名前が呼ばれる街
朝の歌舞伎町は、夜よりも正直だった。
酔い潰れた人間、
眠らない店の裏口、
掃除の水がアスファルトを黒く染めている。
笹山は、ふらふらと歩いていた。
怪我はまだ残っている。
だが、昨夜よりはマシだった。
(……大阪に比べたら、空気が軽いな)
そう思った瞬間、
背中に嫌な感覚が走った。
視線だ。
反射的に顔を上げる。
道の向こう側、
スーツ姿の男が二人、こちらを見ていた。
――松山組。
間違いない。
歩き方、立ち位置、目つき。
全部、見慣れた連中のそれだった。
(……まずい)
笹山が踵を返した、その時。
「おい!!」
声が飛ぶ。
次の瞬間、
二人は猛ダッシュでこちらに向かってきた。
笹山も走った。
だが、怪我した身体では無理があった。
腕を掴まれ、
壁に押し付けられる。
「久しぶりやなぁ、笹山慎二」
「……離せ」
「大阪で川に落ちて、行方不明。
まさか歌舞伎町とはなぁ」
もう一人が、周囲を確認する。
「例の女、どこや」
低い声だった。
「知らん」
即答した。
「ほんまに?」
「知らんもんは知らん」
男の顔が歪む。
「舐めとんのか」
腹に一発。
息が詰まる。
「松山組総出で探しとる女やぞ。
お前が関わってないわけないやろ」
「……関わってたら、
こんなとこでフラフラしてへん」
返事の代わりに、もう一発。
「もうええ」
もう一人が言った。
「連れてくぞ。」
路地の奥に、黒いバンが停まっていた。
ドアが開く。
そのときだった。
「――ちょっと」
女の声。
三人が同時に振り返る。
そこにいたのは、
上山のりだった。
私服のまま、
買い物袋を下げている。
「朝から、何してるんですか」
空気が、一瞬止まった。
「関係ない人は引っ込んでもろて」
男が言う。
上山は、一歩も引かなかった。
「関係あります」
はっきりと。
「この人、うちの店の人です」
男たちが顔を見合わせる。
「店?」
「キャバクラ。
昨夜も、ここにいました」
嘘ではなかった。
だが、真実でもない。
「身分、分かって言ってる?」
「分かってますよ」
上山は、静かに続けた。
「でも、ここ歌舞伎町なんで。
勝手に人さらうと、面倒になりますよ」
その言葉に、男の表情が変わった。
「……チッ」
舌打ち。
「今日はやめや。
どうせ、逃げ場ない」
腕が離される。
「覚えとけよ、笹山」
そう言い残し、男たちはバンに乗り込んだ。
去り際、窓が少し開く。
「ちなみに俺ら、もう松山組ちゃう」
「今は――関東連合や」
バンは走り去った。
静寂が戻る。
笹山は、壁にもたれて息を整えた。
「……なんで、ここに」
「たまたま」
上山は、そう言った。
「本当に?」
「本当に」
しばらく、二人は無言だった。
「……あの人たち」
「昔の知り合いです」
「そう」
上山は、それ以上聞かなかった。
「もう、店戻る?」
「……いや」
笹山は、前を見た。
歌舞伎町の通り。
朝の光に、街が剥き出しになっている。
「俺、探します」
「何を」
「例の女」
上山の眉が、わずかに動いた。
「やめた方がいい」
「わかってます」
それでも、笹山は言った。
「でも、もう一回、逃げるのはやめます」
上山は、少しだけ考えたあと、言った。
「生きて戻りなよ」
それは、命令でも忠告でもなかった。
笹山は、頷いた。
この街で、
初めて自分の居場所をくれた人の言葉だった。
歌舞伎町の朝は、もう終わりかけていた。
そして笹山慎二は、
再び“探す側”として、歩き出した。




