万華鏡
「かな、カルピス飲む?」
仏壇の新しい写真を見つめながら振り返らずにうん、とかなは答えた。
おじいちゃんが、元気そうな顔でこっちを見て笑っている。後ろに雪をかぶった山が見える。大好きな登山の時の写真だ。
かなが最後に会ったおじいちゃんは、病院のベッドの上で、いつか博物館で見た断食している修行僧の像みたいに骨と皮だけになって、口を「オ」か「ホ」と言っているような形に小さく開けて横たわっていた。その印象が強くて、元気だった時の方がずっと長いはずなのに、かなはおじいちゃんが元気な姿を写真で見ると何だか変な気がした。
「まだまだ、暑いねえ。」
エアコンが嫌いなおばあちゃんの家は、しつこい残暑の残るこの季節には、窓を開けて扇風機を回しても生ぬるい風がからみついてくるようで、外から入ってきたかなじわじわしみ出てくる汗に閉口した。
おじいちゃんが亡くなって二カ月。そろそろ張っていた気もゆるんで、落ち込んでいるに違いないおばあちゃんの様子を見に、母に頼まれてかなは日曜日の模擬テストの帰りにおばあちゃんの住む団地に寄ったのだ。
日焼けして薄くなった畳の部屋は、もう何年も同じ風景だった。本棚の目隠しに下がっている年代物の更紗の生地や、今はもういないネコのつめとぎでぼろぼろになった柱や、食器棚の中身まで。
そんなおばあちゃんの家が、かなには少し重かった。かなの母は、週に三日、近くのスーパーのレジで働いていて、PTAの役員もやったりして、毎日なんのかんのと忙しいのに、季節の変わり目にはなぜか家の中の模様替えをする。ある日、学校から帰ると玄関マットが新しくなっていたり、キッチンのテーブルの配置ががらりと変わっていたりして、かなはよく驚かされる。母は決まってちょっと自慢げにどう、いいでしょ?と言う。べつだんどこがどう良くなったという気はしないが、家の中に新しい風が入ってきたようで、変わりばえのない生活が急に生き生きしてきたようで、かなはけっこう嬉しい。
だから、おばあちゃんの家が何年も変わらないのが、家の中の空気が固まっているようで、息苦しく、重かった。時が止まったままのこの空間に、ふすまをあけておじいちゃんがよお、と入ってきても驚くことも出来ないだろう。
おばあちゃんちは、模様替えとかしないの。かながおばあちゃんにそう聞こうと思って口を開きかけた時、ふとかなは、仏壇の中にころんと横になっている千代紙の筒のようなものを見つけた。
「おばあちゃん、あれ何?」
テーブルにカルピスのコップを置くと、おばあちゃんはせっかく座ったのに、どれどれとテーブルに手をついてまた立ち上がると、仏壇を確かめに行った。
「これはほら、万華鏡だよ。ずいぶん前にお祭りであんたにねだられて買って、うちに置きっぱなしになっていた」
しわの目立ってきた白い手の上で転がしながら、おばあちゃんはお土産屋さんによくありそうなそれをはい、とかなに手渡した。
「なんでこんなところにあるの?」
「おじいちゃんが亡くなる前によく見ていたから、何となく。」
こんなものをおじいちゃんが好きだなんてありえない、とかなは思った。
おじいちゃんは活発な人だった。工事関係の会社に勤めて、定年になると同年代の人と登山サークルを作って、しょっちゅう山へ出かけていた。腰とひざを痛めていたおばあちゃんをそっちのけで。
「最後の一か月ぐらいは、生きているのが仕事、みたいだったからねえ。」
おばあちゃんはそっとため息をついた。
「あんなに元気だった人が、息をするのがこんなに大変なことだなんて、一日一日が四〇〇〇メートル級の山登りと一緒だよ、なんてこぼしてたっけね。」
おじいちゃんは肺の病気だった。かなも小さいころ喘息だったから、息ができないつらさはよくわかる。普通に家の中にいるのに、まるで深海で溺れているような恐怖。周りの人とは決して共有できない、絶望的な孤独。あれを、おじいちゃんは絶え間なく味わっていたのだろうか。そう思うと、かなはさらに気分が落ち込んできた。
祖父の死を経験するのは、孫なら当たり前のことだ。父方の祖父はかなが生まれる前に亡くなっていたし、祖母はまだ健在だったから、身内の死はかなにとって今回が初めての体験だった。だから、平静を装ってはいても、その実かなり動揺していた。期末試験の直前におじいちゃんのお葬式で学校を休んだことも、記憶に新しい。
「よかったら、それ、持って行く?」
おばあちゃんはにこにこ笑ってかなに聞いた。これじゃ、落ち込んでいるのは私の方だ。おばあちゃんはおじいちゃんがいなくなったことさえ忘れてしまったみたいに、いつものように穏やかな微笑みを浮かべている。
かなは万華鏡をのぞきこんでゆっくり回した。
色とりどりのガラスのかけらが、小さな鏡の魔法で目のくらむような細かい模様を作り出しては変化する。いつまで見ていても飽きない、と言いたいところだが、意外と飽きるもので、五分と見てはいられない。
「いい、使わないから。」
とかながかぶりを振ると、おばあちゃんはそう、とうなづいた。
それからかなは、おばあちゃんに家のことや学校のことをいろいろ話した。
かなは中三、二学期に入り、これから本格的な受験体制に入る。夏休み前の発表会を最後に、ずっと習っていたピアノをやめたことや、お母さんが平日パートを始めたこと、五年生の中でもいちばん小柄な弟が運動会の組体操のタワーのいちばん上になったことなど、話すことはいろいろあった。
おばあちゃんはずっとにこにこ笑ってうなづいていた。あんまり表情も姿勢も変わらないので、だんだん、かなはおばあちゃんがリピートする画像のように見えてきたほどだ。
「おばあちゃんは?何か、変わったことない?」
ためしに、かなは聞いてみた。
「おばあちゃんはもうこの歳だもの、何も変わったことなんてないわよ。朝起きて、ラジオ体操に行って、近所の人とおしゃべりして、帰ってごはん食べて、テレビを見たり、本を読んだり。」
私もいつか、そうなるのかな。かなは口には出さなかったが、そう思ってますます気が滅入った。
団地から駅に向かう遊歩道では、踏まないで歩くのが難しいぐらい、驚くほどたくさんのセミが死んでいた。ふらふら飛んでいるアゲハの羽が、ところどころ破けているのが目にとまった。
早足で歩きながら、かなは体の中に凍てつくような小さな固まりを感じて身震いした。
こうして息をしているだけで、時間が過ぎて行く。私もいつか、万華鏡をのぞくのが精いっぱいになる日が来るのだろうか。
かなは、おばあちゃんの何もかもあきらめたような、執着のない穏やかすぎる笑顔が怖かった。テレビドラマでは死んだ家族にとりすがってわあわあ泣くシーンが定番なのに、おばあちゃんはおじいちゃんを看取った後、かなたちが病院に駆けつけたときも、お葬式でおじいちゃんが焼き場に運ばれる前、斎場の人が神妙な顔で「最後のお別れをお願いします」と言ったときも、ちょっとハンカチを目と鼻に当てただけでふつうに静かにしていた。
今のかなは、長い子供時代のまどろみから押し出される、秒読みの段階にいる。日々はずっととぎれなく続いているのに、否応なく立場だけが変わっていく。そのことへの漠然とした不安に、おばあちゃんの動じない姿が追い打ちをかけてくるようだった。
こうやって、変わっていくことを静かに受け入れていくことが大人になるということなのか。
飼っていたネコが死に、おじいちゃんが死に、ひとりぼっちになっても、にこにこ笑って、淡々と日々を過ごし、何か新しいわくわくしたことがあるわけでもなく、自転車に乗ったり、長い遊歩道の階段をのぼったり、出来ることはどんどん少なくなって。
夏の終わりの生ぬるい風から逃げるように、かなは駅前の喧騒の中へ飛び込んで行った。商店街でお気に入りの雑貨屋に入って、前から気になっていたレターセットをおこづかいの残りで買うと、少し気分が軽くなった。
「おかえり。どうだった?おばあちゃん」
パート仕事から帰ってきたばかりらしい母が、レジ袋からがさがさと夕飯の総菜を出しながら尋ねた。
「別に、いつもと変わらなかったよ」
かなはそう言って二階の部屋に上がり、普段着のジャージに着替えた。先にシャワー浴びちゃえばいいのに!と大声で叫ぶ母の声を聞いてそれもそうだと思ったがもう遅い。かなは、汗くさいままベッドに寝ころんでタオルケットをかぶった。
心地よいまどろみが、かなの漠然とした不安をきれいに流し去っていく。
うとうとし始めた脳裏に、鮮やかな万華鏡の色ガラスの模様がゆっくりくるくると変化していく。
こんな風に、変わっていくのだ。今のこの生活も、家も学校も、万華鏡と同じ。一度見た模様がまた戻ってくることは二度とない。どんなにきれいな模様で、ずっとこのままでいたいと思っても、いつまでもじっと動かずに見つめ続けているわけにはいかないのだ。
かなはがばっと起きあがり、買ったばかりの新しいレターセットで、クラスの親友に手紙を書き始めた。
「今日、もぎテストの帰りにおばあちゃんち行った。おじいちゃん死んじゃってから、おばあちゃんまぢヤバイ。ずっとニコニコ笑ってばっかりでさー。人形か?重いよ~助けてオクレ」
絵文字を何にするか決められずにペンが止まると、かなはいきなりイヤになり、ユニオンジャックとジャンプしている黒猫が描かれた、ラメの星がちりばめられた真新しい便せんを、まだほんの数行しか書いていないのに、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨ててしまった。
かなは、思い出す。小さい頃、弟の太一が生まれる前後に、しばらくおじいちゃんとおばあちゃんの家で一緒に暮らした。父は長期出張中で、母は産後具合が悪くてそのまま入院していたからだ。先に退院した生まれたての太一は、父方の祖母に預けられ、家族全員がバラバラ状態だった。幼稚園はちょうど夏休み中だったので、おじいちゃんとおばあちゃんが、毎日公園や駅ビルのこどもひろばや、気を遣ってあちこちに連れて行ってくれた。あの頃はおばあちゃんのひざや腰も悪くなく、おじいちゃんは車を運転して、かなとの生活をけっこう楽しんでいるように見えた。太っちょのキジトラの猫がいて、夜は一緒のふとんで眠ったりもした。まるで毎日が誕生日のようだった。両親に会えない幼いかなのために、ずいぶんハードなスケジュールを組んでいたのかもしれない。でも、そのハードさをものともしないじゅうぶんな若さを、おじいちゃんとおばあちゃんはまだ持っていた。
あれから、まだ十年と少ししかたっていないのに。
かなは机に突っ伏して、しばらく泣いた。どうしても泣けて仕方なかった。
おじいちゃんの仏壇の中の万華鏡は、かなの心に住みついて、時折くるくるときらめく幻影を見せるのだった。
数日後、かなは夕食の時に母に提案してみた。
「今度、おばあちゃんち模様替えしに行かない?」
「え、何で?おばあちゃんがそうしたいって言った?」
母は目を丸くして言った。
「いや、そういうわけじゃないけど、何となく。」
即行で賛成してくれると思っていたのに、母はしばらく黙ってご飯を食べていた。
「おばあちゃんがそうしたいって言うまで、もう少しそっとしておいてあげようよ。」
しばらくして、口を開いた母は意外にもそう言った。
「なんで?あのまま、おじいちゃんが生きていたときのまんま、一人で家にいるの、よくないんじゃないかな。」
かなはかななりにおばあちゃんを気遣って提案したつもりだった。
「でもね。時間が必要なときもあるよ、きっと。」
「おばあちゃん、おじいちゃんの服とか、まだ片づけたくないんじゃないの?」
弟の太一が偉そうな口を挟んできたので、かなはむっとした。
「それもあるかもしれないけど、でも。」
母はうつむきがちにのろのろと箸を動かしながらつぶやいた。
「環境を変えるパワーって、出そうと思って出せるもんじゃないからね。」
「ママはどうしてしょっちゅう模様替えするのよ。」
かなは少し機嫌を損ねていた。これじゃ、まるで私が無神経な人間みたいじゃない。
「前向きになりたいから、かな。なんちゃってね。子供の前で言うと、照れるぅ。」
母は心なしかほおを紅潮させて、おどけた口調で言った。
「おばあちゃんだって、前向きにならなきゃまずいんじゃないの?」
言い募るかなを、母は照れ笑いが収まらないまま、引きつった笑顔で見つめた。
「そういうのって、本人がその気にならないとね、逆効果になることもあるから。」
かなの父は、数年前から単身赴任で海外に行っている。年に数回しか帰ってこないし、今年はかなが受験だから、夏休みにこちらからも行っていない。父の不在とおじいちゃんを亡くしたおばあちゃんが、母には重なるのだろうか。
「かなや太一も、うんと大人になったらわかるよ。ママだって最近少しそういうの、わかるようになったんだと思う。」
「おれなんか、もうちゃーんとわかるもんねー。」
太一が調子に乗って挑発するようにかなを横目で見ながら言った。
「かなは、いちばん喪失感大きいかもしれないね。」
ふと母は真顔でそう言った。
「なに、ソーシツカンって?」
太一がきょとんとする。生意気な口を利いても、しょせんまだ小学生だ。
「太一が生まれたとき、ママが入院してて、二ヶ月ぐらいおじいちゃんとおばあちゃんと暮らしてたもんね。」
「え、何それ?初耳!」
太一は驚いていた。かなは今まで太一がそれを知らなかったことに驚いていた。
「パパは海の向こうだったし、仕方なかったんだけど、申し訳なかったと思ってるよ。」
「私はすごく楽しかったよ。」
かなはちょっと怒って言う。あの大切な日々を知らない母に、申し訳なくなんて思って欲しくなかった。
「うん。知ってる。かな、帰ってきたとき、すごくきらきらしてたから、ああ、うんと大切にしてもらってたんだなあって、ママもパパも、おじいちゃんとおばあちゃんにうんと感謝した。」
母は目をしばたたいた。
「だからさ、おばあちゃんのご機嫌伺いにはかなが適任だって思ったわけだけど、ひょっとしてかなの方が背負い込んじゃったかな?」
ママは、結局何でもお見通しだ。中三になってもまだ母の手のひらの上にいることを、かなはいやいやながら実感した。
翌々週の日曜日も、また模擬試験だった。風が涼しく、だいぶ過ごしやすくなった曇り空の下、かなは足早におばあちゃんの家に向かった。
チャイムを鳴らして耳を澄ますと、中からとん、とん、とかすかにゆっくり足音がした。そしてドアが開いて、驚いた顔のおばあちゃんがかなを見上げた。
「あらまあ、また来てくれたの?忙しいんだろうに。」
かなはうん、と言って靴を脱いで上がり、まっすぐ仏壇に行くと、目を閉じて手を合わせてから、前に来たときと変わらずそこにある万華鏡を手に取った。
「おばあちゃん、やっぱりこれ、もらってもいい?」
「ああ、いいよ、持って行きなさい。」
かなはおぼろげながら思い出していた。この万華鏡は、太一が生まれてしばらくここに居たとき、家に帰りたいとだだをこねた夜に、おじいちゃんが車を飛ばして遠くの縁日に連れて行ってくれたときに買ったものだ。どこかの神社のお祭りで、真っ暗なのに煌々と裸電球がついた屋台がいくつも建ち並び、金魚すくいやわたあめや、射的やスピードくじなどが幼いかなの目を引いた。おじいちゃんが、「これ覗いてごらん。」と言って、赤い千代紙の筒をかなに手渡した。かながおそるおそる目に当てると、おじいちゃんがかなの手の上からそっとゆっくり、それを回した。
それは、かなにとって、初めて見る魔法だった。きらきら光りながら姿を変えるその向こうに、不思議な世界がどこまでも広がっているように見えた。
どうしてあの時持って帰らなかったのか、思い出せない。けれども、それがおじいちゃんの最後の日々を彩ったことが、かなとの絆が確かなものだったことを物語っているように思えた。
「おじいちゃんの・・・」
形見に、と言いかけて、かなは言い換えた。
「おじいちゃんとの、思い出にしたいの。」
「そう、それはきっとおじいちゃんも喜ぶと思うよ。」
おばあちゃんはいつものにこにこ顔で言った。
それからかなはおばあちゃんと熱いほうじ茶を飲み、ちょっとしけたおせんべいを食べた。
「また来るね。模様替えとか、したくなったらいつでも言ってよ。腰やひざが痛いのに、無理して一人でやろうとしちゃだめだよ。私、一日ぐらいなら助っ人に来るからさ。」
帰りしなにかなはおばあちゃんにそう言った。おばあちゃんは相変わらずの笑顔で、ありがとう、そうするわ、と言った。
帰り道の遊歩道には、もうセミの死骸は転がっていなかった。きっと、みんなアリが運んで行ってしまったのだろう。
気の早いハナミズキが、赤く色づいた葉を落とし始めていた。