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二度目の、おはなし。  作者: 白黒音夢
誰を思うのか。
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誰を想うのか。後編



 トントントン。包丁の刃がまな板を叩く。

 わたしのエプロンを掛けながら野菜を切っているのは、海君だ。


「コレ、切れ味抜群ですね」

「来る前に研いでおいたからね」


 それにしても、やけに手慣れている。


「海君って一人暮らしじゃないんでしょ?」

「家族と住んでるけど、結構作ってますよ」


 手を止め、こちらを向いて、それから海君は言う。


「自分の指を切っちゃわないくらいには慣れてます」

「……最近料理してなかったから腕が鈍っちゃって……ってなんて清々しい笑顔」

「誰かに料理を作るってのが久々で、ちょっと嬉しいんですよ」

「怪我人は座っててください」と、指に巻いてある絆創膏を見た。

「調味料の場所とか、分からなかったら聞いてね」と告げてソファーに座った。


 ここからはキッチンが見渡せるから、海君が何をしているかもよく見える。

 今は人参の皮を剥いている。

 日曜日の午前十時半時。昼食の準備をしている。

 数回ほどメールを交換して、お礼はわたしが料理をご馳走することに決まった。

 そして腕を振るおうとしたけれど、野菜を切り始めてすぐに指を切ってしまった。

 卓が居なくなってから包丁を握ってなくて、たぶん下手になっていたのだろう。

 わたしの料理の腕を判断したのだろうか、海君は「俺やりますよ」と言って、作り手を交代してくれた。


「情けないことこの上ない……」


 独り言が聞こえたのか、海君は振り返った。

 「なんでもないよ」と返すと、彼はまた野菜を切る作業に没頭し始めた。

 わたしが作ろうとしたのは――もとい、今海君が作っているのはポトフだ。

 夏野菜をたっぷり入れたヤツで、若者に栄養を与えようとしたのだ。

 作っているのが海君だから、どうしても過去完了形になっちゃうなあ。


 さて、どうでもいいけど、わたしが作ろうとしたポトフはこんな感じだ。


 みじん切りにしたにんにくを、じっくりとオリーブオイルで炒める。

 ニンニクの香りが油に移ったところで、厚く切ったベーコンを放り込んで強火で焼く。

 そしてトマト以外の野菜を、硬いモノから順に鍋に入れて、油と馴染ませるように混ぜる。

 トマトをその上におく。

 そこに水と顆粒コンソメ、ローリエと塩こしょうを加え、味を調える。

 鍋にふたをして、野菜が柔らかくなるまで待つ。


 海君はどういう手順で作ったんだろうか。


「1時間くらい暇ができましたけど、どうしましょうか?」


 十分ほど加圧して、それから少し放置する。


「テスト近いから勉強するって言ってたじゃない」


 海君は手を洗いながら、気怠そうな声で答える。


「そうなんですけどね。実際に勉強しようと思うと途端にやる気がなくなりますね」


 そんなものよね。と内心では彼の言葉に同意しつつ、わたしは首を振った。


「ほらほら、早くしないと」


 塾で生徒達を急かすときのように海君に声を掛ける。

 わたしの雰囲気が少し変わったのを見て、彼は数度瞬きを繰り返して、それから苦い笑みを漏らした。


「どうしたの?」

「なんだか学校の先生みたいだなーって」


 ああ、そうか。海君はまだわたしの素性を知らないんだ。

 海君の認識としては、『夜も遅くに酒類を買いに来る不思議な女』であろう。


「あー。うん。わたし、仕事で塾の講師をしてるの」

「え、ホントですか? じゃあ分からないところとか聞いてもいいですか?」


 わたしにそう尋ねてくる海君の瞳は、ウキウキとかワクワクとか、そういう言葉で表せそうな表情だった。

 口調はいつも通りで、起伏がなく平坦だけど。

 その目を見るまでは「自分でやりなよ」と言うつもりだったけれど、初めて見るその瞳に、わたしは否定の言葉を紡げなかった。


「わたしが塾で教えてるのは小中学生だから、あまりアテにはしないでね」


 そうおどけて、わたしは麦茶を用意するために冷蔵庫を開けた。

 麦茶をたっぷりとコップに注ぎ、それを両手に持ちながらテーブルに置く。

 海君の隣に座って、彼が今真剣に眺めている教科書やノートを覗き込む。

 数学か。


「早速なんですけど――」


 チラッと横目で見てきたので、ブンブンと首を振った。


「わたしは文系だったし、塾でだって国語しか教えてないんだから」

「……要するに?」

「教えるのは無理」


 教えるどころか自分で理解するのだって無理だ。


「まあ、そんなもんですよね」

「馬鹿にしてる?」

「いや、そうじゃなくて、人に教えるのって、教わる側の三倍の理解が必要だーとかって言うじゃないですか」

「実際、三倍どころじゃないけど」

「ですよね。俺、学校で友達に勉強教えてるんですけど、凄く難しいですもん。上手な教え方ってないかなーって思ってるんですけど、どうですか?」


 何が?


「『どうですか?』ってどういうこと……?」

「なんかありませんか?」

「逆にわたしに教えてよ。そんなのあったら誰も苦労しないと思うし、苦労しながらも研鑽して、自分で培った方法が大事なんじゃないかな」

「そんなもんですか」

「そんなもんですよ」


 動かしていたペンを数秒止め、小さく頷いてから、彼はまた手を動かし始めた。

 海君は黙って問題を解いていたから、わたしは本棚から読みかけの本を手に取って彼の隣に座った。教科書を捲る音とペンが動く音だけが響いている。一定間隔で似たような音が続くと、なんだか眠たくなってくる。きっと、好きな人の心音を聞いていると安心するのとおんなじような理屈だろうか。流れている時間が柔らかくて、なんだか温かい。

 文字が目で追えない。認識できないくらいに視界がぼやけている。

 それから、ぷつっと記憶が途切れた。

 どのくらいの時間が経ったのか分からないけど、目を開けると心配そうにしている海君の顔が見えた。


「ごめん。寝ちゃってたね」

「あんまり気持ちよさそうなんで放っておきました」


 茶目っ気たっぷりにそう言って、彼は勉強道具を鞄に入れ始めた。


「ほんとにごめんね」


 まさか寝てしまうとは。申し訳なくてもう一度謝った。


「いいですって。俺もたくさん勉強しましたし。おかげでやっと課題終わりました――ってそれはそうと、料理どうします?」


 あぁ、料理を作ってもらったんだった。

 少し動きが止まってしまったわたしを勘違いしたのか、「何かあるなら、俺は帰りますよ?」と言った。

 そういえば、今日は吾妻さんと会う予定だった。食事でも、とメールが送られてきたのは二日前だったか。きっと吾妻さんはその後にしか興味が無いのに、わたしはいつか彼に受け入れて貰えると信じているのだ。ホントは色々と分かってるんだけど。

 とにかく、今から支度をしてとなると面倒なことは確かだった。それに、海君と喋っていると、胸奥の不浄な部分が癒やされて、がさついた心の棘が抜けていく気がした。

 吾妻さんの冷たい瞳を思い出しながら、わたしは海君の目を見つめた。


「ううん。何もないよ。準備してくれる?」


 そう優しく告げて、わたしは読みかけの本を置きに隣の部屋まで行った。

 海君は鍋に火を掛け始めたり、戸棚から食器を出したりしている。

 その間にわたしは吾妻さんにメールを打つ。……返事が来ないのを分かっていようとも。


『用事ができたので今日は行けません』


 居間に戻ってみると、さっきまで勉強道具で散乱していた机が片付けられていた。

 綺麗になった机に、海君は鍋敷き敷いた。


「この鍋敷き、綺麗な模様ですね」

「でしょ?」

「わたしが作ったのよ」


 と言うと、海君は胡散臭そうな目付きでわたしを見てきた。


「こんなモノ作れるんですか? 野菜切るだけでも手を血だらけにしてるのに」

「血だらけにはなってないでしょ」


 しかも手じゃない。指先だ。


「ほんと、最近なんにもしてなかったけど、昔はしっかりしてたのよ。小物だって料理だってね」


 細められた目で、海君は尋ねてきた。


「……失恋ですか?」


 苦笑しながら頷く。


「そんなところ」


 ただの失恋ならいい。

 何度でも告白すればいい。

 けれど、卓はもう居ない。

 一度は叶った恋なんだけど、もう二度と成就することはない。

 神様に振られてしまったのだ。


「じゃ、食べましょうか」


 ポトフ入りの鍋からはモクモクと湯気が出ていて、美味しそうな匂いが部屋中に立ち込めていた。

 これはコンビニの弁当でもスーパーの総菜でも出せない香り。

 ちゃんと人の手が加えられている証だ。

 白い皿に、大きく切られた野菜やベーコンが盛り付けられる。

 いただきますと小さく呟いて、わたしは人参を口に入れた。

 大きいけれど芯まで柔らかくなっており、トマトの味が染み込んでいた。

 冷房で冷えてしまった身体がポカポカと熱くなってくる。


「ホントに美味しいね」

「俺の料理ですからね。……てか、本当は作ってもらう予定だったのになあ」


 この子、案外性格悪いのかも。会ったときはいい子だと思っていたのに。

 海君はお皿を空にして、二杯目に突入していた。


「さっきから気になってたんだけどさ、そのマスタードどうするの?」

「どうするって、付けて食べるに決まってるじゃないですか」


 そういう食べ方もありなのね。


「付けてみます?」


 マスタードを受け取り、チューブからにゅるっと出して野菜に付ける。

 大分前に買ったモノだから風味は損なわれていたけれど、いつもとは違ったポトフの味が鼻腔を通り抜けていき、少しずつ、少しずつ、スプーンを運ぶ速度が上がっていく。

 とは言っても一杯食べただけでお腹は膨れたけれど。


「美味しいね」

「でしょう?」


 思えば卓も、こんなふうにバクバクと食べていた。細いくせに、やたら大食らいで。

 振り返っても過去は過去だし、無意味なことだって分かっているけれど、思い出してしまう。

 それはきっと、目の前で美味しそうに頬張っていく海君のせいだ。

 思わず口元を上げてしまって、苦い笑いが出そうになった。


「どうしたんですか?」

「昔、似たなことがあった気がするなあって」

「え?」

「こういう想い出が、昔あった気がするの」


 穏やかな話し声が部屋に広がって。

 気にするほどの大きさじゃないのに、声が途切れるとやけ大きく聞こえる時計の音。

 想い出は、記憶と記憶の隙間からふつふつと泡のように弾けていく。


「想い出に浸るほど歳とってないと思いますよ」

「当たり前じゃない。現在いまが一番大切よ」


 わたしが発した言葉はドコに向かっているんだろう。

 ふむ、といった表情で海君は頷いているけど、わたしは自分に向かって話し掛けているんだ。

 自分に言い聞かせるように。

 過去なんて、忘れてしまえ。

 自分に言い聞かせるために。

 いまが一番大切なんだよ、って。

 黙っていた海君がゆっくりと口を開いた。


「遠野さん。それは違いますよ」

「え?」

「過去も、いまも、未来も、同じだけの価値だから、たぶん全てが等しく大事なモノだと思います――俺の考えですけど」


 ん。

 小さく頷いて、わたしはもう一口ポトフを食べる。

 熱々ではなくなっていたポトフだったけれど、口に含めばちょうどいい温度だ。

 気のせいに決まっているけれど、味が深まっている気がする。

 そう。気がするだけなんだけど。

 最初の一口より、なんだか優しい味だったんだ。




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