北城陸 その2
「信じられない! 本当に!」
リクは怒りに任せて自室の扉を閉めた。その勢いは音の大きさとなって、家中に響き渡った。
目尻に涙を浮かべながら、リクは激怒していた。その憤りは火を吹かんばかりだ。しかし実際にリクの口から漂ったのは燃え盛る火炎ではなく、つんと涙を誘うアンモニア臭である。
サルミアッキ。それは北欧付近で伝統的に食べられている菓子であるが、控えめに言っても非常に独特な風味を持つ。
例えるなら劣化したゴムのような味わいと食感。舌の上で荒れ狂う苦味と強烈な塩味。そして無限に湧き出すかのようなアンモニア臭。
父曰く、世界で一番マズい飴と呼ばれるものだった。
「ハハハ! いや、これは結構好き嫌いが分かれるんだが、ハハ、ワハハハハ! そうかおまえはダメだったか! ワハハハハハ!」
口を押さえて水を求めて走り出すリクを見て、信じられないことに大貴は爆笑していた。
更に信じられないことに、大貴はこれまた美味そうにサルミアッキをひとつ食ってみせたのだ。
あのクソ不味いものを! さっきまで、俺が作った飯をうまいうまいと食っていた口で!
「あーもう! あーもう! なんか……何に腹を立ててるのか分からんぐらい腹立つぅ……!」
色々と業腹なことが起きたのは間違いなかった、しかし何がどの程度の怒りとなって入り混じっているのか、リク本人にも皆目検討が付かない。まさしく脳が沸騰寸前だった。
余談であるが、サルミアッキは決して不味いものを作ろうとして開発された食品ではない。そのルーツを辿れば古くより北欧で愛されてきたリコリス菓子から派生したもので、その大地に生きる人々にとっては親しまれているものだ。マズいだのなんだのというのはあくまでも日本人、ひいては北城陸の味覚に基づく個人的な感想であることを明記する必要があるだろう。
さておき、リクは激情のまま拳を大きく振り上げて、今まさに手の平に収まっているそれを投げつけようとしていた。やつあたり以外の何物でもなかった。
だが、その蛮行は寸前でピタリと止められた。それを思いとどまらせるものが、リクの視界に現れたからだ。
それは瑞々しい緑色だった。
大きく息を吸い、そして吐いた。心の黒いモノをすべて吐き出すために必要な、最後のため息だった。
何度歯を磨いてもほのかに残るアンモニアの臭いに嫌気が差したが、やがて身体中の力をだらりと抜くと、リクはガラスの小瓶を机に置いてベッドに身を投げた。
机の上には小瓶の隣にもう一つ、置かれているものがあった。片手で運べるサイズの、小さな素焼きの鉢植えだ。
鉢植えには土が敷き詰められており、一輪の花が植えてある。それはフウリンソウ…またの名をカンパニュラ、あるいは釣鐘草とも呼ばれる花だ。
その名の通り、咲いた花弁は色鮮やかな風鈴を連想させる。しかし鉢植えのフウリンソウはまだ若く、青さを残す小さな蕾がうなだれるように付いている。全体的に瑞々しい緑色に飾られていたが、その蕾の先だけが、ほのかに桃色に色づいていた。
そのフウリンソウが花咲かせるには、たっぷりの養分と太陽の光、そして今しばらくの時間が必要になるだろう。そして、それこそがリクが選んだ、明日のための一輪だった。
今日はリクの父親である北城大貴が海外出張から戻る日であり、四月の第一日曜日であり、春休み最後の日。
そして明日はリクの通う市立栄陽高校の始業式であり、入学式であり、新入生との対面式でもあり、そして何より重要な、部活動紹介の日だ。
リクは栄陽高校に通う男子高校生である。
明日の始業式をもって、彼は二年生へと進級する。それは去年までとは違い、栄陽高校園芸部のいち先輩として、後輩たる下級生を迎える立場になることを意味している。
リクにはなんとしてでも明日の部活動紹介を成功させ、新入生の覚えをよくする必要があった。必ずや、園芸部に新しく部員を勧誘するために。その切実なまでの必死さは、現在園芸部が抱える一つの問題に起因する。
部員が足らないのである。
厳密には、「足らなくなった」といってよい。先月をもって三年生が全員卒業した結果、園芸部部員の数は四名から一名なった。つまり、リクを除いて誰もいなくなったのだ。
栄陽高校では原則として、四名以上の正規部員がいなければ部活動として認められない。今までがギリギリだったのであり、つまりは園芸部自体の存続の危機だった。
もしも新入生の勧誘に失敗すれば、園芸部は解体される。部室は取り上げられ、部費もなくなる。
リクは部長を継いで早々、かなりのっぴきならない状況に置かれていた。
「すまない、北城! お、俺たちがぁ! 二年生の心をしっかりと繋ぎとめていれば、こ、こんなことには! こんなことにはならなかったのにぁぁあ!」
「北城! 僕は、僕は部の存続よりもお前の幸せを祈ってる! もし辛かったら、いつでも辞めていいんだぞ! 無理はしないと約束しろ!」
「リクくん! リクくん! ぜったい電話してね! ぜったいでんわしてね! 私たちはずっと、ずっとリクくんのせんぱいなんだからああああ!」
その責任を重く感じていたのだろう。三人の先輩方は卒業式当日にいたるまでこんな有様だった。三者三様に号泣する姿には、さすがのリクも涙を通り越して苦笑いしか出てこなかった。
それに栄陽高校園芸部に人気がないのは、決して彼らのせいではない。それはひとえに栄陽高校、延いては南朝砂市の地形に因るものだ。更に言わせてもらえば、辞めていった他の部員たちにはまるで根性がなかった。リクはそう思っていたし、一片の事実でもあった。
そんな中、最後まで園芸部に残ってリクを指導し、まるで本当の弟のように可愛がってくれた、大切な先輩方。リクにとって彼らは感謝してもし足りない、尊敬すべき存在だった。
誰もが一人残されるリクを心配してくれた。何かあればいつでも呼べとまで言ってくれた。自分たちにだって新しい生活があるはずなのに。そう思えばこそ、リクの中にはこの人たちの気持ちに報いたいという気持ちが膨れ上がるのは当然と言えた。
園芸部はなんとしてでも存続させる。
そのために、明日の部活動紹介で新入生の心を掴み取る。できれば三人。最低でも、一人。
そのために、やれることはなんでもやる覚悟だった。
リクにとっての明日とは、そういう一日だった。
「あんなバカ親父のことなんて考えてる場合じゃないんだ。うん」
フウリンソウを見つめながら、リクは思いを新たにする。
いまやるべきことは明らかだった。
「フウリンソウの花言葉は感謝、抱負、思いを告げる……入学おめでとう。……この花は、四月から七月の間に……昇降口の花壇に、気がついた方は……」
そのフウリンソウは、部活動紹介の際に手に持って壇上にあがるために選び抜いた一輪である。それは負けられない戦いに挑む勇者の剣にも似ていた。
そして剣と共に振るうべき言葉は戦術だった。
この春休み中に何度もそうしてきたように、リクは口の中でそれを繰り返し呟いた。さながら実戦を前にした演習であった。
このままやがて眠りに落ちるまで、リクは演習を続けるつもりだった。
だからその後に起こったことは、言うなればまさしく運命の導きだったと言える。
その時その場所にそうあるべき経緯で抱くべき感情を抱いていたこと。
居るべき部屋に居るべき人物がそうあるべき姿で横になっていたこと。
在るべきものが在るべき装いで在るべき場所に並び置かれていたこと。
それがリクにそれを思い出させた。
『土に撒けば豊かになるって言ってたから、つまりよく効く肥料みたいなものなんじゃないか?』
リクの目には一輪のフウリンソウが映っていた。
「……できることはなんでもやる。か」
験を担いでみるのもいいだろう。
リクがそれを決めたのは、そんな軽い気持ちからだった。
験担ぎ……大魔法使いとやらの遺骨を、フウリンソウの鉢に撒いてみること。
元は人骨だったとはいえ、それはいまや風化寸前のリン酸カルシウムである。毒にはならないだろうし、それほど大量に撒くつもりもなかった。
決めてしまえば行動は早かった。ちゃっちゃと起き上がると小瓶をひょいと持ち上げ、ぐるぐる巻きにされた針金を指で解いていく。
さほど苦労することもなく針金は解けた。問題はコルク栓だ。
指でしっかりと掴める程度には露出している。問題は素手でも開くかどうかだが……。
「お、意外と緩い」
僅かずつではあるが、手の中でコルク栓が動く感触があった。瓶自体が小さく、栓そのものが適したサイズではなかったのだろう。それは決して強いほうではないリクの腕力でも、少しずつ抜けていく。
リクは力任せにコルク栓に取り掛かっていた。リクにそうさせた原因は、今日受けた度重なるストレスにあった。
そして――
「んぎぎぎぎ……っうお!?」
きゅぽーん、と爽快な音を立てて、コルク栓は瓶から解き放たれた。そしてその勢いで小瓶の底はテーブルに叩きつけられ、その次に起こるべきことが起きた。
ぼふん。
その衝撃で小瓶の口から白い煙が噴出し、リクの上半身とテーブルの上のものを包み込んだのだ。
「げっ! んぐっ、げほっげほっ、うーえぇ!」
一も二もなくリクはむせた。
(やべっ! やっちまった! ってこれ人骨! うわっ! うーわぁ!)
腹いせに、力任せに引き抜こうとしなければ、こうも勢いよくテーブルに叩きつけることもなかったのに!
リクはやはり今日が人生の中で比較的最悪な部類にあることを、力強く噛み締めた。
その後もしばらくリクはむせ続けた。とにかく、口と鼻に入った骨粉をすべて吐き出したかった。
何度目かになるツバをティッシュに吐き出したところで、ようやく落ち着くことができた。
散々な有様だった。
一面真っ白だった。言うまでもなく散りに散った骨粉が原因だ。それは砂よりも細かいパウダー状になっていて、どう見ても先ほどまでガラス越しに見えていた骨の欠片よりも細かくなっている。
しかしリクはそれ自体には特に疑問を抱くことはなかった。密閉空間にあったものが急激に空気に触れたせいで、一気に風化が進んだとか、そういうことだろう。それよりも、うっすらと満遍なく雪化粧を施されたようなフウリンソウの惨状と、机、そして絨毯にまで広がった白の被害のほうが深刻だった。
どう考えても念入りな掃除が必要だった。
「……風呂も入り直しだよ……あーもう! 余計なことしなけりゃよかったー!」
リクは衝動のまま頭を掻き毟った。そのたびに白い何かが新たに舞い散った。それはフケではないことだけは確かだった。
結局リクが眠ることができたのは、それから二時間以上経ってからのことだ。
@
その晩、リクは夢を見た。
見たというのは語弊があるかもしれない。その夢は真っ暗で、何も聞こえず、身動きひとつ取れない奇妙な夢だったからだ。
それなのに、意識だけはある。まるで永い眠りから覚めたかのように、自分の心がハッキリと浮かび上がるのが分かる。
心が息継ぎを求めているような感覚。リクは苦しみを感じていた。
――ここは……どこだ? なにが……いったいどうなった?
それはリクの声だった。いや、リクの声ではなかった。では誰の声だ?
――なにも……見えない。どこだ……ヴレットブラード……
大切な人の名を呼んだ。いや、聞いたこともない名だ。では誰の名だ?
眠りの中で、リクの心は混乱の極みにあった。
"オレはここにいる。"
"俺はいったいどうなった?"
――頼む。頼む。お願いだ。光をくれ。オレに……光を……
その時、まさしく脳の中に光が走った。
瞼を通さずに、まるで脳に直接ブチ込まれているかのような光の奔流を感じた。目でなく脳で見ているようなそれは、今までに感じたことのない感覚だった。
やがてその奔流は視覚を与えた。
うっすらと見えてきたのは、見覚えのある部屋だった。電気もつけられていない、真夜中で真っ暗な部屋だけれど、ハッキリと分かる。なぜなら自分はさっきまでそこにいたのだから――……ここはどこだ?
そう思った瞬間、視界が目まぐるしく動いた。まるで眼球が暴れているようだった。それは常識を超えて荒れ狂ったあと、あるものにピタリと照準を合わせて停止した。
なぜこんなにも驚愕したのか、自分でも分からなかった。
だってそれは、ぐっすりと眠っている――の姿。
あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。
これはダレだ?
リクの意識は再び闇に閉ざされた。