私が望んだ薄汚れた世界は
朝餉は豪華だった。今まで満足に食事ができなかった女媧の胃は小さい。味の濃いものに慣れていないと考慮されてか彼女に出されたものは淡泊なものが多かった。しかし元々あまり食べられないからと言って食欲がないわけではない、奴隷生活ではいつだって腹が減っていたのだ。
しかし朝餉を前にして吐き気がした。食欲が純粋に湧かない。それを周囲の人間は「まだ慣れない土地で緊張しているのだ」と解釈し、食べられたらと優しく女媧に勧める。
「……お水を、いただけますか…」
控え目に頼めば慌てて水を持って来てくれた。与えられた水は桃の果汁が混ぜられていて甘くて美味しい。しかしその味に女媧は吐き気を感じたのだ。
お茶も甘い水もいらない。ただあの辛い生活の中でみんなの命を繋いでくれた、ただの水が飲みたかった。
ただの水とほんの少しの豆と粟。それだけでいい。満足に食べられなくても、味なんてなくてもかまわない。空腹感を大量の水で誤魔化す生活でいい。この豪奢な世界の住民からは想像できないような貧相な場所が、女媧が愛した世界なのだ。
「昨日は一日移動でしたしお疲れなのでしょう、お部屋で休ませて差し上げろ」
それは昨日女媧を連れ出した男の声だった。女官に支えられ女媧はよろよろと歩き出す。とにかく胃に入った全てを吐き出してしまいたかった。
「食べ慣れない物だったから身体が受け付けなかったんだろう。奴隷とは固形物を食べるのか?もし食べないのなら暫くは重湯を持ってこさせる」
固形物を食べるのか、なんて聞かれる日が来るとは思わなかった。ここまで生きる世界が違うのかと女媧は笑いたくなる。
「……重湯って、なんですか…」
部屋に戻るとすぐに胃から物がせり上がって来た。我慢できずに吐き終えてれば多少なりとも気分が良くなる。男と二人きりの部屋で女媧は落ち着かないまま口を開く。
「米を大量の水で炊いたものだ。粥よりも柔らかい」
「…いりません」
「人は食べずに生きていけないだろう。それとも奴隷は違うのか?」
「ふざけないで…!」
近くに飾ってある花瓶を掴み男に向かって投げつけるが、女媧の力では男には届かずに床に落ちる。床に水が広がった。
「割れたらどうする」
「どうせ、どうせ私達を人だとすら思っていない…!いつもそう、伏羲の賢さを妬んで、いつも殴ってた!人間様に口答えするな、言い負かしたつもりか奴隷のくせに、と!自分よりも優秀な人は認められて、自分よりも優秀な奴隷は認められないと?あなた達こそ、私達をなんだと思ってるの!」
「奴隷は奴隷だ。動物にも多くの種類がいるように、人間にも種類がいるだけだろう。ロクに食べ物を与えずとも死なない、特に生命力が高い種類。それが奴隷さ」
「死なない……?」
明日生きることも不確かで、毎晩この眠りが永遠にならないようにと祈っているのに。毎朝誰かが目覚めないのに。死なないと言うのかこの男は。死体ができれば平然とゴミ捨て場で捨てる兵士達。いくら死んでもそれ以上の数が増えるから、だから全体量が減ることはないと、それは死なないことと同義だと、そう言うのか。
「君はもう奴隷と言う種族ではないけれどね」
男が綺麗に微笑んだ。女媧は眩暈がした。
「私を帰して…」
「なんだい?」聞こえなかったのか男が聞き返す。
「私を帰して!いらないから、他のなにもいらないから、家に帰して…!」
「君はバカなのかい?」
男は女媧の部屋にある来客用の椅子に身を沈めて、子供に言い聞かせるような口調で語る。
「いいかい、君は昨日初めて人権を手にしたんだ。奴隷に人権はないから、もし奴隷に人権があったならば、昨日君が泣いて拒否した時点でその要求は呑まれるべきなんだ。しかし昨日、奴隷だった君に人権はなかった。君がいくら喚き散らしたって、人権もないものの要求を聞いてやる義理はない」
平然と男は語る。
「君はここに足を踏み入れてようやく人権を手にした。これから君が泣く程嫌なことをすることはないだろう。君が泣いて頼むならば、我々は君を君が行きたい場所へ連れて行く義務が生じる。しかし、君が泣いて頼む程行きたい場所は例の奴隷の集落だろう?そこで君は再び人権を失い、ここに戻る。堂々巡りで無駄な行為だな。どうあがいてもここに戻って来るなら、わざわざ君の要求を聞く必要はない」
男は腰を上げて転がっている花瓶を拾った。女媧の横を平然と通り過ぎたと思ったら花瓶を元の位置に戻す。
「いいじゃないか、奴隷から解放されたんだ。もっと喜ぶべきさ」
「私が何で喜ぶか、あなたの物差しで考えないで」
「必要最低限の衣食住すら保障されていない場所でなにが喜びだ。君は幸せを履き違えている。人としての最低限は満たされていないと幸せになんてなれないものだ」
「でもあそこには私の家族がいる!みんなが強い絆で結ばれた、大切な家族!」
「家族?ふふ、あんなことされたと言うのに?」
心底面白そうに男は笑った。椅子に座るために再び女媧の横を過ぎ去る。途中で床に散った花をぐしゃりと踏んだが彼が気にした様子はなかった。
「あれは見物だった!君が絆で結ばれた家族だと言う奴隷達が、我先にと君を捕まえようとした。一番に見つけて下さった人にはお礼として、今夜満足行くだけのお食事をご用意します、そう言ったら全員の目の色が変わった!たった一食が欲しいがために君は裏切られたんだ!」
「…やめて……」
「挙げ句親切な顔をして君に近付いて、少しでも自分の手柄にしようと皆が必死になった。優しいと君が安心した矢先に、君は売られた」
「違う!」少女の必死な声に男は喉で笑う。「違わない、君は裏切られた」
「違う違う!みんな生きるのに必死だから仕方なかった!今日食べられなかったら死ぬかもしれない、だからなんとしてでもご飯が必要だった!」
「そのために君は売られても構わないと?生きるためならば、人は人を捨ててもいいと?それは奴隷の世界の常識か?」
死ねばいいのに、と女媧は初めてその感情を目の前の男に抱いた。明確な殺意など抱いたことのない女媧が、それは殺意だと理解して男を睨む。「良い目だ」と男は笑うだけだった。
「今度こそ花瓶が割れるかもしれないな、もう行く」
「待って」さっさと出て行けばいいのにと毒吐きながら女媧は彼を引き止める。
「あなたの、お名前を知りません」
「お伺いしてもよろしいですか、だ。言葉遣いにも気を付けるんだな」と一言言ってから男は名乗る。「肇慶だ」
扉が閉まるのを見届けて女媧はその場に膝を着く。がたがたと身体の震えが止まらなかった。
裏切られた。他の命のために、女媧を売ったのだとあの男は言った。仕方がなかったと頭ではわかっているその状況でも、心が泣くのをやめない。
「……伏羲」
もはや縋れるものはその名だけで、只管にその名を呼ぶ。聞こえもしない呼びかけは無意味なことだったが、恐怖の中口から出る言葉はそれだけだった。
「助けて……」
脳裏で幼い伏羲が笑う。『俺はもう泣かない!強くなって、いつかこんなとこ出て行くんだ!』幼い頃そう言ったことを彼は覚えているのだろうか。
頭の中でわかっているのは「ここから逃げ出さなければいけない」それだけだ。女媧は瞳に溜まる涙をぬぐう。もう泣きはしない。泣いた分だけ胸の内に溜まる感情が流れてしまうから。伏羲への憧憬も、あの男への殺意も胸に秘めて強くならなければならない。
「待ってて、伏羲…」
裏切られたと肇慶は言う。しかし女媧が一番帰りたかった理由は未だ彼女を裏切ってはいない。思い出が強くなれと女媧に囁く。
「私、強くなる。ここから逃げて、あなたに守ってもらうために強くなるから……!」
だからお願い、待っていて。必ずあなたに会いに行く。