上山のりという人
目を覚ましたとき、笹山は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が低い。
白くもなく、汚れてもいない。
どこにでもありそうな部屋だ。
身体を動かそうとして、痛みが先に来た。
背中、肩、脚。
思い出す前に、身体が先に覚えている。
「……」
起き上がるのをやめて、しばらく天井を見ていた。
大阪の川。
橋。
前沢。
そこまで考えて、思考を止める。
今は、考えても仕方がない。
ドアの向こうから、物音がした。
グラスの触れ合う音。
水の流れる音。
しばらくして、ノックもなくドアが開く。
「起きてる?」
上山のりだった。
私服に着替えている。
派手さはないが、夜の街に馴染みすぎている服装だ。
「水、飲む?」
笹山は、ゆっくりと身体を起こした。
喉が、ひどく乾いている。
「……お願いします」
上山は無言でグラスを渡した。
水は冷たすぎず、ちょうどよかった。
「動けそう?」
「まだ、ちょっと」
「そう」
それだけ言って、上山はベッドの端に腰を下ろした。
距離は近いが、触れない。
「名前」
「……笹山」
「下は?」
「慎二」
「ふうん」
興味があるのかないのか、分からない反応だった。
「大阪から来たんでしょ」
「……はい」
「どうやって?」
笹山は、少しだけ間を置いた。
「覚えてへん」
嘘ではなかった。
上山は、それ以上突っ込まない。
「まあ、歌舞伎町はそういう街だから」
意味は、説明されなかった。
部屋の外から、掃除機の音が聞こえる。
店が、夜から朝へと切り替わっている。
「しばらく、ここにいる?」
上山が言った。
「泊めてくれる言うたやろ。今日はええ。でも明日は知らん」
「……それで十分です」
笹山は、正直にそう思った。
上山は立ち上がり、ドアに向かう。
「シャワー浴びたなら、洗濯機使いな。服、川臭い」
「……すんません」
「謝らなくていい」
言い切る声だった。
昼過ぎ、笹山は店の裏口から外に出た。
表に出る勇気は、まだなかった。
路地は相変わらず、歌舞伎町だった。
昼なのに、夜の続きをやっている。
チンピラが笑い、
ホストが煙草を吸い、
誰かが電話で怒鳴っている。
上山の店の前を通る人間は、誰も中を覗かない。
それが、この街の礼儀なのかもしれなかった。
夕方、上山は何も言わず、弁当を一つ置いていった。
コンビニのものだ。
「食べられる?」
「はい」
「無理しないで食べて」
それだけだった。
夜になって、店が開く。
キャバクラの照明が入り、音楽が流れる。
笹山は、バックヤードの椅子に座っていた。
客とキャストの笑い声が、壁越しに聞こえる。
その音は、道頓堀とは違った。
湿り気がない。
乾いている。
「……なあ」
気づくと、上山が隣に立っていた。
「ここで何してるん?」
笹山は、少し考えてから答えた。
「……何も」
「正解」
上山は、短く笑った。
「何かしようとすると、この街は噛みつく」
それ以上は、何も言わなかった。
その夜、笹山はまた同じ部屋で眠った。
夢は見なかった。
大阪のことも、前沢のことも、出てこない。
ただ、歌舞伎町の音だけが、遠くで鳴っていた。
目を閉じながら、笹山は思った。
この女は、
自分を助けた理由を、
最後まで言わないつもりだ。
そしてそれが、
この街で生きるやり方なのかもしれない、と。




