隣を歩くということ
笹山慎二は、上山の店に戻ってきていた。
昼と夜の境目。
店内にはまだ照明は入っていない。
掃除の終わった床が、うっすらと光を返している。
「……ふぅ」
カウンターの椅子に腰を下ろすと、自然と息が漏れた。
歌舞伎町に来てから、
初めて“戻る場所”があると感じた。
それが、少し怖くもあった。
「何してるの」
背後から声がする。
振り返ると、上山のりが立っていた。
エプロンを外し、私服に着替えかけているところだった。
「ちょっと、調べ物を」
「何を」
「関東連合」
その言葉に、上山の動きが止まる。
「……朝の人たち?」
「そうです」
笹山は、ポケットから紙切れを出した。
路上で拾ったチラシ、噂話、聞き込みで得た断片。
どれも確証はないが、共通点だけは浮かび上がる。
「思ったより、デカい」
「何人くらい?」
「正確には分かりません。でも――
下手な組より、よっぽど多い」
上山は黙った。
その沈黙は、反対ではなかった。
「……例の女も、きっとそこに絡んでる」
「探すつもり?」
「はい」
短く、はっきりと答えた。
上山は視線を逸らし、
棚の奥からバッグを取り出した。
「じゃあ、準備する」
「……え?」
笹山が顔を上げる。
「私も行く」
「何言ってるんですか」
即座に返した。
「危険です。
相手はヤクザですし、
何があるか分からない」
「分かってる」
「分かってるなら、なおさら――」
「それでも」
上山は、こちらを見た。
「置いていかれる方が、嫌」
笹山は、言葉に詰まった。
「……足手まといになります」
「ならない」
即答だった。
「少なくとも、勝手に消えられるよりは」
その言葉に、笹山は何も言えなくなる。
しばらくして、店の裏口が閉まった。
二人は並んで、歌舞伎町を歩き出す。
「最初に行く場所は?」
上山が聞く。
「喫茶店です」
「喫茶店?」
「例の女が、前に働いてたとこ」
名前は――
「茶」。
地味な名前の店だった。
昼下がりの新宿から、少し離れた場所。
派手さのない通りに、その喫茶店はあった。
看板は古く、
ガラスには少しヒビが入っている。
「……ここ?」
「はい」
ドアを開けると、ベルが鳴った。
中は静かだった。
客は、年配の男が一人だけ。
カウンターの奥に、マスターらしき男が立っている。
「いらっしゃい」
「すみません」
笹山が、静かに声をかけた。
「前に、ここで働いてた女性のことで」
マスターの手が、一瞬止まる。
「……誰だ」
「名前は、分かりません」
正直に言った。
「でも、
何か知ってると思って」
沈黙。
やがて、マスターは溜息をついた。
「あんたら、何者だ」
「探してるだけです」
「それが、一番信用ならん」
それでも、マスターは続けた。
「あの子は、急に辞めた。
理由も言わずにな」
「どこに行ったかは?」
「知らん。
……ただ」
マスターは、コーヒーを淹れながら言った。
「最近、
妙な連中が、同じこと聞きに来た」
笹山と上山は、視線を交わす。
「関東連合ですか」
マスターは、答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
店を出ると、空は少し暗くなっていた。
「……やっぱり、もう動いてる」
「うん」
上山は、笹山の一歩後ろを歩いていた。
「ねえ」
「はい」
「後悔してる?」
「何を」
「私が、ついてきたこと」
笹山は、少しだけ考えてから言った。
「……正直、怖いです」
「じゃあ」
「でも」
足を止める。
「一人よりは、マシです」
上山は、何も言わずに隣に並んだ。
その距離は、
昨夜より、ほんの少しだけ近かった。
歌舞伎町のネオンが、また灯り始める。
二人はまだ知らない。
この選択が、
引き返せない一歩だったことを。
だが同時に、
この一歩がなければ、
何も始まらなかったことも。
例の女は、まだ影の中にいる。
関東連合は、すでに動いている。
そして笹山慎二と上山のりは、
初めて“同じ方向”を見て歩き出した。
――静かに、
だが確かに。




