拳の名前
夜の新宿は、歩いているだけで神経を削られる。
ネオンの光、
通り過ぎる人の肩、
どこからか漂う酒と油の匂い。
笹山慎二と上山のりは、並んで歩いていた。
言葉は少ない。
だが、沈黙は重くなかった。
「……さっきの店」
上山が、ぽつりと言う。
「やっぱり、もう嗅ぎつけられてるね」
「はい」
笹山は前を見たまま答えた。
「俺らが遅いくらいです」
その瞬間だった。
――ブォン。
低いエンジン音。
一台じゃない。
二台、三台……。
大通りの向こうから、
黒いバンが次々と現れた。
「……なに」
上山が足を止める。
バンは減速し、
まるで打ち合わせでもしていたかのように、
二人を囲むように停まった。
前後、左右。
逃げ道は、ない。
「……関東連合だ。」
笹山が、低く言う。
バンのドアが、ゆっくりと開く。
一つの車両から、男が降りてきた。
長身。
無駄のない体つき。
スーツは高そうだが、着崩している。
目が、冷たい。
「久しぶりやな」
男は、笑った。
「あぁ……名前、言うた方がええか」
一歩、前に出る。
「沢見拳や」
笹山の背筋が、わずかに反応した。
(こいつが……)
沢見は、二人を交互に見たあと、
上山に視線を止めた。
「おいおい」
口元が歪む。
「こんなとこで、
そんなブスと散歩か?」
次の瞬間。
――ガッ。
笹山の拳が、沢見に向かって飛んだ。
考えるより、先だった。
だが――
沢見は、軽く身体を逸らしただけだった。
「短気やな」
そう言った直後、
沢見の拳が、笹山の腹に突き刺さる。
息が、一気に抜ける。
「……っ!」
続けざまに、顎。
視界が揺れる。
「やめて!」
上山の声が聞こえたが、
もう耳に入らなかった。
笹山は歯を食いしばり、
もう一度殴りかかる。
だが、沢見は一歩も下がらない。
拳、肘、膝。
無駄がない。
「弱いな」
静かな声。
「大阪のヤクザって、
この程度なん?」
次の一撃で、
笹山は地面に膝をついた。
「……くそ……」
立ち上がろうとするが、脚が言うことを聞かない。
沢見は、見下ろした。
「本当はな」
しゃがみ込み、耳元で囁く。
「お前、ここで殺してもよかった」
上山が、叫ぶ。
「やめて!やめてください!」
沢見は、ちらりと彼女を見る。
「……運がええな」
その瞬間だった。
――ウゥゥゥゥ。
サイレン。
赤色灯の光が、通りを染める。
「……チッ」
沢見が立ち上がる。
「警察や」
東京県警のパトカーが、数台滑り込んでくる。
「動くな!」
警官の声。
周囲のバンが、ゆっくりと距離を取る。
沢見は、笹山を一瞥した。
「続きは、また今度や」
そう言って、バンに戻る。
笹山は、地面に倒れたままだった。
警官が駆け寄る。
「君、大丈夫か!」
「……」
返事をする前に、
手首に冷たい感触が走った。
「事情聴取だ。立てるか」
「ちょっと!この人、被害者です!」
上山が食い下がる。
だが、警官は首を振った。
「喧嘩の現行だ。
署で話を聞く」
笹山は、上山を見た。
何か言おうとしたが、
言葉が出なかった。
「……すみません」
それだけ、絞り出した。
パトカーのドアが閉まる。
ネオンが、窓の外で流れていく。
沢見拳の顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。
――強い。
それだけが、はっきりしていた。
そして、笹山慎二は気づく。
この街では、
自分はまだ何者でもない。
関東連合は、想像以上に大きく、
自分はその中心に、
否応なく引きずり込まれている。
パトカーは、静かに走り続けた。




