涙を止める人
ふかふかの寝台。柔らかい布団が重みで沈み、柔らかく少女の身体を支えた。雲の中にいるような不安定な感覚に女媧は目を覚ます。
「………どこ…?」
いつも固い床で寝ていた女媧にとって、柔らかな布団はどこか不安を誘う。身体を起こそうと置いた手も沈んでしまい、いつか身体ごと沈むんじゃないかと恐くなる。それでも勇気を振り絞って起き上がった。
大きな窓から日差しが漏れてくるが、まだ夜明けだろう、空は薄暗い。奴隷であった彼女の朝は早く、まだ建物内にいる誰かが起きて行動しているわけではなさそうだ。広い部屋の扉の向こうからはなんの音もしない。
格子がつけられた窓は障子で閉じられていて外の景色を見せてはくれない。格子の隙間に手を入れて障子を開けば、外に見回りの兵士と何人かの奴隷の姿が見て取れた。そしてそれを見下ろしている自分が建物の上階にいることもわかる。
格子を握りながら女媧はその場で崩れ落ちる。
「ここどこ……」
わかっている。ここは領主の館だ。伏羲がいる奴隷区から、遠く離れた場所なのだ。
「伏羲……」
昨日与えられた綺麗な服も、着飾るための宝石も、お腹一杯食べられる美味しいご馳走も、ふかふかに身体を包む布団も、なにもいらない。口から零れた名前の主だけが、女媧が望むものなのだ。
「伏羲…!」
涙がぼろぼろと零れて寝間着の袖を濡らす。今までぼろきれを着ていた彼女にとって寝間着ですら豪華な服だ。しかし濡らすことを彼女は気にしなかった。ぐいぐいとか細い腕で格子を揺らそうとするが、ぴくりとも動いてくれなかった。それでも無意味なそれを彼女はやめようとしない。
「出して、出してよ…!」とにかく外に出たかった。微かに太陽が姿を見せる空の下へ。
「ここから出してよ!」
叫びは誰にも聞こえない。こんな格子さえなければ、高さも気にせずに飛び降りてみせるのに。少しでも伏羲が感じられる場所へ逃げるのに。
「伏羲に、会わせて…!」
彼女を突き動かす、たった一つの願い。
思い出されるのは昨日のこと、まだ数時間前のことだ。
奴隷を見張っていた兵士達が身なりの良い男性になにかを耳打ちされたのは視界の隅に入っていた。よく見る光景だ。また誰かが買い取られるだけ。女媧もただ悲しそうに目を伏せるだけだ。場合によってはここでの生活よりもずっと楽に生きられるし、たとえ奴隷の身分が変わらずとも喜んで出て行くものだっている。
突然腕を掴まれ立たされたことに女媧の意識は引き戻される。混乱している内に、例の身なりの良い男性の前に突き出された。
「もっと丁寧に扱ってもらわないと」
男性が言うと兵士達は謝る。わけがわからず女媧は周囲を見渡した。伏羲はいない、恐い、私はどうなる。そればかりが頭を占める。
「うん、確かに美しい奴隷だ。今まで誰の目にも引かれなかったのが不思議なくらい。これなら身体を売って生活できただろうに」
秀麗な顔に穏やかな微笑みを浮かべ、女媧の吐き気を催すような言葉を平然と男性は吐き出した。至って普通のことではあるし、何人もの奴隷仲間にだって言われたことだ。「お前は顔がいい、身体を売ればいいじゃないか」と。仲間のためにそれを考えた時期もある。身体を売って、それでも気高く生きようとしている奴隷だって知り合いにいる。しかし伏羲が止めてくれた。
そんなことしなくていい。きっと苦しい思いをする。そう言って女媧を止めてくれたのだ。
気高く生きたって、その苦しみは変わらない。身体を売った彼女達が本当は誰よりも怯えていたことを知っていた。苦しんでいたことを知っていた。
伏羲が守ってくれた身体を売って生きる?冗談じゃない。しかしここで発言することが許されないことを理解していた彼女はただ口を噤んだ。
「喜ぶといい。君は主に見初められたんだ」
にこっと男が笑った。
「あぁ、見初められたと言っても妻になれと言うわけではない。娘に欲しい、とおっしゃっている」
なにを言っているのかわからず、女媧は不安そうに周囲を見渡す。わけがわからないと困惑する雰囲気をものともせず男性は手を差し出した。
「さぁ、君は奴隷から解放される」
女媧が理解したのは、この手を取れば伏羲と離れ離れになるということだけだ。
「いやっ!」
彼女は自分を囲む兵士達の隙間を抜けて走り出す。とにかくここから逃げなければならないのだと強く理解した。一緒に作業していた奴隷達が困惑しながらも走る女媧に道を開ける。この檻から逃げ出すことは叶わない。どこかに身を隠さなければ。女媧は走りながらそれだけを考える。
一緒にいて欲しいと叫んだのは彼女だった。伏羲はそれに答えてくれた。だから女媧も努力しなければならない。伏羲と一緒にいるために。
「女媧」
女性の声がした。伏羲が捕まえて来てくれた魚を渡した女性だ。彼女は物陰に隠れていた女媧に手を差し伸べる。「もう大丈夫だよ」と言って。
「ほんとう…?」
女媧はおずおずとその手を取った。彼女は不安そうにする女媧と手を繋いで歩いた。手の中にある温もりに安心して息を吐けば、女媧を探してくれていたのか他の奴隷が足早に駆け寄って来る。
「女媧!もう、一体どこに隠れていたの?」
「もう大丈夫だからね、女媧」
「大丈夫?恐かっただろうに。ほら、私も手を繋いであげる」
優しい言葉だ。女媧は安心した。まだ男手が戻って来てない所を見ると、この騒動が伏羲に知られることもないだろう。他の奴隷達が守ってくれたからと言っても、彼が心配することは目に見えている。
微笑んで返事をしようとした女媧の視界に、離れた場所にいる身なりの良い男性の姿が映った。身体が強張るのと女性の怒鳴り声が響く。
「触るんじゃないよ!この子は私が掴まえたんだ!」
掴まえたとは、なんなのだろうか。と女媧が思っている内にその身体は男性の前へと押し出される。彼女を捕まえた男性が微笑んだ。
「ありがとうございます」
「え……?」
「馬の場所まで運んでくれ」男性の言葉で女媧の身体が担がれる。浮遊感にもがいた。
「……い、や。いや、やだやだやだ!なんで?なんでなんでなんで!いや!いやだよ!」
女媧が泣き叫ぶ。女性がなにかすまなさそうに言っていたが、女媧自身の叫びでなにも聞こえはしなかった。
「…伏羲、伏羲!いや、伏羲と一緒にいたいの!お願い下ろして!なにもいらないから!だからお願い!やだ!お願い!伏羲といさせて!いやぁ―!」
後はもうなにも覚えていない。ただひたすら馬に揺られて、ずっと伏羲の名前を呼び続けた。明るい時間に、男手の中心である伏羲が戻って来れるはずもない。それはわかっていても呼ばずにはいられなかった。
格子の外、ずっと遠くにいる伏羲は今なにを思っているのだろうか。女媧がいなくなったことになにを感じたのだろうか。女媧を騙して捕らえた奴隷達のために今も身を削っているのだろうか。
「……伏羲…」
この身体があの場所から離れることが既に決まっていたことだとしても、せめてあなたと話したかった。あなたに見送って欲しかった。離れたくないと叫んだ女媧に「大丈夫だ」と笑って欲しかった。
「身体が冷えてしまいますよ、お嬢様」
自分以外の女性の声にびくりと肩を振るわせて振り向く。女官が頭を下げていた。気付けば太陽は姿を現していて、目覚める時間になったのだろう。
「おはようございます」
「………」女媧はなにも答えないが、女官がそれを気にする様子はなかった。彼女達はなにを吹き込まれたのか知らないが元奴隷である女媧への態度が低い。女媧が奴隷であったことなど知らされていないのだろう。
「お召し物をお持ち致しました」
豪奢な衣服は着たことなどないものだ。それに続く装飾の数々。手入れされなかった長い髪も美しく結われる。
「お嬢様の髪は美しい濡羽色ですね」
本心なのかお世辞なのか女媧にはわからない。しかし未だ思い浮かぶのは彼のことだけで、褒められるならば彼に褒めて貰いたかった。着飾るのならば彼のために着飾りたかった。とそれだけが浮かぶのだ。
(…助けてと、叫ぶこともできないなんて)
静かに涙を流せば女官が慌てる。止める術を知っているのは誰か、彼女はその名前を知っている。