運命だけは、変わらない。後編
薄緑色のカーテンの隙間から、ぼやけたような光が漏れていた。
その淡い光に触れてみたくて、カーテンも窓も開けた。
静かな音を立てながら、夏の生温い風が入ってくる。
湿り気のない乾いた空気を包むように、星が光っていた。
その眩さとは裏腹に、夜空はいつだって孤独の色をしていると思う。
そんな寂しい空を見上げながら、わたしは缶ビールをチビチビと飲む。
あまり強くもないお酒を飲んで、喉を焼いて、何かに酔って。もう四本目だっけ。
がらんどうになってしまった室内を、月明かりだけが照らしている。
ビール、もう無いなあ。
ベランダに出て、体重を掛ければすぐに壊れてしまいそうな細い鉄柵に身体を預けた。
そうしてわたしは、星に向かって手を伸ばす。
届くはずもない星に向かって、手を伸ばす。
おとぎ話を信じてやまない子供のように。
まだ、まだ、掴めるような気がするから。
寂寥感だけが募って、心が壊れそうになって、ベッドに倒れ込む。
ぽたぽたと流れ落ちる涙を拭ってくれる人はもう居ない。
慰めてくれる人は、もう居ないのだ。
張り詰めていた心が弛緩していって、今日を忘れていくための睡眠が訪れる。
微睡んでいく自分が、一人きりに慣れていくことが。
何よりも嫌だった。
眠りたくなんてないのに、眠りたくなんかないのに。
わたしはそうやって、自己嫌悪と寂しさを重ねていきながら、一日を終えていく。
『ただいま』
……酷く掠れた声した。
大切な人の声で、目が覚めた。
『お帰りなさい』
…………口からは、寝ぼけた声が出た。
『起きてたの?』
………………驚いた声が響く。
いつも貴方ばっかりわたしの顔を見ているから、その日は頑張ったんだよ。
『ちょっと寝ちゃったけど、帰ってきた音で目ぇ覚めたよ』
頑張って、起きてたんだ。
夢の中でわたしは貴方と話している。
貴方は『ありがとう』って言いながら、大きな手でわたしの髪をくしゃくしゃと撫でた。
その手の感触に心が落ち着いて、胸の鼓動が優しい色に染められていく。
まだ混濁している。
今を認められないから、昔の記憶が忘れられない。
それが心を抉り、傷を深くする。
『まだ寝てなかった?』
そう聞こえた気がした。
寝てたよ。寝てたんだけどね、貴方がいないから、ちゃんと眠れないの。
そんなふうに言ってみたい。
どうしたら、貴方に告げられるの。
どうやったら、卓は戻ってくるの。
大きく息を吐いて、わたしは目を開けた。
その問答は意味が無いのだ。
だって答えは既に出ていて、すべて分かってしまっている。
言えないし、告げられないし、戻ってはこないのだ。
それが現実だ。
テクテクと歩いて、開けっ放しにしていたベランダから外を眺める。
熟睡はできなかったらしく、まだ夜は明けていなかった。
もう一度飲もうかと思ったけど、先ほど、最後のビールを飲み干してしまったのだった。
買いに行くか。
汗や涙で汚れてしまった衣服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて、わたしは家を出た。
それにしても、本当に真っ暗だ。今は一体何時なんだろう。
バッグに入れてあった携帯電話を取りだして時間を確認すると、まだ二時手前だった。
ところどころ汚いと思える階段を下りて、ゆっくりとコンビニまで歩く。
ときおり、遠くから車の走っている音が聞こえるくらいで、あとは無音だった。
この時間だからか、誰ともすれ違わない。影は一人分だ。
通り抜けるのは気持ちの悪い風だけ。
こんなふうにして、わたしの世界は狭まっていくんだろうか。
それは怖いことだけれど、卓を失った世界に興味はないのかもしれない。
終わらせることができるのなら、いっそのこと終わらせたい。
贖罪ではないけど、せめて、自分をぼろぼろにしたい。
自分自身を傷つけて、傷つけて、そうして死んでいきたい。
いつまでも続くと思われた細道を、いつの間にか抜けていた。
細道を通り過ぎると、ちょうど交差点に出る。
信号を確かめようとして、苦笑した。周りには誰一人として居ないじゃないか。
交差点の先に見えるのは、もったりとしたオレンジ色の看板だ。橙色の蛍光がとても温かくて、わたしは熱を求めるようにコンビニの中に入った。
……身体的に求めていたのは、空調の効いた空間だったけれども。
なんて、自嘲交じりのツッコミを入れながら、わたしは買い物カゴを手に取った。
居るはずの店員から、挨拶がないことが気になったわたしは、店員と目を合わせるべくレジに視線を向けた。
若そうな男性店員は、立ちながら船を漕ぐという凄いワザを披露していた。
まあ、こんな時間だから仕方がないのかもしれないけど。
少し呆れながら、わたしはお酒のつまみを選んでいた。
チーズがいいかな。それとも鮭トバがいいか。
……悩んでいたけど、選ぶのに疲れてしまった。
この際どっちも買っちゃおうかな。
そう思って、両方カゴに入れているところで入り口の手動ドアが開いた。
今度は、うたた寝をしていた店員も気付いたようで、目を擦りながら挨拶をしていた。
声に覇気がないなあ。
なんて、生きていく活力を失ってしまったわたしが何を言うのだろうか。
様々なことを考えても、すべて自分に返ってくる。なんだか、どんな思考も無意味な気がする。
六缶パックのビールを二つほどカゴに入れようと思ったのに、一つ落としてしまった。
幸い、馬鹿大きい音は立たなかったけれど、それでも店内にその音は響いた。
……ちゃんと、寝ていないからだなあ。
はあ。
大きなため息を吐いたわたしは、ビールを拾おうと前に屈む。
けど、先ほど入ってきたお客さんがわたしより早くそれを拾っていた。
「大丈夫でしたか?」
とても若い男の子――正確には、幼いとも言える子が、わたしの前にいた。
「ああ、うん。大丈夫。ありがとうね」
わたしは彼が持っている買い物カゴに目を奪われた。わたしと似たような品――つまりはお酒とつまみを買おうとしていた。
ただ、わたしと違ってビールではなく、馬鹿でかい焼酎が入っていた。
この子はどう見たって高校生くらいで、二十歳を越えていないと思う。
そんな訝しげな視線に気付いたのか、彼は苦笑いしながら、『飲むのは俺じゃないです』と前置きし、ゆっくりと話した。
「……今日親戚が集まっちゃって、ウチで飲み会みたいなことやってて。で、足りなくなっちゃってー。みたいな」
なるほど。けど、夜も遅くに――もう少ししたら空が白み始めてくるというのに、親は学生に買い物を頼むのかな。明日だって学校でしょ。
「そっか。でもキミ、どうしてビール買えるの?」
普通なら未成年は購入できないはずなのに。
「それは……ここの店員さんが寝ぼけてるから買えるんですよ。それに、悪いことはしないですし」
と彼は言うが、真偽は分からない。真相は、わたしには直接関係のないことだ。
彼がお酒を飲んでいたところで、わたしにはなんの影響もない。
けれど、わたしの立場は教育者だ。今を生きている若者にお節介を焼かせてもらう。
「分かってると思うけど、買ってるのばれたら危ないんだからね?」
学校にもよるが、酒類の購入がばれれば、一度目は停学だ。
本人はその程度の罪で許されるが、実際に刑法で罰せられるのは店員だか親だった気がする。正直、よく覚えていないけど……。
わたしの言葉を聞いた学生はまた苦笑いをし、「分かりました」とだけ言って頷いた。
寝ぼけた店員にカゴを渡し、表示された金額を払った。
それにしてもこの店員、手つきは危なっかしいし声はボソボソしてるし間抜け面だし、いっそ本社に匿名で苦情を言ってやろうかな。
店員はゆったりとした動作で品物をビニール袋に入れ、わたしに品物を渡した。
店を出る際、わたしは学生君に向かって話し掛けた。
「夜遅いから、気をつけてね?」
「……不審者は男って相場は決まってますよ。だから俺は大丈夫です。それより貴方こそ心配ですよ。お酒、あんまり飲み過ぎないでくださいね」
逆に心配されてしまった。
「こっちも大丈夫。襲われる可能性なんて万に一つくらいしかないよ」
おかしな言葉を使ってしまったけど、事実だ。
絶対なんて絶対にない。
考えも及ばないような不条理が襲いかかってくることをわたしは知っている。
受け入れがたい非現実が現実に変わっていく様を、わたしは知っているんだ。
襲われるなら、それはそれで一向に構わない。
卓のことを忘れるくらいの衝撃が起こるなら、それが悲しい出来事でも構わない。
そんなことを思って、浮かべてしまいそうになった悲しい笑みを、わたしは作ることができなかった。
それは彼が、とても寂しげな笑みを浮かべていたからだ。
「そんなことないですよ。それじゃ」
彼が手を振ったので、わたしもヒラリと手を振る。
冷房の効きすぎた店から出ると、身体が蕩けてしまいそうになった。
昼間のような直射日光はないけれど、その残滓が残っている。
アスファルトから、微かな熱が立ち上っている。
噎せ返るような熱は、まだ抜けていない。
季節は移ろっていくけれど、胸を差す痛みはこの先も消えないだろう。
思い出して、消えなくて、まだ存在しているけれど。
卓を失ってしまったという、
運命だけは、変わらない。