敵前逃亡
「「遅い!」綾は腕組みをして怒鳴った。
電車の到着予定時刻は17時34分。改札までの時間を考えて17時40分で連絡し、今は17時38分。遅れてはいない。ただこういう時は反論しても無駄だと楠田は経験上わかっているので、謝る。
「ごめん」
「なんだよ、すごい汗。その上何、その荷物」
どうやら楠田の風貌がお気に召さないらしい。綾は眉をしかめた。
「あ~宿直明けでちょっと茨城に・・・」楠田がちょっと言いよどむと綾はピンときたらしい。
「またぁ?ゲンも相変わらず、すきだねえ。いい加減大人になったら?結婚したいんでしょ」
軽口を叩く綾に、先ほどの電話やメールほどの緊迫感はない。思ったよりも調子がいいんだろうか、とちょっと安堵する。楠田は結構楽天的な性格だ。
「俺、中華、食いたい」先手必勝。説明しづらい店に変えられては困るので、ここは中華を主張する。旦那には80%の確率でいつもの中華だとメールしてある。
ええ!?またぁと文句を言いつつも、元々綾のお気に入りの店なのであまり異論はないらしい。それ以上反論しなかった。
「あたし、決めた」
ビールとザーサイがきて、まず乾杯~と飲んで人心地ついて、さて、話でも聞くかと身構えようとしたところで綾が切り出した。
「何を」楠田はザーサイを口に放り込みながら聞いた。
「うち、出る」
「は?」
「うち、出る、って言ってんの。別れる」
「なな、な、何言ってんだよ」まだ酔うほど飲んでいないと言うのに、楠田の思考回路は緊急停止状態だ。
「何、どもってんのよ」綾は冷静そうに見える、一見。
あの人、浮気してんのよ。綾がぼそっとつぶやいた。
「だから、別れる」
浮気してんだから、別れて、当然でしょ。綾は他人ごとのように言った。
「いや、いや、待て。旦那が浮気してるって、なんで、そう思うんだ!ただの誤解かもしれないだろ」
楠田はあせって上手く回らない頭と舌に思わず舌打ちしたくなった。
「誤解じゃないよ。間違いないの」綾は楠田を睨みつけた。
「なんか証拠があるのかよ」
「夫婦だもん。わかるよ」
こういう時、なんと言っていいのか分からない。楠田は自分の経験値のなさを呪った。こういうスキルってどこで磨くんだ。
「いや、夫婦だから分かるって・・・そんなもんか?」
ゲンには分かんないよ!結婚したことないくせに。
こういわれては反論するのは難しい。いやいや取り調べの基本を思い出せ。楠田は頭を振った。
「なんで孝之さんが浮気してるって思ったんだ」孝之さんってのは綾の旦那だ。
「思ったんじゃないってば!」切れ掛かる綾を楠田はなだめた。
「浮気しているとなんで気が付いた」最初からこういえばよかった。どうも俺は口がへただな。楠田は苦った。
だって、毎晩帰りが遅いし。それに電話しても直ぐ出ない。ほらみろ、決定的だ、と言わんばかりに綾は楠田を睨みつけた。
ちょっと待て。
「いや、毎晩遅いのは、仕事だろうよ。最近忙しいってこの間綾も言ってたじゃん」
「それがうそなの。仕事なんかじゃないのよ。絶対女のところに行ってるの」
なんで、女のところに行っていると思うんだ。と言った後で自分の口を楠田は呪った。
「思うんじゃないってば!」
「いや、ごめんって。俺が、口下手なのは知ってるだろ。なんで女のところへ行っていると気がついた、と言いたかったんだって」
綾のヒステリーは楠田には悲鳴のように聞こえる。彼女の心は一度折れて以来、薬なしには安定を保てない。
そして時々薬を飲んでいても、こうして不安定になる。
楠田と綾は大学時代のゼミの仲間だった。とても仲の良いゼミで、よく全員つるんでどこかへ出かけた。卒業してからもみんなで何度も集まっていたが、綾のすがるような不安定さに耐えられず、離れていった者も多い。
最後には綾がくるならやめとく、という者までいた。
30台になれば、結婚して手のかかる子供のいる者もいれば、責任ある仕事を任されている者もいる。皆自分のことで精一杯で、脈絡のない長電話や長話に付き合う余裕はない。
しかも綾は自分が病気だからだろうか、人のことを思いやる余裕がなく、自分の話ばかりになってしまう。
朋美に電話して旦那の愚痴を2時間も話し、朋美が耐えられず電話を切ると、今度は香織に電話して朋美の付き合いの悪さを愚痴る、という感じでゼミのほぼ全員に電話をしまくり、女子が先に根を上げた。
女性の方が話を親身に聞くのだろう。だからこそ、余計に疲れるのだ。愚痴や悪口ばかり聞かされる時間が。
綾に対して面と向かって言ったのはゼミのリーダー格だった朋美だった。綾は学生時代から朋美を慕っていたため、朋美に電話する回数が断然多く、働きながら小さい子供もいる朋美には負担だったのだろう。
面倒見の良い朋美が綾に向かって言ったのは、ゼミの同期会でのことだった。
「あんたが病気になったのは気の毒だと思う。自分のことでいっぱいいっぱいで人のことを気遣う余裕がないんだとは思う。でも友達をなくしたくないんだったら、いい加減にしな。自分の孤独に甘えるな。誰だって『だれも自分をわかってくれない』という気持ちはあるって。でもさあ、それを口に出せるほど、あんたは人のことを分かっているの。自分が出来ないことを人に求めるのはやめな。誰しも皆、自分で精一杯よ。自分の足で立ちな。あんたを理解しないからって、その子の悪口を他の子に言うのはやめな。あんたを貶めるだけよ」
綾はうなり声を上げて泣き、次の日からまた入院した。
朋美が綾の旦那に連絡を取り謝罪し、数ヶ月前からの綾の現状を話して病院に連れて行くよう言ったらしかった。
退院してから綾は女友達ではなく、男友達にばかり連絡を取るようになった。女性陣は電話に出ないようにしていると楠田はうわさで聞いた。
朋美は心配して時々楠田に連絡をよこす。心配なら直接綾に連絡すればどうかと思うが、さすがに取りづらいものらしい。
あんたもあんまり無理はせず、適当にかわしなよ。と面倒見の良い朋美は楠田の心配までして電話を切る。
綾はあれから朋美を記憶から抹消してしまったかのように、まったく話題に乗せない。最初のころは、朋美がどんなにいい子かを、最後は朋美がどんなに冷たいかを話していたのに、今はまったく口にしない。
というかゼミのメンバーの誰かの話をまったくしない。そもそも大学時代など存在しなかったかのような口ぶりなのだ。「自分を理解しないからと言ってその子の悪口を人に言うな」がよっぽど堪えたのだろうか、その部分に関してはかたくなに心を閉ざしたように見える。
「私が忙しさにかまけて、綾をおろそかにしてしまい、お友達にも随分ご迷惑をおかけしました」はご主人が朋美にした謝罪だ。ご主人は朋美に連絡をもらわなければ、そこまで悪化しているとは気がつかなかった、と反省していたそうだ。もう、3年前になるだろうか。
「ちょっと、ゲン!ゲンってば!人の話聞いてんの!」
綾に怒鳴られて、楠田はふいに物思いから覚めた。悪い悪い、昨日徹夜だからさあ。と言い訳する。
このヒステリックさに、強迫観念じみた妄想、これは悪化しているんだろうか。それとも旦那が本当に浮気しているんだろうか。医者でもないのに、判断がつくはずもない。
ただなんとなく、物事が一方向からしか見えなくなっている感じが、危うい気がする。
楠田が長年の経験で分かったことは、こういう時には、下手なアドバイスよりも、話を、言い分を良く聞く、ということだ。途中でさえぎって主張を否定してもだめだし、こうした方がいい、というアドバイスもあまり役に立たない。
話を聞き、彼女の心が悲鳴をあげている原因は何なのかを突き止めることが一番良いようだ。
綾の悲鳴は分かりやすかった。要は「旦那が自分に嫌気がさしている。別れようと言われるくらいなら先に自分から別れる」だ。
綾にとって、旦那の孝之さんが全てだ。他の人間はあくまでも代打にすぎないと、思い知らされる。
俺じゃだめか、という言葉は、結局いつも、出てこない。言う余地がないのだ。
「綾」
ヒーローはいつもタイミングよく現れるもんだな。楠田は少し感心した。綾の旦那、藤木孝之は、どうやら残業をほっぽりだして駆けつけたらしい。新宿駅から歩いて10分のこの店まで走ったのだろう、息を切らしながら綾の肩に手をかけた。
「なによ、何しに来たの」強がろうとしても綾の言葉の語尾は震えている。
あんた、なんでしゃべるのよ。楠田を睨みつけるが、目いっぱいに涙をためながら睨まれても、怖くもなんともない。というかむしろ、胸が痛い。
じゃ、俺、帰るわ。テーブルに金を置いて帰ろうとした楠田を藤木が止めた。あ、ここは私がもちます。
自分の分は払います、と無理強いしても良かったが、大人気ないので、じゃご馳走になります、と引いた。
これ以上、二人を見ていたくない、というのが本音だった。
綾がどんな風に、藤木に支えられているのか見て、冷静でいる自信がない。
ヘタレだな、俺。楠田は自嘲した。
徹夜明けで汗だくで、泥まみれで、荷物は重い。その上。
楠田は電車の天井を見上げて嘆息した。
心まで重たかった。