蒸気都市に彳む
がこん、と前方で音がする。やや遅れて、楓の体が軽い振動とともに後ろへと引っ張られた。
列車の走りはじめにはよくあることだ。がこん、と後方でも音がする。続けて汽笛の短いいななきとドレンを切る音が響く。その頃にはもう楓の体は引っ張られておらず、止まっているのと同じ状態に落ち着いている。
引っ張られる力は慣性というものらしい。科学に疎い楓にはよく理解できていないが、説明を聞いてからは状況に慣れてしまう力だろうと解釈している。
ほどなく歩廊が滑るようにして流れ去っていく。循環線の列車は都市の中央を目指し勾配を駆けあがる。
昼過ぎの車内は閑散としている。しかし楓は座席に腰かけるでもなく、出入台の柱につかまったまましきりに目をこらして外を眺める。除煙板と風によって吹き上げられた排煙の下端がわずかにかかるが視界を妨げるほどではない。
まだこの都会に慣れていない彼女にとって、車窓を流れる和州一といわれる都会の光景は珍しく、ついつい目移りしてしまう。同時にこの国のあれこれについてもつい尋思してもしまう。
『なぜ帝都なんて名前にしたのかしらん』
奇妙な名前である。いまでは蒸気大戦と呼ばれている先の戦争の後処理により、かつて和州の大半を領していた帝国は地図から消えた。海の向こうの国々と講和条約を締結する際に提示された条件が帝国の解体だったという。国家の解体は政体の変更にもつながる。国家統合の象徴であった帝は位を退かれ、伴い帝位は廃された。なのに、と楓。帝都はなおも健在だ。
帝国解体の後、抛棄された領土の大半は各地の有力者たちの手で独立していった。中には海の向こうの国々が後ろ盾になって興った国もあるが、戦争はこう着状態で休戦となったので他国に占領されるという事態には陥らずにすんだ。そして、帝都は帝都として残った。
正確には『帝都』という名の国家として帝国の首府に指定されていた特別市だけが独立した。だから都市国家などといわれている。だが、と楓。帝都という言葉が国名なのはなんだかしっくりこない感じがする。
『帝都の人は誰も国名に疑問を抱かないのだろうか』
彼女が出会った帝都の出身者は程度の差こそあれ、帝都という国に住んでいることにある種の誇りを感じているらしかった。帝国が両の手で数えきれない国家へと解体されてすでに三十年近くが経つが、なおも帝都が大陸最大の都市でありつづけることに対しての誇りだろうか。
帝都循環線は中央市内では高架線を走る。といっても線路脇にまで建つビルヂングによって眺望が開けるというわけでもない。
楓は、はぁと息を吐いてあちこちを見上げた。高いところを走っていてなお視線が遮られるので、ビル群が聳立しているさまがより強調される。煉瓦と漆喰、石と鉄、そしてセメント。
楓は手巾を取り出して鼻元にあて、ため息にならないようゆっくりと深呼吸した。人工の林が吐き出す呼気に顔をしかめる。空には炭や灰を溶かしたような濛気が浮かぶ。その正体は都市が生きている証として絶えず生み出される煤煙だ。
そんな中でもときどき柔らかな陽光が差しこむ。そのたびに楓は胸をなで下ろす。よかった、今日は本当の曇天ではない、と。
『本当によかったのだろうか?』
むしろ本当の曇天、清らかな空と穏やかな冬の日の下に浮かぶ雲霧の方がよほどよかったかもしれない。
黒雲を生み出す原因の一つは先頭の機関車が吐き出す噴煙だ。
さりとて乙型の蒸気機関車が都市を覆うほどの煙を吐き出すのではない。勾配は終わり力行もすでに止めている。よほど下手な機関士、助士でなければ蒸気を噴出させるような運転はしない。
ならば楓を沈める鈍色の空を描くのは誰だ。それは帝都だ。帝都の人々だ。この空は彼らの生活と、彼らにとって誇りの一つといえる蒸気機関群が生み出している。
蒸気機関による種々の恩恵を受けている帝都は〈蒸気都市〉と呼ばれる。灰の空は蒸気機関による恩寵の証だ。この街は自らの呼気の内にその身を深く横たえている。帝都では青空の方が稀だ。
蒸気都市に住んで日が浅い楓は街を覆う煤煙にいまだ慣れない。それでも着任当初に比べれば、目元のちくちくと刺されるような痛みはだいぶましになってきている。激しい運動をして息を乱したりしなければ咳きこむ回数も減ってきていた。
辛いのならば目を煤などから守るゴウグルという防具でも付けてはどうかと助言されたこともあるが、装着時の姿が不格好なのと、そんなものをつけた試しがないという気恥ずかしさが先立って検討をためらわせていた。また、前にちらりとのぞいた百貨店内の専門店ではずいぶんな値がついていたのも彼女をためらわせる原因の一つだ。なのでもう少し体の様子を見てから購入を検討しようと考えている。
ゴウグルや防煤傘、天然の空気を供給する吸清器といったものはいずれも煤煙や粉塵を含んだ空気を避けるための知恵だ。これらは健康を気遣うような余裕を精神的にも金銭的にも持ち合わせている層が買い求める品々である。楓はけして裕福な生活を送っているわけではないし余裕もない。
出入台に吹きこむ風は、街の路地に靉靆する空気より幾分も新鮮だ。好きな列車の中では目鼻や灰を痛めつける不浄の心配をしなくてもよいのが嬉しい。
『それにしても、まだ見えないのかしらん』
依然として楓は高架の北側に目をこらしている。遠くまで眺められるのは、ビルの間に生じた谷を通過する一瞬ぐらいだ。何十本目かの谷間を通り過ぎて帝都中央駅に近づいてくると、ビルが少し遠ざかっていった。そこで楓はようやく目当てものを発見する。
それは帝都の支配者とも形容される存在だ。蒸気都市の中枢に坐する象徴。帝都に息づく機関たちにかしずかれる女王たる超巨大機関――時計塔だ。
帝都の者に云わせれば、『《時計塔》は象徴であり、守護者であり、支配者である』という。
演算機能を有する思考機関の集合をもったいぶってそう呼んでいるのだろうと楓は把握している。思考機関の導入が進んでいない極東出身の彼女には、蒸気機関である時計塔をそこまで持ち上げる感覚が理解できない。生活に蒸気機関が根差している蒸気都市ならではの感覚なのだろう。
『彼らは時計塔を信奉しているのではなかろうか』
機械にすぎない時計塔に全幅の信頼を寄せているようにもとれる市民の態度から、ともすればそんな風に捉えてしまいそうになる。
むろん楓とてこの科学時代を生きる若者の一人だ。人間の文明を開明させ、生活を向上させてくれる機械や蒸気機関を悪し様に云う気はない。
時計塔が身近に迫ってきた。
帝都の象徴は、楓がこれまでの二十一年間で見たどんな建造物よりも高くそびえている。灰の空をすこしでも元の色に近づけようと努めるかのような青い屋根。足元の烝民など歯牙にもかけず、はるかかなたを見つめる象牙色の文字盤。そしてこれらを仰ぐほど天高くまで突き上げている煉瓦の四角塔。上から下へ向かってやや細くなっているが、全長の真ん中あたりからはまた太くなりはじめている。他のビルヂングなどによって下方を遮られていると、時計塔はまるで下へ向かって細く伸びているようにも見える。側面からは無数に突きだした大小の煙突や蒸気管が塔の輪郭を不揃いにしている。
それさえなければ厳かな姿なのに、と楓は残念がる。
天をこするような楼を縫って近づくにつれ、車内から時計塔の外壁がよりはっきりと視認できてくるようになる。
中層部には空洞の部分があって、そこから内部の巨大な歯車が複雑に絡み合い、ひしめきあっているのが見える。隙間が空いていても崩れないような力学的な計算がなされて建てられているのだろうが、建築学やら力学やらがわからない楓は、空洞を起点に塔が崩れやしないかと気を揉んでしまう。
時計塔を見るのは初めてではないが、かつては不揃いな輪郭を目にしただけだった。初めて時計塔を目にした彼女は帝都の象徴を、幾つもの武器を突き刺された挙句に大地に突き立てられた大蛇に見立てた。この印象は今も変わりない。それどころか、かえってその思いを強くする結果となった。歯車が見える空洞部が、蛇の肉体が腐朽していく様を抱かせたからだ。
農耕が盛んな地方では、蛇は雨を招き豊穣を呼ぶ神として祀られている。しかし帝都に田畑はない。あるのは蒸気機関の排熱と人熱れの中に沈む大都だ。自然といえば森林公園と名付けられた都市と国境との間に広がる緑地帯ぐらいで。農産物はほとんどすべてを輸入に頼っている。そんな帝都だからこそ、豊穣の神は不要なのかもしれない。朽ちゆく蛇体の中から新たにいづるのは帝都の象徴だ。
『こんなにも近づかないと時計塔は見えない』
彼女が初めて時計塔を見たのは東部市の中央停車場だったと記憶している。しかしそれは奇妙な話を生じさせた。あとで聞いたところによると、東部市の停車場から時計塔までの距離は実に六里近くも隔たっているというのである。六里先の建物を見るにはどれだけの高さがあればいいのか計算できない楓だが、地平に立って見渡せる地平線までの距離はせいぜい一里ちょっとだというのは知っている。それに理論はともかく彼女は経験を得ている。つまり、楓は六里という距離を知ってから何度も東部市駅から時計塔を見ようと試みたが、その際にはただの一度も望めなかったのである。
『ならばあの時に見た時計塔はいったい……』
『時計塔がいかに高くっても帝都のどこからでも見えるってわけじゃないんですよ。先輩が見たのはどこかのビルの搭屋じゃないですか?』
務め先の同僚に指摘されてから、楓は何か別のものと見間違えたのだろうとして己を納得させようとしている。あの時に目にした時計塔と、いま目の前にそびえている時計塔の形状は一致している。ならばあれあれは……。奇妙ではあるが、見えないものは見えないのだ。
この科学の時代、科学技術の粋ともいえる時計塔に限って怪しい現象を引き起こす恐れはないだろう。するとまた、科学の時代という言葉に引っかかって、余計なものがまざまざと思い返されてくる。
『人のために科学があるのではなく、科学のために人がある』
かつて楓と対峙した、人のために役立てられるべき科学を悪用せんと企てる不義の輩の言である。他人を道具のように扱う奸邪。科学がもたらす平和な未来観を『手垢のついたお題目』と否定された楓は興奮して、彼の態度も学問に対する姿勢をも悪と断じた。それは今でも誤りではないと信じている。
だが、先の言葉だけは引っかかっていた。帝都の住人、街を埋める蒸気機関、空を塗りつぶす煤煙、そして時計塔と住民との関係、これらを見ていると、彼の発言は案外と的を射ているのかもしれない、という気がしてくる。
『私には賛同できそうもない。だけど、その意味についてはよく考えてみたい、と思う――』
ふと、体を前に引っ張られて楓の思考は遮られた。発車時とは逆にはたらく慣性なる力に押されたのだ。汽車が歩廊にゆっくりと滑りこむ。やがて停車目標に合わせてがこん、と音を立てて止まる。
楓の思考を強制的に打ち切らせるかのように、列車は帝都中央駅に到着した。