を見たような気がするんだけどなぁ。だめだ、さっぱり思い出せない)
癒しを放つサボテンとは正反対に、リクの目覚めは最悪だった。寝汗がひどく、疲れが取れず、眠気がちっとも収まらない。鏡に写る自分の顔はひどい目つきをしていて、目元にはクッキリとした隈が現れていた。
何かものすごく恐ろしい体験をしたような気がするのだが、どんな内容だったかまではさっぱり思い出す事ができずにいた。
がっしがっしと歯を磨きながら、リクはそれを思い出そうとする試みをすぐに諦めた。見た夢を忘れるなんて当たり前のことだ。それにわざわざ嫌なことを思い出す必要なんてどこにもなかった。
できれば万全の体調で臨みたかったところではあるが、こればかりは仕方がない。
リクはうがいを済ませると、せめて眠気だけでも晴れるようにと、いつもより5割増しくらいの勢いで顔を洗いはじめた。
決戦当日である。
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南浅砂は山と海に挟まれた都市である。
本州南側の海岸線を蹴破るように細長く突き出した陸地の、更に南端に位置する。その出っ張りの中ほどには南北を分断するかのように山脈が連なっており、南浅砂といえば、その山脈で区切った南側全域を指す。
山脈から海岸線に向かってなだらかに降る斜面と、海に面する僅かな平野からなるその都市は、本州との往来が難しい土地に発展してきた。
人口およそ三万五千人。盛んな産業はほぼ漁業。だが二十年前に市長が代替わりしたのをきっかけに、南浅砂は新たな観光地として徐々に生まれ変わりつつある。
現市長の政策によって海岸線の一部が海水浴場化され、駅は真新しく綺麗になり、バスの本数が大きく増え、ホテルなどの誘致にも積極的になった。それらの変化はあまりに急過ぎて、一部の地元住民との軋轢は大きくなるばかりだ。
海岸線沿いの商業地区が再開発の喧騒に晒される一方で、斜面に密集した住宅地区は今なお静かな昔の面影を残している。平野部に比べて区画整理の難度が高いこともあり、時代の差は開く一方だ。
現代においてなお騒々しくも活気に満ちた、未だ発展の途上にある小さな都市。
それがリクが生まれ育った都市、南浅砂だ。
そんな土地柄であるために、斜面の中腹にある住宅地区には坂道や階段が多い。道路の勾配を押さえるために曲がり道も多く、裏道や脇道を含めるとまるで迷路のようだ。
その中で比較的大通りと呼べる上り坂を、緊張の面持ちで歩く影がひとつあった。
制服から近くの高校の男子生徒であることが分かる。身長はおよそ165センチ。平均的な体型で、艶やかな黒髪は男子にしては少し長いなという程度だ。
その両腕にはそれぞれに荷物が携えられている。左には学校指定の通学鞄、そして右には抱きかかえるようにして、重そうな鉢植えを持っている。
土が盛られ、花が一輪だけ植えられた鉢植えだ。茎に釣り下がった幾つかの大きな蕾が、彼の歩みに合わせて頷くように揺れていた。
大通りを歩く人影は徐々に増えてきた。横道や脇道から合流するのはやはり学生だ。この大通りは目的地である学校へとまっすぐ繋がっている通学路であるために、南側に住むほとんどの生徒はこの道に合流することになる。
生徒たちは次々に彼を追い越していく。ある者は一人黙々と、ある者たちは二人以上で語らいながら、しかし一様にどこか足取りは軽やかだ。
対する彼はといえば、遠ざかっていく生徒たちの背中に向けてのんびりとあくびをかましている。急ぐ必要はないが、万が一にも転ばないよう慎重に。そういう歩き方だった。
また一人、誰かがリクの横を追い抜いていった。抱えている鉢植えにチラリと視線を感じるが、それ以上のことはない。物珍しそうな視線には慣れたものだ、という貫禄が感じられる。
そんな中、彼に声をかける人影もあった。
「リクちゃん! おっはよー!」
その瞬間、リクのコメカミにミシリと血管が浮いた。
声は彼女のものだけではなかった。
「リクちゃんちーっす」
「よっ! ひっさしっぶりっ! リクちゃん今日もカッワウィッ!」
「おはよう! あれあれリクくん、今日も間違って学ラン着てるよ!?」
「北城君おはよう。あれ、リンス変えた?」
最初の女を筆頭に、口々に言いたいことを言って去っていく背中は男女さまざまだったが、たった一つだけ共通点をあげるとするならば、彼等は全員、先月までリクのクラスメートだったという点が適切だろう。
リクは満面の笑顔に青筋を添えて、逃げるように駆けていく級友たちに向け、サワヤカに挨拶を吼えた。
「うっさいわボケぇ!」
リクには一つコンプレックスがある。
一言で言ってしまえば、全体的に外見が男らしくないのだ。
顔は小さく目が大きく、顎は丸く鼻は小さい。それは俗に言うイケメンよりは、童顔というカテゴリに属する造形だった。
それだけならばまだよかったかもしれない。童顔に見えるが、リクの肉体はれっきとした男である。きちんと男の格好をしていれば女に間違われることなどまずないし、容姿が良いの一言で済むレベルだ。
しかし、平均よりも低い身長と、ほとんど声変わりしなかった声帯とをあわせてリクが評価されたとき、彼らはたいてい、こういう印象を抱く。
なんか今の人、女の子っぽいな、と。
加えて趣味もまずかった。趣味は園芸で特技は料理。毎日のように自前の弁当を持ってきては美味そうに食べている姿は、周りからは「狙ってやってるんじゃないか?」と思われても仕方がないものであった。
そういった印象は、成長が進み一般的な男子の成育との差が開くにつれて、大きくなる一方であった。
中でも、リクと共にまる一年間の高校生活を送ってきた元クラスメートたちの間では、すでに「リク=女装が似合いそう」という鋼の共通認識が完成されていた。そのチームワークにかかれば、いやがるリクに無理やりメイド服を着せて文化祭の接客をさせるなど造作もないことであり、つまりはそういう扱いを受けていた。
いわば女装させると面白いネタキャラというポジションだった。
そんな環境で、リクがこの年になるまで歪むことなく成長できたのは、ある心の支えがあったからとも言える。
「重そうだな、リク」
その声はリクの隣、高い位置から降ってきた。
驚いて見上げると、いつの間にか並び歩いている大男の姿が目に入る。
平坦な無表情。だがその声に込められた彼の心根の優しさを、リクは誰よりも理解しているという自負があった。
「カイト!」
リクはしばらく振りに会う親友の姿に、花のような微笑みを向ける。
広瀬海人。
リクとは同い年で、幼稚園からの付き合いになる青年だ。
その青年を一言で言い表すとすると、体のデカい不良であった。
およそ185センチの巨体からなるリクとの身長差は20センチにもなり、子どもと大人といった様相を帯びる。
片手で背に担ぐようにして持っているのはリクと同じ通学鞄だが、小さく見えるのは対比の問題だろう。
そんな彼の無表情を飾るのは、鮮やかに染め上げられた金髪だ。男らしく短く切り揃えられており、露出した両耳には薔薇を象った白銀のピアスが吊り下がっている。
体付きもよい。身長相応に肉が付き、制服が若干窮屈そうに見える。また、ありあまる腕力とその発露を示唆するかのように、両の拳には絆創膏がぺたぺたと貼られていた。
「貸せ」
大男――カイトの左腕がまっすぐリクに伸びる。
それはまるでカツアゲの光景だった。
「うん。ありがとう」
対するリクは素直だった。足を止めてカイトのほうへと身を寄せると、差し出された手の平に鉢の底を載せるようにする。
カイトの大きな手の平はしっかりと鉢を掴んだ。「もういいぞ」
リクはすっと離れる。そして二人で並び、再び歩き出した。
片やペタペタと、片やのしのしと歩く二人の歩調は不思議とぴったりだ。
「おはようカイト」
「おう。おはよう」
そんな二人のやり取りを、周りの生徒たち――主に新入生――がぽかんと見つめていた。
リクにとってカイトとは、まさに理想の男である。
こう書くと致命的な語弊を孕んでいるようだが、別に変な意味ではない。リクが自分自身にはないと思っている男らしさのすべてを持っている男。それがカイトという人物なのだ。
子どもの頃から、カイトは体が大きい少年だった。
当時よく見ていた戦隊モノのテレビ番組に憧れて、子どもらしい正義感を持ち合わせていたこともある。その感情は特に、悪ガキ共への鉄拳制裁という形で発露された。
そんな彼の行動に助けられることが多かったのが、当時から花が好きだったリクだった。
やがて時が経ち、そんな子どもじみた正義感はカイトの心から離れていった。
その頃にはカイトはすっかり喧嘩っ早い人物として知られてしまい、その体格もあって近寄るものはあまり居なくなっていた。乱暴者には近寄るな。それは南浅砂のような狭いコミュニティの中に一気に浸透した。
そんな中、リクとの関係は今もずっと変わらないでいる。
リクは気が強いほうだが、決して腕力が強いわけではない。
クラスメートのからかい程度になら目を瞑るが、時折、リクが本当にしんどそうな顔をするときがある。
そんな時はカイトがリクの前に立ち、時代遅れの正義の味方を演じることがある。
そして翌日、決まってリクはカイトに弁当を寄越す。
そうしようと話し合って決めた訳ではない、自然にできた互いの役割。
お互いに敵を作りやすい人間同士だからこそ結ばれた、強固な信頼の絆がそこにあった。
それは親友と呼べるものに違いなかった。少なくとも、リクはそう思っていた。
「部活紹介のか」
「え? ああ、うん、そう」懐かしい思い出に浸る心を呼び戻し、リクが答える。「今日はそれ持って壇上に上がるつもり」
「そうか」
カイトはじっとフウリンソウを見つめている。その無表情はまるで睨みつけているようであったが、
(何かコメントしようとしてるんだけど、何も思いつかないって顔をしてるな)
付き合いの長いリクには筒抜けであるようだ。
カイトはあまり口数の多いほうではない。そのぶん顔に出るタイプである。
しかしそう思っているのはリクだけのようで、もう一人の幼馴染からは「あのムッツリとまともにコミュニケーション取れるのはアンタくらいのもんよ」と呆れられたこともある。これは未だに納得していないことではあったのだが。
しかし、コミュニケーションねぇ。カイトは顔だって悪くないんだし、女子に人気があったっておかしくないんだが。
「……どうした?」
なんとなくカイトの顔を見上げていたら、目があってしまった。
「いや。おまえは彼女とか作らないのかなと思ってさ」
「……」
困ったように視線を逸らされてしまった。
「考えてねえ」カイトは小さくため息を一つ。「そもそも、この高校にいる間は、そういうのはたぶん無理だ」
「なんでだよ」
「なんでもだ」
リクはその後も納得がいかない、というような感じで言葉を続けるが、カイトに適当にあしらわれると言ったやり取りが続く。
そうして二人が揃って校門へと吸い込まれていくのを、大勢の生徒が注目して見ていた。その視線は主に上級生たちのものだった。彼らはそれがリクたちの耳に届かないように、慎重に何事かを噂し合っていた。
そしてそれこそが答えだった。
「アレが一年の……いや、二年の広瀬と、その嫁だ」
「ああ、あれが噂の……」
「北城ってああいう顔で笑うのか。あれは……アリだな……」
「うそ……広瀬くん。ホントに、ホモだったんだ……」
様々な想いは熱、あるいは涙となって、少し肌寒さを残す四月の風の中に溶けていった。