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渡り鳥

作者: 景雪

 祖父と一緒に食べる最後の外食になろうことは、ただの孫の一人に過ぎない僕にもはっきりと分かった。大正十二年に生まれ、今年米寿を迎える祖父は、八十を過ぎたあたりから認知症を患い、三年前に高齢者グループホームに入居した。七十代後半まで蕎麦屋として働いていたので歳の割に身体は頑丈だったが、認知症だけは勝手に進行してしまい薬で進行を緩めることしかできなかった。しかし八十七歳の誕生日を過ぎてから祖父は急激に弱弱しくなり、最近は連日の猛暑に干上がるように歳相応のただの老人になってしまった。末期の膵臓癌が見つかったのは今年の八月だ。どんな医者に相談しても手の施しようがなく、余命一カ月を宣告された祖父は、医療的ケアが十分ではないグループホームを出て、介護老人保健施設に入所することになった。入所前、祖父の長男である僕の父と、長男の嫁である僕の母と、僕と祖父の四人で外食に来たのだ。僕には妹がいたがアルバイトが忙しいと同席しなかった。もう最後だから来なさいと父は言ったが、妹はアルバイトを優先した。今朝妹が出かける際、「後で病院にお見舞いに行く」と一応言い残してはいたが。

 最後の外食は鰻に決まった。祖父の好物だからだが、今の祖父に鰻などほとんど食べることはできない。それでも、炭で焼かれた蒲焼の香ばしさと、たっぷりとかけられた甘いたれを鼻だけで味合うように、祖父は重箱に顔が付くぐらい近付け、細い目を皺に埋もれさせて笑っているようだった。ほとんど毛が生えていない頭頂部が、皺だらけの顔にやたらと鮮やかな光沢を与えていて、僕はそこばかりをちらちらと見ていた。しかしそれにもすぐに飽きて、喉に引っかかった鰻の小さな骨を、ご飯でうまくかすめ取ることに僕は夢中になった。

 「父さん。うまいけ?」

 「んめ。んめ」

 父と祖父が鰻の味について会話しているが、祖父は口の周りにご飯粒をいくつかつけているだけで、本当に食べているのかいないのいか僕には分からなかった。親に誘われるまま一応この場に来てはみたが、祖父と話すことなど一切なく、今日はまだ一言もしゃべっていなかった。自分の鰻重を食べ終わり、肝のお吸い物も飲み干してしまったので、僕は暇つぶしのつもりで割りばしの袋を折り始めた。小さく細かく折り、箸置きに仕立てると箸を揃えて置いた。スプーンで鰻重をほじくっていた祖父が、僕の作った箸置きを見て言った。

 「鶴だんべ」

 「うん。分かるの? おじいちゃん」

 今日初めて祖父と会話するきっかけになったことに僕は安堵したが、よく考えてみると何故安堵しているのか分からず胸の奥が気持ち悪くなった。

 「じいちゃん。鶴、見たっぺよ」

 「え? どこで?」

 「チシキノだ」

 「ちしきの?」

 解説するように父が口をはさんだ。

 「おじいちゃんは戦後、シベリアに抑留されていた時期があったんだ。チシキノは収容所の地区の名前らしい」

 「シベリア?」

 祖父に戦争体験を聞いたことは一度もなかったし、父も親類も話そうとはせずシベリアにいたことなど知らなかった。僕は鶴の箸置きを折る、細い指を思い出していた。鶴の箸置きの作り方を教えてくれたのは、かつて在籍していた会社の同期、原田美嘉子だった。


   * * *


 転職する前だからもう四年になるが、僕は当時、都内の小さな広告代理店に勤めていた。大学を卒業してすぐに就職した会社で、高校生向けの進学情報誌を作ったり、進学相談会を開催したりするのが主な業務内容だった。東京本社に社員が二百人程度の規模で、本社に配属された同期は十三人、僕と原田美嘉子は東京都内を管轄する営業第四課に属していた。原田は特別な美人ではなかったが、スタイルが良くて服の着こなしが上手く、人目を引くタイプではあった。彼女は営業職を希望して会社に入った。希望どおりに営業部署に配属され、板橋区、豊島区、練馬区などの二十三区北西部を主に担当した。彼女は運転があまり上手くないのに進んで営業車を運転して、担当地区の大学や専門学校を精力的に回った。広告をもらうために営業をかけるわけだが、先方の担当者が男性だと、ブラウスのボタンを一つ多く外して営業先に臨んでいた。彼女の運転する営業車に乗ったことがあるが、カーブを急ハンドルで曲がるので右左折の度に腰が浮いて乗り心地が悪かった。原田は丁寧に巻かれた髪をいつも右の中指でいじっていた。元々は何の面白みもない直毛だから強めにパーマをかけていると彼女は言っていた。目は大きくないが切れ長の奥二重で、直接伝えたことはないが僕は彼女の目がわりかし好きだった。まつ毛は長くてくるんと上向きに並び、鼻は小ぶりで鼻筋が通り、薄い唇には発光しているような艶があった。今思い出してみるとこれだけ特徴を上げられるのだから、僕は原田のことが少しは気になっていたのかもしれない。

 原田は、大学生の就職先人気ナンバーいくつに毎年入る、大手広告代理店に就職したかったようだ。しかし最終面接で落ちて、滑り止めで受けた中堅広告代理店に、僕と一緒に入社した。僕は一応、彼女よりもずっと名の知れた大学の出身だったが、元から公務員に逃げるつもりだったから就職活動など何とも思っておらず、適当に受かった会社に就職した。彼女の大学からでは、彼女が本当に行きたかった会社への就職実績はほとんどないそうで、その会社の役員の多くが僕の大学のOBだという事実を指摘して、原田は「もっと就活まじめにやれば良かったのに」と良く言っていた。僕にとってはどうでも良いことなのでいつも聞き流していたが。

 営業第四課は課長一人に係長一人、職員六人のこじんまりとした部署で、皆仲が良かった。全員ではないがほとんど週末の度に誰かと誰かが飲みに行く間柄で、僕も原田も付き合いは良い方だった。三個上の市川主任、中途で入ってきた岩瀬さん、僕と原田の四人で良く飲みに行った。一人だけ女の子で紅一点のはずが、僕らは原田に対してそのような態度をとらなかったし、原田も同性に接するような僕らの態度が心地良いように見えた。


 その日、いつものように会社から歩いて新宿の繁華街に行き、安くてやかましい飲み屋に入り四人で飲んだ。市川主任と岩瀬さんがどの女性店員が可愛いかほとんど怒鳴りながら議論している横で、原田は横目でそれを見て口元を緩ませながら割り箸の袋を折りたたんでいた。細長い爪に並んだ規則的な線が淡く光沢を帯びていて、僕はついそれに見とれてしまった。

 「気になる?」

 「え?」

 突然彼女に声をかけられたので声が上ずった。

 「箸置き作ってるの」

 「箸置き?」

 彼女はそう言うと鳥の形に箸置きを整えた。

 「あひる?」

 「鶴!」

 そう言われてみると、アヒルかガチョウにしか見えなかったそれが、鶴に見えてくるから不思議だった。

 「大学の時にね、歌舞伎町で働いていたの。その時に習ったんだ」

 原田はどんなアルバイトをしていたかには言及しなかったが、鶴の箸置きを見つめながら“歌舞伎町”という言葉を脳味噌に反響させていると、聞かなくても何となくは分かってしまった。彼女は巻髪を指でいじくりながら、「あの子、男の前だと声が一オクターブ上がるタイプですよ」などと女性店員を品定めする先輩二人にいつの間にか加わっていた。

 市川主任と原田が付き合っていると知ったのは入社して二年目の夏だった。僕は一年目に落ちてしまった公務員試験のリベンジに忙しく気付かなかったのだが、原田は営業第一課の品川さんとも付き合っていて、二股をかけていたらしいということを、岩瀬さんに教わって初めて知った。キャバクラには先輩のおごりで二、三度行ったきりでそこで働く人間の何たるかを良く知らなかったが、水商売で働くような女の子はそんなものなのかと思った。

 原田と二人で行った営業先で先方の担当者と話しこんでしまって、運良く直帰できることになった金曜日、僕は彼女と初めて二人きりで飲んだ。いつものさわがしい飲み屋ではなく、原田がたまに行くというバーに決めた。普段はサラリーマンの醜く太った腹や禿げ散らかした頭部ばかり見せられていたが、その日は周りがカップルだらけで中々落ち着けなかった。カウンターに並んで座ってビールで乾杯し、すぐに空にすると僕はジン・トニック、原田はマティーニを頼んだ。原田が甘い酒を注文するのを見たことがない。

 「相変わらず辛い酒が好きだね」

 「ん。甘いのは苦手で」

 彼女はマティーニを一口含んで飲み込むと、おもむろに煙草に火をつけた。灰皿に灰を落とすのを目で追っていると揃えて置いてある割り箸に気付き、この場には不釣り合いなそれを見ていると何だか可笑しくなった。

 「箸、この店には合わないな」

 「石岡、洋食嫌いでしょう? でもあたしはカクテルが飲みたかったから、折衷案」

 「なるほどね」

 原田の右手に着けられているロレックスが、煙草を口元や灰皿に持っていく度に、妙にぎらぎらした輝きを放っていた。

 「鶴、教えてよ」

 「え?」

 箸の袋を目の前に差し出すと、原田は「本気で言っているの?」とでも言いたげに袋と僕とを見比べた。

 「彼女にでも自慢する気?」

 「まあ、いいじゃん。教えてよ」

 煙草をもみ消して原田は箸の袋を折り始めた。真似をして折ると、不格好だが何とか鶴が出来上がった。だけどちゃんと立たないので箸置きとしては使い物にならなかった。

 「一回じゃ覚えられないな」

 箸をわざと落として替えのをもらい、教わりながらもう一回折った。一回目よりは多少はましな形になり、一応箸を置くことができた。

 「石岡、転職するの?」

 「うん。公務員受かったらね。元々民間に勤める気はなかったし」

 「そう」

 「原田は? 雷通に入りたかったんでしょ?」

 「うん。実は一般職なら採用されたかもしれないんだ。でも営業がやりたくって」

 「そっか。入っちゃえば後で営業になれるかもしれないけどね」

 「そうかもだけど、やりたくもない一般職になりたくないし」

 男のことしか考えていないと思っていた原田はしっかり自分の考えを持っていて意外だった。雷通のような人気企業の一般職の方が、うちみたいな小さい会社の営業よりもずっと良いのに、と僕は思った。

 五杯飲んで気持ち良く酔っ払い、新宿駅での別れ際、僕は少し調子に乗って聞いた。

 「今日は市川主任の家? それとも品川さんのとこ?」

 「馬鹿」

 そう言う原田の顔はきかん坊を諭すような包容力に満ちていて、僕はその表情を見たいがために原田をわざと困らせるような悪ふざけを良くした。

 「でもさ、どうしても一人の人に落ち着けないんだよね。もっと良い人がいるかもって思っちゃうの」

 原田は苦笑いするように口の端っこを少しだけ上げて、掌を顔の横でひらひらと振ると改札口に消えていった。


 仕事は楽ではなかった。営業先の大学や専門学校の事務員に冷たい言葉をかけられたり、無視されたり、時には罵倒されることもあった。

 「今時進学情報誌なんて読む生徒はいないよ。活字離れが進んでいるし、インターネットで情報はいくらでも入るし」

 そう言われて僕は何も言い返せなかった。進学情報誌を売り込んでいる当の本人がその進学情報誌を信頼していないのだから、情報誌の多くのページを占める広告は中々売れなかった。良い大学を出ている割に仕事ができない、面と向かって言われなくとも、それが僕の評価らしかった。

 対照的に、原田は馬鹿みたいに一生懸命営業活動を行っていた。彼女の担当校はたまたま男性の担当者が多く、原田はブラウスのボタンを一つ多く外し、スカートの丈をいつもより少しだけ短めにして、気持ち良いくらい次々に広告を取ってきた。“枕営業”と揶揄する人間もいたが、全く気に留める素振りさえ見せなかった。

 三年越しで故郷の県庁に合格したことを知ったちょうど同じ頃、僕は仕事で失敗をした。僕の出身校である大学の広告で、先方からは写真の挿入位置を左端と伝えられていたのに、編集部には右端と指示してしまったのだ。刷り上がった初稿を見て、先方が苦情の電話をかけてきた。二校で直すからと言っても、「何度も写真は左だと確認した」の一点張りで先方の怒りは収まらず、仕方なく課長と二人で謝りに行ってやっと事態を収拾させた。

 「初稿は試し刷りみたいなものだから、すぐに直すのになんであんなに怒るんだよ。立場が弱いのはやってらんないですよ」

 週末、いつもの四人で飲みに行き、中ジョッキを一気に飲み干して愚痴をぶちまけると、原田が口を開いた。

 「信頼関係で成り立っているからさ、きちんと伝わっていなかったことにカチンときたんじゃない?」

 「間違いは誰にでもあるだろう? ちょっとのミスも許されないのかよ?」

 「あそこの大学は旧図書館が古くて格式があるから、その写真を載せたかったんでしょう? だから写真の位置にもこだわりがあったんじゃない? 写真が左にあった方がバランスが良いとか」

 「俺の母校だぞ? 大目に見てくれたっていいだろう?」

 「だからこそ、だよ。自分が出た大学なのに写真の位置もちゃんと考えてないって思ったんじゃない?」

 僕は言葉が出てこなかった。左手に持ったグラスに入ったウーロンハイが小刻みに波打っていて、自分が震えていることが分かった。

 「石岡、課長に言われてやっと謝りに行ったでしょう? 営業担当なんだから電話がきたらすぐに行くべきじゃない?」

 「なんだよ。それ。お前も二年目のくせに偉そうなんだよ」

 「お前って、言わないでよ」

 何もかも面倒くさくなった。俺は県庁に受かっているんだぞ。そういう気持ちで乱暴に椅子を引いて、席を立った。「お金は来週払います」そう言い残して僕は一人で店を出た。こんな小さな会社で、こじんまりと仕事をしていろよ、一生。無言でそう口走ると三人の顔を一瞥した。市川主任と岩瀬さんは黙っていた。原田はうつむいて唇をぴったり閉じていた。


 それから原田とはほとんど口をきかなくなった。たまに言葉を交わしても、「回覧です」「はい」と回覧物を机に置くやり取り程度で、僕は週末の飲み会にも参加しなくなった。県庁へは健康診断の結果や何の意味があるのか良く変わらないレポートの類、その他色々な書類を提出し、実家に戻る準備も進めた。気付いた時には冬からもう春になる頃で、退職願もしっかり受理されていた。原田や、市川主任達と週末の度に飲みに行っていた頃と同じ二十四時間が、一週間が、一ヶ月が同じ速度で流れているとはとても信じられなかった。高校を卒業してから六年住んだ東京を離れるのが、急に現実味を帯びてくるように感じ、寂しかった。


 三月最後の金曜日、送別会を終えて僕は新宿駅のエスカレーターを上っていた。東京のアパートは既に引き払っていて、有給を消化中だった僕は実家から送別会に来ていた。職場の皆に書いてもらった寄せ書きは、しこたま飲まされる内にどこかに落としてなくしてしまったので一度も読んでいない。原田とは結局最後もろくに言葉を交わさずに別れることになった。

 芋焼酎をロックで数え切れないくらいお代わりしたので、足元がふらふらだった。細かい血管の一本一本にまでアルコールが行き渡っている感じがして、既に頭は痛くなってきていたが鼻歌を歌いたいほど気分が良かった。肩からかけていた鞄が落ちたので拾おうとして、僕は足元を滑らせてエスカレータの上で転んだ。エスカレーターを降りて手を見てみると、どう打ち付けたのか手の甲から血が出ていた。まるで他人事のように流れる血を見ながら、携帯電話が鳴ったので確認すると、原田からのメールだった。

 ――ごめん。最後くらい、もっと話したかったんだけど。栃木に行ってからも頑張ってね。

 メールを確認してすぐに僕は原田に電話をかけた。今考えてみると何故電話したのか分からない。酔っている時の僕は変な方向に特化した大胆さを見せる。携帯のデジタル時計は十二時過ぎを指していて、栃木まで帰る終電はもう終わっていた。五回着信音を鳴らして原田は出た。

 ――今、どこ?

 ――え? これから電車に乗るところだけど?

 ――電車、なくなっちゃった。

 ――え……。

 ――もう電車来る?

 ――えっと……。待ってて。そっち行くから。

 原田の方からそう言わせるなんて、僕は本当に自分がずるい奴だと思い、だけど酔っ払っているからへらへらとそのずるさを一人で笑っていた。待ち合わせた東口駅前交番の側で落ち合うと、原田は僕の手から流れっぱなしになっている血を見て、血が出ていない方の手を取り歌舞伎町の方向に歩き出した。年度末の金曜日は深夜になっても普段以上に騒がしく、原田に手を引っ張られて歩いているのが現実なのか夢なのか次第に分からなくなった。

 「ここで、ちょっと待ってて」

 二十四時間営業している、喫茶店と居酒屋の中間のようなお店に僕を座らせると、原田はまた歌舞伎町の人ごみに消えていった。注文を聞きに来たウェイターに中ジョッキを注文してしまい、まだ飲むのかと自分でも思ったが、することもないので冷た過ぎるビールをちびちびと飲んでいた。原田はあのまま帰っちゃったのだろう、どうやって朝まで過ごすかと思案していると、その原田が目の前に戻ってきたからだいぶぬるくなったビールを噴き出しそうになった。

 「手、出して」

 血を拭っていなかったから甲に広がった血液が凝固して気持ち悪く光っていた。原田はエルメスのバッグからドン・キ・ホーテの黄色い袋を取り出し、ウェットティッシュで血を拭き取り、絆創膏を貼ってくれた。

 「ありがとう」

 「お酒は、それで終わりね」

 そう言って人差し指を上下に振りながら原田は飲酒の終了を告げ、煙草に火をつけた。僕も一本をもらったが、数ヶ月やめていたので肺の奥にしみた。原田は隣の女性客が頼んだワインボトルを見つめていた。“アスティ”という甘いスパーリングワインで、ボトルには天使の絵が描かれていた。

 「原田、もう電車ないでしょ? どうするの?」

 「うん。どうしよっか」

 一時前に店を出て、僕らはどちらからともなく歌舞伎町の奥の方向に歩いた。いつのまにか原田の手を握っていた。彼女の掌は湿っていて、掌中に彼女の体温をまんべんなく広げていた。僕よりも少し背が低い彼女の吐息がたまに顎の辺りにあたり、こそばゆかったが悪い気はしなかった。角を曲がってちょうど目に入った派手な照明のホテルに入ったが、原田は拒まなかった。パネルで適当に部屋を選んで、部屋に入ると電気をつけずに湯船に湯を張った。「先にシャワー浴びていいよ」そう言ってテレビをつけ、ベッドに寝っ転がって観た。原田は何も言わずにシャワーを浴びた。

 入れ違いに僕もシャワーを浴びて出てくると、原田は布団に潜りこんでじっとしていた。目を閉じているように思えた。クイーンサイズくらいのベッドだからゆとりがあるのに、彼女はやたら端の方に寝ていた。ベッドに片足を乗せると、僕の体重で沈んだ振動が伝わったのだろう、原田が肩を少し動かしたのが分かった。僕は元々口数も多くなく、積極的でもないので女の子とこういった場面に展開することは余りなかった。相手が遠慮の要らない原田であることと、酔いが抜け切っていなかったことが、欲望に対して素直に行動するのを助けてくれた。気軽に性欲処理させてもらおう、その程度の気持ちしかなかった。

 布団に身体を全部入れると、原田は僕と反対の方向に顔を向けた。左手を伸ばし、肩を抱くために手を触れると、原田の皮膚は表面にこわばりを浮かべさせた。構わずに強引に引き寄せ、仰向けになっている彼女の上に覆いかぶさった。両手で身体を包み込むようにして初めて、原田が小刻みに震えていることに気付いた。付けっぱなしだった腕時計がかちゃかちゃと鳴ってしまうくらい、しっかりとした震えだった。

 そのままごろんと彼女の横に仰向けに身を投げて、彼女と同じように天井に目を向けた。暗い部屋にうっすらと浮かび上がった白い天井はどこまでも淡い白さのみが広がっていて、見つめていると何も考えなくて良いので気が楽だった。

 「石岡」

 「なに」

 「ごめん」

 「なんで、謝るんだよ」

 「うん……」

 しばらく声が聞こえなかったのでもう寝たのかと思っていたら、また声が届いた。

 「あたし、本当は煙草嫌いだし、辛いお酒も好きじゃないんだ」

 「……?」

 「さっき、隣の女の人が飲んでたアスティってお酒、本当はああいう甘いのが、好きなんだ」

 ボトルに描かれていた天使が、暗がりから浮かび上がってくるように思えた。何で無理をしてまで煙草を吸ったり辛い酒を飲むのか、その理由は全くもって分からなかったが、分かってしまうのがとても恐ろしいことのように思われた。

 「鶴、折り方覚えた?」

 「うん。覚えたよ」

 あれから何度も何度も練習した。折り方は完璧に覚えた。神経が集中しまくって硬くなっていた下半身の一物はもう勢いはなく、身体中を埋めていた狂騒のようなほとばしりも冷め切ってしまっていた。

 「あたしも、こっそり転職活動してるんだ」

 「そっか。雷通?」

 「うん。無理かもしれないけど、挑戦はしたいから」

 「原田だったら、きっと大丈夫だよ」

 「そんなことない。石岡こそ、県庁受かってすごいじゃん。あたしは勉強からっきしだから」

 「いやいや。二回落ちてるからね」

 「石岡はもう辞めちゃうから言うけど、うちの会社はほんとちっちゃな仕事ばっかで、やりがいも何も感じないよ。雷通に入れば仕事の幅がずっと広がるから、今うちの会社でやっていることが馬鹿みたいに思えちゃうかもね」

 意外だった。原田は仕事の手を抜かずに一生懸命やっていると思っていた。顔を静かに傾けて横を見てみると、原田が奥二重の瞳を開けて天井を見つめていて、白目の部分がほんのり青く輝いていた。それきり原田は黙ったが僕も会話を続けるための言葉が浮かばず、良い具合にアルコールが入っていたので眠ってしまった。僕は酒を飲んで寝ると必ず夢を見る。その日見たのは鶴と一緒に空を飛ぶ変な夢だった。目が覚めると朝はうっすらと差し込んでいて、原田はもういなかった。ただ、最初から部屋にあった割り箸の袋で作られた鶴が、僕の方を向いて枕元に置いてあった。


   * * *


 「おじいちゃん、シベリアにいたの? シベリアで鶴を見たの?」

 祖父は震える指の先で口元のご飯粒をつまみ、しかしほとんどつまむことはできずにボロボロとテーブルにこぼし続けていた。

 「んだ。収容所から見上げっと、鶴、見えたんだ」

 「空を飛んでたの?」

 「鶴はな、夏の間はシベリアにいて、冬は日本で過ごすんだ。俺あ、鉄条網に囲まれて、口を開けて飛ぶ鶴を見てたっぺよ」


 県庁に就職することが決まって、口には出さないまでも、会社の人達の羨望や嫉妬を肌にひっつくくらい感じた。給料も上昇し、堅実性は言わずもがな。社会的地位だって上がる。「どこにお勤めですか?」と聞かれて「広告代理店」と答えても、「どんな広告を作っているの?」と突っ込まれるから色々と説明しなければならない。対して、「県庁です」と答えればそれ以上の説明はいらず、誰もがその一言で十分理解する。

 小さな民間企業から天下の県庁に入れば世界が違って見える。僕は本気でそう思っていた。民間企業にいた時は営業の仕事も手を抜き、仕事に対して思い入れなどこれっぽっちもなかった。だけど実際に県庁の職員になってみると、苦情やいちゃもんや、何を言いたいのか良く分からない話を毎日のように電話で聞かされて、スポンサーが県民になっただけで仕事の内容はそんなに変わらないように思えた。

 最初に配属されたのが県北福祉事務所で、郡部の生活保護ケースワーカーという予想もしなかった汚れ職場にぶち落とされ、三年でやっと移動できたと思ったら県営住宅の管理部門に回されてしまった。民間企業なら、面倒な相手とは付き合わなければ良いのだが、公務員はそうはいかない。どんな県民でも平等に接しなければならない。公務員の業務の方がやっかいなのではないか、僕はいつしかそう思うようになっていた。


 「鶴はなあ、シベリアと日本とを往復すんだよ」

 「うん」

 「俺あ、飛んでいる鶴を見て、馬鹿だなあって思ったっぺ」

 「え? どうして?」

 「だってなあ。シベリアに戻って来るんだからよお。ずっと日本にいりゃあいいっぺよ」

 鶴の箸置きから、箸が一本落下して乾いた音を立てた。

 「なんでわざわざ、あんな地獄みたいな場所に、戻ってくんだっぺなあ。シベリアが天国だとでも、思ってんのかなあ」


ある程度、自分の実体験に基づいて描いたこっぱずかしい作品です。今でも僕は飲み会の度に鶴の箸置きを作っています。

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