ゴミだまりの朝
朝かどうかは、分からなかった。
空は明るくなりきらず、夜が薄まっただけの色をしている。
歌舞伎町の路地は、時間を正確に進ませない。
笹山慎二は、ゴミだまりから立ち上がり、しばらくその場に立ち尽くしていた。
身体が、思うように動かない。
背中と肩が重く、息を吸うたびに胸の奥が痛む。
川の冷たさはもう残っていないが、代わりに鈍い痛みが、全身に居座っていた。
「……」
声を出す気にもなれず、笹山は歩き出した。
どこへ行くという目的はない。
ただ、ここにいないほうがいい気がした。
歌舞伎町は、朝でも騒がしい。
シャッターを半分だけ下ろした店。
酔いつぶれたまま動かない男。
掃除を始める店員。
夜と朝が、同じ路地ですれ違っている。
笹山は、その間を縫うように歩いた。
大阪と、空気が違う。
街が、人を見ない。
見ていないから、気にも留めない。
それが、少しだけ楽だった。
歩いているうちに、ふらつきが強くなる。
壁に手をつくと、掌が汚れた。
それでも構わなかった。
「おい」
背後から、声がした。
振り向くと、若い男が二人立っている。
派手な髪。
安っぽい服。
歌舞伎町の“いつもの顔”だ。
「兄ちゃん、大丈夫?」
「顔、やばいよ」
心配しているふりをしているが、目は違う。
値踏みだ。
笹山は一歩、後ずさった。
それだけで、足がもつれる。
——無理だ。
殴り返せない。
身体が、戦う準備を拒否している。
「いや、平気や」
そう言って、笹山は逃げた。
走る、というほどの速度じゃない。
ただ、方向を変えて、必死に歩く。
後ろから、舌打ちが聞こえた。
「めんどくせぇな」
足音が近づく。
笹山は歯を食いしばった。
そのときだった。
「ちょっと、何してんの」
低い、落ち着いた声。
振り向くと、路地の入口に女が立っていた。
三十代半ばくらい。
派手すぎないスーツ。
ヒールは履いているが、走れる高さだ。
「うちの店の前で、揉め事やめてくれる?」
チンピラたちは、一瞬だけ女を見る。
それから、興味を失ったように肩をすくめた。
「なんだよ」
「もういいわ」
二人は、そのまま去っていった。
女は、笹山のほうを見る。
「……あんた、歩ける?」
笹山は、頷こうとして、少し遅れた。
「上山のり」
女は短く名乗った。
「この近くで、キャバクラやってる」
それだけ言って、踵を返す。
「ついてきな」
断る理由は、なかった。
店は、表通りから少し外れた場所にあった。
看板は出ているが、まだ開いていない。
中に入ると、照明は落とされていて、夜の匂いが残っている。
酒と香水と、疲れた空気。
「そこ、座って」
ソファに腰を下ろした瞬間、笹山の身体は正直になった。
力が抜け、深く沈み込む。
上山は、じっと笹山を見る。
「大阪?」
「……なんで分かる」
「喋り方」
それだけだった。
しばらく、沈黙が落ちる。
「泊めてほしい」
笹山は、絞り出すように言った。
「一晩でええ。金は……あとで、なんとかする」
上山は、すぐには答えなかった。
カウンターにもたれ、タバコに火をつける。
煙が、ゆっくりと上がる。
「理由は?」
「言えへん」
「そう」
それ以上、聞かれなかった。
「シャワー浴びて、寝な」
「客用の部屋、使いな。今日は誰も来ない」
上山はそれだけ言った。
笹山は、深く頭を下げた。
「……助かります」
上山は、もうこちらを見ていなかった。
シャワーを浴びながら、笹山は初めて、自分が生きていることを実感した。
水が、血と汚れを流していく。
ベッドに横になると、天井がゆっくり回る。
歌舞伎町の朝は、まだ来ない。
だが、夜は確実に続いている。
笹山は、目を閉じた。
この街に、しばらく身を預けるしかない。
そう思いながら、意識を手放した。




