緊急招集
30分だけ、という飲み会を解放されたのは、45分後だった。来た電車に飛び乗ったところで、楠田の胸ポケットで携帯が震えた。バイブから、メールではなく、着信だと分かる。見ると、綾からだ。16時までにさらにもう3回着信があったから、痺れを切らしたのだろう。
本当は電車に乗る前にかけようと思ったが、ちょうど電車が着たので乗ってしまったのだ。
楠田は軽く舌打ちをして小声で電話にでた。
「遅いよ、ゲン!なにやってんの」悲鳴に近い。
「悪かったよ。電話、取れなくてさ」
「ひどいよ、もう。今から30分以内に迎えにきて」ここは茨城だ。30分で都内にたどり着けるわけがない。
「あ~おごるからさ、2時間後に新宿、ってことで」一度ヒステリックになった綾をなだめるのは骨が折れる。
宿直明けで、朝から炎天下でサバゲーを興じ、汗だく、リュックは銃器と汗だくの着替えと飲み残したペットボトルでめちゃくちゃ重い。うちに帰ってシャワーを浴びて眠りたいのが本心だが、そんなことは言ってられない。
「悪い、今電車だから切るぞ。新宿についたら連絡するから」周りの目を気にしながら楠田は電話を切った。
綾がバランスを崩したのはいつのことだっただろうか。大学時代から多少神経質だとは思っていたが、入院が必要なほど病気が重くなって初めて、ああ、そういえば、あの時から・・・と思っただけだ。
入院したのは社会人生活がそれぞれ板についたころだっただろうか。面会謝絶を身内だと偽って見舞いに行った。
大学時代のふっくらとした丸顔は頬がこけ、驚くほど細くなった手首には点滴の管と無数の赤い線があった。
「なんだ、元気そうじゃん」セリフはありえないほど陳腐に響いた。
元気そうなわけがない。目は落ち窪み、頬はコケ、皮膚はガサガサで、生気がない、とはこういう状態だ、という見本のようだった。
それでも彼女は笑った。
「あ、ゲン。来てくれたんだ~他のヤツ薄情でさあ、誰も見舞いに来やしないんだよね・・・あ、林檎食べる?プリンもあるよ。ゲン、甘党だったよね。確かロールケーキもあるんだ。そういやさ~」
彼女は弾丸のようにしゃべり続けた。どうやら面会謝絶になっていることを知らないようだった。
楠田は笑わなきゃ、とただそれだけを考えていた。
彼女に入院を勧めたのは、その時付き合っていた男で、この男のおかげで彼女は立ち直ったと言って過言ではない。仕事をやめて、彼女を付きっきりで世話し、彼女の退院を待って、結婚した。
今でも思う。俺が支えてやることはできなかっただろうか。仕事をやめて?あの時の俺に仕事をやめて人を支えられるほどの貯蓄はなかったし、やめる勇気があっただろうか。
結局、彼女は自分を支えてくれた男を選んだ。正しい。ただ、何度となく思うのだ、俺が支えてやれたら、と。
一度バランスを崩したら、どうやら完治は難しいのか、時々心が悲鳴をあげる様だ。
そして、今は旦那となった男がいつもそばにいてやれるとは限らない。彼女はそのたびにあちこちにSOSのサインを出す。きっと俺以外にも連絡していることだろう。あのヒステリックな悲鳴からどうやら今回連絡が取れたのは俺だけのようだ。少し考えて旦那に彼女と新宿で食事をする旨のメールを送る。旦那とけんかをしているのか、旦那の外出中に彼女がバランスをくずしたのか不明だが、旦那の外出中に彼女から連絡があって会う際には、旦那に連絡するのが友人間の不文律になっている。新宿に行きつけの中華があるので、きっとそこになるだろう。ここ10日ばかり連絡がなかったから落ち着いているものとばかり思っていたが・・・
物思いにふけりかけ、あわてて綾に到着時刻をメールした。